君の声

 週末。
「先輩!今日、19時ですからね!!」
 昼休憩中に広瀬が樹の元にやってきて言った。広瀬を発起人として、イベントの打ち上げをやることになっていた。
「あぁ、報告書が終わればな」
 樹は缶コーヒーを口にしながら言う。イベントが終わって数日。樹は報告書の作業に追われていた。
「先輩来ないと意味ないですから!終われば、じゃなくて終わらせて下さい!」
 ずい、っと顔を近づけて広瀬が言う。樹は苦笑いを浮かべながら「分かった、分かった」と返事をした。
 広瀬に海外赴任を告げたのは一昨日のことだった。まだ正式な人事発令前で知っているのは社長と一部の関係者、それに広瀬だけだった。一番信頼している部下だからこそ、自分がいない間の仕事を安心して任せられるよう、引継ぎを進めていた。
「せっかく白石さんたちも呼んでるんですから、絶対ですよ!」
 広瀬の言葉に樹の動きが止まる。
「……白石さんたちも来るの?」
「あれ?俺言いましたよね。てか、呼んだらいいって言ったの先輩ですからね」
 そう言われて樹は少し記憶を辿る。
 ……そう言えば、そんなこと言った気もする。
「……そうだった気がするわ」
「もう、しっかりしてください!」
 呆れたように言う広瀬に樹は「悪い」と呟いて缶コーヒーに口をつけた。

 終業後。樹は一度帰宅し、電車で店に向かう。報告書は広瀬が手伝うと言って強引に定時で終わらせた。スーツだと硬いから、と私服を指定され、着替えに帰る羽目になった。やたら張り切る広瀬の姿を思い出して、樹は小さく笑う。
 初めて教えた後輩だった。先輩、先輩と必死についてくる姿に樹自身も刺激されてきた。だからこそ、自分の後を任せたいと思った。
 過去を思い返しながら歩いていると少し前に見慣れた後ろ姿が目に入る。思わず樹は駆け寄った。
「白石さん」
 振り返った詩織が一瞬目を丸くしたあと、ぱっと笑顔を浮かべる。
「佐野さん。こんばんは」
「久しぶりだね。」
 イベントが終わってからも、他愛もないメッセージのやりとりは続いていた。それでも顔を合わせるのはイベント最終日以来だった。樹の胸の奥がほんのり温かくなる。二人は並んで歩いた。
「日曜日以来ですね。今日は呼んでいただいてありがとうございます。」
「白石さんたちのおかげで成功したようなものだから。来てくれてありがとう」
 そう言うと、詩織も嬉しそうに笑った。
「今日は歩きですか?」
「出勤は車だったんだけどね。広瀬に置いてこいって言われて一回帰ってきた」
 詩織が「広瀬さんらしい」と笑う。
「それで私服なんですね」
「これも広瀬の指示。スーツは堅苦しいから認めません!とか言ってた」
「ふふ。うちにもドレスコードの連絡きました。」
「あいつ、ヴォイスパレットさんにも言ったの?」
「はい。でも、うちはあんまりスーツの人いないので大丈夫ですよ」
 そんな何気ない会話を続けながら歩いていると目的の店が見えてきた。ちょっとおしゃれな居酒屋。その店の入り口を潜ると店員に奥の座敷へ案内される。
 襖を開ければそこにはイベントを共に駆け抜けた顔ぶれが揃っていた。
「あ、佐野チーフ!」
「白石さんも一緒じゃないですか!」
「あれ、もしかして……」
 次々に上がる声に樹は苦笑いを浮かべた。
「途中で一緒になっただけ。そうやってすぐからかうな」
 輪に入っていく樹を詩織はぼんやりと見つめていた。人の輪の中心にいる樹に胸の奥がギュッと掴まれたような感覚になる。
(なんで……)
 樹は詩織に空いた席を促した。
「白石さん、ここ空いてる」
「主役は奥です!」
「いや、俺は隅でいい」
「だめです!先輩、奥へ!!」
「白石さんも!」
 詩織に席を促しながら樹は広瀬をはじめとする部下たちに強引に上座へ追いやられていた。詩織も同僚たちに前へ追いやられる。気づけば二人は隣同士に座っていた。
 樹が渋々席に着いたところで広瀬が立ち上がった。
「皆様、お揃いですね!飲み物頼まれてない人は?あ、先輩は生頼んでます」
「俺に選択肢はないのか……」
 樹の小さな呟きは広瀬には届かない。それでも樹はどこか楽しそうにしている。樹は隣に座る詩織へ視線を向けた。
「白石さん、何飲む?」
「あ、じゃあカシスオレンジで」
「了解。広瀬、カシオレ一つ追加。」
 樹の声に広瀬が手で丸を作る。それを確認すると樹はもう一度詩織へ向き直る。
「ごめんな、賑やかで」
「いえ、楽しいです。」
 困ったように言う樹に詩織は笑顔を見せる。「それならよかった」と呟いて樹は前を向いた。