君の声

 しばらくしてタクシーが空港に滑り込むように入っていく。停車すると綾は詩織の背中を押した。
「詩織は行って!」
 詩織は頷いて、タクシーを降りると駆け出した。
(どうして、何も言ってくれなかったの?)
 昨日、最後に頭を撫でて優しく笑う樹が思い浮かぶ。
 あの時にはもう海外へ行くことを決めていたなんて。
 また会えると、想いは通じていると思っていた。
(佐野さん……)
 樹の真剣な眼差し。無邪気に笑った顔。運転する横顔。子どもに混じってバスケを楽しむ姿。
 どこか懐かしいと思っていた樹の姿が浮かんでいく。
 
 一緒に過ごす時間が増える度、何度も懐かしくなった。
 ずっと前から知っているような、そんな気がして。

 でも。

 知っていた。
 ずっと、私のそばにいてくれた温もりを知っていた。
 
 夕陽に照らされた放送室に立つ後ろ姿が浮かぶ。

『高校の同級生だよ』

 綾の言葉がよぎる。

『詩織』
『白石さん』
 優しく自分の名を呼ぶ声が重なった。
「いつ、きくん……」
 呟いた時、記憶の中の彼が振り返る。
 今より少しだけ幼い樹が笑う。
 
 その瞬間。
 
 放課後の体育館。
 一人でいた私の前に、笑って現れた彼。
 
 雨の日の放送室。
 何も言わず、ただ傍にいてくれた。
 
 一緒に覗き込んだ、スマートフォン。

 夏の体育館裏。
 汗の匂いの中で感じた少し早い鼓動。
 
 夏の夜に繋いだ少し冷えた手。
 触れた瞬間、嬉しくてたまらなかった。
 
 『充電』と笑いながら包まれる温もり。
 くすぐったくて、けど少し寂しかった。
 
 胸の奥が、痛い。
 
 冷えた手料理。返ってこなかった返事。
 見たくなかった通知。
 送れなかった一言。
 それでも、届いた一通のメッセージ。

 次々と景色が繋がって、途切れていた時間が一つになる。
 
 嬉しかった。
 幸せだった。
 寂しかった。
 それでも、
 大好きだった。
 
 なのに。

 なのになんで、離れちゃったんだろう。
 
 気づけば走る詩織の頬に涙が一筋流れていた。

『好きだ』
『俺、君が好き』
 少し緊張した、あの声。

『俺には詩織だけ』
 笑いながら温もりと一緒にまっすぐ届いた声。

『詩織には関係ない』
 あのときの、焦った声。

『一緒にやれてよかった』
 温かくて優しい声。

『大丈夫』
 安心する、その声。

『白石さん』
 優しく名前を呼ぶ声。

 そして——

『詩織』

 精一杯の愛しさが詰め込まれた大好きだった声が聞こえる。

「樹くん……」
 小さく零れる声。
『なに?』
 そう言って笑う声が聞こえた気がした。
 
 笑ってても、困ってても、怒ってても。
 私を見る目はどこまでも温かくて、優しかった。

 だけど今は、
 優しく微笑むその姿が、
 その背中が少し遠くなるような錯覚を覚える。
 思わず記憶の中の樹に手を伸ばす。
 
(お願い)
(まだ)