君の声

 止まっていた二人の時間が、ゆっくりと動き出した。

 京平と拓馬に背を向けて歩き出した。詩織の笑顔が浮かんでくる。何よりも大切にしたいその笑顔は、きっと忘れない。
 その時だった。
 
「樹————!!」

 聞こえた声に足が止まる。呼ばれた気がした。愛しくてたまらない、優しい声に。
(いや、そんなはずはない)
 彼女は樹のことを忘れている。『樹くん』と呼んでいた声は今は『佐野さん』と呼ぶ。ましてや、『樹』なんて呼ぶはずがない。学生時代にどれだけ強請っても恥ずかしがって呼んでくれなかった呼び名だった。
 樹は振り払うように止まった足を踏み出した。
「待って!樹!お願い!」
 もう聞き間違える筈がなかった。思わず振り返ると走ってくる愛しい彼女が、そこにはいた。
「なんで……」
 思わず呟く。詩織には何も伝えていなかったはずなのに、なぜ彼女がここにいるのか。
 その時、足のもつれた詩織が転びそうになる。身体が勝手に動いた。詩織が倒れる直前、その体を包み込むように抱きとめた。
「……樹」
 息を切らして樹を見上げる詩織の瞳から涙がこぼれ落ちている。
「……どうして君が」
 詩織は樹のシャツをぎゅっと掴んだ。
「なんで、黙って行こうとするんですか!!」
 樹を遮って詩織が叫ぶ。
「私はまだ何も伝えてない!いつもそう……あの時だって」
 樹は黙り込む。シャツを掴む詩織の手が震えている。
「樹くんは全部ひとりで決めちゃうから」
「私はただ樹くんがいてくれればよかったのに」
 顔を埋めて声を震わせる詩織に樹はただ戸惑う。
「……好き」
 その一言が、樹の耳にまっすぐ届いた。思わず腕の中の詩織を見れば濡れた瞳が樹を見ていた。もう一度詩織が言う。
「樹が好きなの。」
 もう、我慢はできなかった。抱きとめた腕に力を込めて詩織の小さな体を抱きしめる。
「……詩織」
「ごめんね。私、樹のこと忘れてた」
 詩織の腕が樹の背中に回る。
「許してくれる?」
「……当たり前だろ」
 樹の声は震えていた。
「よかった」
 安心したように笑う声が耳に響く。
「……好きだよ」
「うん。」
 背中に回った腕に力がこもる。少しの間抱き合ったあと、ゆっくりと体を離す。
「……でもどうしてここに?」
「それは……」
 小さく呟いた詩織はそっと視線を逸らす。その視線の先には綾が、その隣には拓馬と京平が並んでいた。
「お前ら……」
「綾が、教えてくれたの。」
 三人がゆっくりと二人に向かって歩いてくる。
「拓馬くんから連絡もらって」
 綾の言葉に樹は思わず拓馬を見る。
「このままでいいわけねぇじゃん」
「格好つけやがって」
 拓馬と京平は呆れたように言う。樹と詩織の前で立ち止まると三人は安心したように笑う。
「お前らはそうやってるほうが似合ってる」
「やっと、て感じ?」
「詩織はやっぱり樹くんの隣にいなきゃ」
 それぞれの言葉に樹と詩織は思わず顔を見合わせた。