君の声

 土曜日。樹は朝一番に愛車を洗車に出した。磨き上げられた車体は朝日が反射してキラキラ光っている。満足げに眺めると今度は車内に手を掛けた。樹は鼻歌まじりに車内を磨いていく。樹はいつもより少しだけ念入りに磨き上げた。
 約束の午後。樹は詩織のマンションの前で車を停める。少し早めに合流して、夕飯を一緒に食べる約束をしていた。メッセージを送るとすぐに既読がつく。ほどなくして詩織が自動ドアの向こうからやってきた。樹は車を降りて、助手席のドアを開ける。
「お待たせしました」
「今着いたところだから、気にしないで。行こうか」
 詩織が乗り込んだことを確認しドアを閉める。運転席に乗り込み、車を発進させた。
「何食べたい?」
「決めてないんですか?」
「俺が決めるの?」
 車内にはそんな何気ないやりとりが流れる。二人は笑い合う。
「……最近できた気になるカフェがあります」
「そこにしようか」
 詩織がスマートフォンを見ながら零した声を拾って樹が言う。
「いいんですか?」
「俺は白石さんが行きたいところでいいから」
「もう。すぐそういうこと言いますよね」
 詩織は少し怒ったように言って窓の外を見る。朝磨き上げられたガラスに反射する頬は少し赤かった。その姿を見て樹は思わず笑う。
「ごめんって。ほら、そのカフェはどこ?」
「……次の信号を右に曲がってください。」
 詩織はスマートフォンを見ながら呟いた。
 詩織の道案内で辿り着いたカフェは少しだけ行列ができていた。車を停めて、二人も行列に並ぶ。
「結構並んでるんだな」
「SNSで人気のお店なんです。……並ぶの嫌ですか?」
 詩織は隣に立つ樹を不安そうに見上げる。樹はふっと笑って言った。
「いいや、平気だよ」
「よかった」
 詩織はほっとしたように笑った。その笑顔を見て樹も自然と笑みを零す。それから他愛もない話をしていると店員に席へ案内される。メニューを開いて目を輝かせる詩織に樹は思わず笑う。
(待った甲斐があった)
 詩織の表情に樹は心の中で呟いた。
 それぞれが注文を終え、料理を待つ間に詩織が言った。
「そう言えばこの間、社長に自慢されました。」
「自慢?」
「はい。佐野と飯行ってきたぞ、って。なので、月曜日私も自慢してやります」
「なんでそうなるの」
 誇らしげに言う詩織に樹は思わず吹き出す。
「先に自慢してきたのは社長です。」
「そこで張り合ってどうする」
 笑いながら樹は詩織を見る。本気で張り合っている姿がどこか可笑しくて愛おしい。そのうちに料理が運ばれてくる。今度は料理の話で盛り上がりながら二人は食事を楽しんだ。
 食事を終え、店を出ると並んで駐車場へ向かう。
「ちょっと時間早いな。どうする?」
 車に乗り込み腕時計を確認した樹が言った。夕方から始まる『秋の星空~星に刻まれた物語』の上映まではまだ時間があった。
「とりあえず会場へ向かうか」
 樹はそう言ってエンジンをかけた。動き出した車内で詩織が呟く。
「佐野さんとなら、どこでもいいです」
「……それ、さっきの俺のセリフ」
「……分かりました?」
 ふふっと詩織が笑う。樹は小さく息を吐く。
 信号待ちで止まった間に樹はナビを設定する。
「でも、本心です」
 俯いて小さく呟いた詩織の言葉は樹には聞こえていなかった。
「なんか言った?」
「いいえ」
 笑う詩織を樹は少し不思議そうに見てハンドルを握り直した。
「やっぱり早かったか。」
「そうですね。……少し歩きませんか?」
 車を降りたところで詩織が提案した。
「いいよ」
 樹が笑って頷くと、二人は並んで歩き始めた。
 土曜の午後。街には買い物を楽しむ人たちの姿があった。ショーウィンドウを眺めながら歩く人、子どもの手を引く夫婦。穏やかな時間がゆっくりと流れている。
「今日は涼しいですね」
「だいぶ秋っぽくなってきたな」
 風が街路樹を揺らし、色づき始めた葉が足元へ舞い落ちる。詩織はそれを眺めながら小さく微笑んだ。
「……かわいい」
 少し歩いた先で詩織の足が止まる。見つめるガラスの向こうには硝子細工が並んでいた。
「気になる?」
 後ろから樹が問いかけると詩織は頷いた。
「入ってみるか」
 樹は店のドアを開ける。カラン、と小さなベルの音が店内に響く。中に入るとそこには硝子細工の他にも、いろいろな工芸品が置いてあった。
「好きに見てきなよ」
「いいんですか」
 詩織は棚に並ぶガラス細工を一つひとつ覗き込む。小さなガラス細工を手に取っては、光にかざして嬉しそうに目を細める。樹はそんな詩織の後ろを、ゆっくりとついて歩いた。工芸品には詳しくない。けれど、楽しそうに笑う詩織を見ているだけで十分だった。
「綺麗ですね」
「……そうだな」
「ねぇ、佐野さん……!」
 ガラス細工を手に取って呟いた詩織に樹も呟く。振り返った詩織と目が合った。詩織の目が丸くなる。
「ん?」
「……なんで私を見てるんですか」
「楽しそうだったから、ついね」
「もう」
 そう言って笑う樹に詩織は照れたように目を伏せる。それからしばらく二人はゆっくり店内を見て回った。
「さて、そろそろ行こうか」
 樹は腕時計に視線を落とした。
「そうですね。」
 詩織も頷くと名残惜しそうに振り返って店を出た。夕方の柔らかい風に包まれながら、二人は並んでプラネタリウムへ向かう。入り口でチケットを見せ、席に座る。
 ほどなくしてプラネタリウムの上映が始まった。満天の星が頭上いっぱいに広がる。夜空をゆっくり流れる星々を眺めながら、詩織は小さく息をのんだ。
「……きれい」
 その声は暗闇に溶けるほど小さかった。隣では樹も静かに夜空を見上げている。
 詩織の視線がそっと樹に向く。淡い光に照らされた横顔は穏やかで、どこか少しだけ寂しそうに見えた。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。何を言えばいいのか分からない。それでも、今は隣にいることだけを感じていたかった。
 詩織はゆっくりと肘掛けの上に置かれた自分の手を動かした。ほんの少しだけ勇気を出して、小指が樹の手の甲に触れる。その温もりに気づいた樹がゆっくりと視線を落とした。暗闇の中で目が合う。詩織は恥ずかしそうに視線を伏せ手を引っ込めようとした、その瞬間。樹が逃さないようにその手を包んだ。強く握る訳でもなく、確かめるような優しい温もりだった。詩織は小さく息をのみ、指先に少しだけ力を込める。
 二人は何も言わない。
 言葉はいらなかった。
 静かな星空の下で重なった手だけが、お互いの気持ちを静かに伝えていた。
 やがて上映は終盤へと差しかかる。ゆっくりと夜明けを思わせる淡い光が空に差し始め、星々が一つ、また一つと姿を消していく。最後の一つが消える直前、二人の手はゆっくりと離れていく。最後の一つも消えると、場内に静かな拍手が響いた。
 ゆっくりと場内が明るくなる。目が合うと詩織は照れくさそうに視線を伏せる。樹は何も言わず、小さく笑う。
「行こうか。」
「……はい。」
 立ち上がり会場を出る。入り口は人で溢れていた。
「……人、多いから」
 樹はそう言って手を差し出す。詩織は何も言わずにその手を握る。繋いだ手はしっかりと握られていた。もう、離す理由はなかった。夕陽が茜色に染めた街並みの中、駐車場までの道のりをゆっくり歩く。
「綺麗でしたね」
「そうだな」
「星ってあんなにたくさんあるんですね。」
「なかなか見られないもんな」
「また行きたいですね」
「そうだな」
「冬とか、綺麗なんだろうなぁ」
「……冬は綺麗って言うよな」
 楽しそうに笑う詩織を見て、樹も自然と口元を緩めた。
「……あの」
「ん?」
「手、繋いだままでよかったんですか?」
 樹は繋がれた手を見下ろして笑う。
「嫌だった?」
「……嫌じゃないです」
「ならいいじゃん」
 詩織の返事を聞いて樹は満足そうに笑って、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
 他愛もない話をしているうちに二人は駐車場に戻ってきた。樹は助手席のドアを開けて詩織を促す。詩織がシートベルトを締めるのを見届けて樹も車に乗り込む。エンジンをかけ、ゆっくりと発進させた。
「腹減ってない?」
「んーそんなに。」
「じゃあ飲み物でも買いに行くか」
 樹はそう言って近くのコンビニにハンドルを切った。それぞれ飲み物を買うと再び車は走り出す。
「佐野さん、いつもコーヒーですよね」
 詩織は樹の手元を見ながら呟く。
「これが一番落ち着くんだよね」
「そうなんですね」
「そう言う白石さんもカフェオレじゃん」
「……あ」
 樹が詩織の手元を見て言えば、詩織も気づいたように声をあげる。
「つい、選んじゃいました」
 そう言って照れたように笑う詩織に樹の口元も緩む。
 気づけば詩織のマンションが見え始めた。マンションの近くのパーキングに車を停め、二人でマンションまで歩く。
「今日はありがとうございました。」
「こちらこそ。……そうだ。はいこれ。」
 樹は立ち止まるとポケットから小さな紙袋を取り出して詩織に差し出した。
「開けてみていいですか?」
 詩織の問いかけに樹は頷く。紙袋を開けた詩織が小さく声をあげる。中から取り出したのはガラスでできた砂時計だった。海のように青い砂が光っている。
「これ……」
「今日付き合ってもらったお礼。」
「……いつの間に」
「白石さんが席を外した時にね。」
 樹はそう言って笑う。
「いいんですか?」
「貰ってくれたら、俺が嬉しい。」
「ありがとうございます。」
 詩織は少しだけ瞳を潤わせて嬉しそうに微笑む。
「大切にします……」
 そう言って砂時計を胸に抱いた詩織に思わず樹の手が動く。一瞬迷ったように止まると、そっと詩織の頭を撫でる。
「佐野さん……?」
「……ありがとう」
 そう言って手を下ろすと笑った。詩織は不思議そうに樹を見上げる。
「……冷えてきたから、早く入りな」
「……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
 嬉しそうに手を振って自動ドアを潜る詩織を樹は見送った。詩織の姿が見えなくなると、頭を撫でた自分の手を見つめ握りしめる。
「……ばいばい、詩織」
 そう呟いて、振り返ると車に向かって歩き始める。その背中を秋の夜風が追い越していった。