あなたを手放す予定は、私の計画にありません――冷徹な首切りコンサルに、規定外の溺愛をされています


 午後一時、第三会議室。

 カウンターパートとしての最初の打ち合わせは、篠宮と二人きりだった。

 篠宮は席に着くなり、A4一枚をこのみの前に置く。

「今週中にお願いしたい資料です」

 等級別の人員分布。

 過去五年の評価分布と昇格実績。

 部門別の時間外労働の推移。

 離職率と退職理由の内訳。

 賃金テーブルと諸手当の一覧。

 就業規則と労使協定の全文。

 それから、現行の評価制度の規程と運用マニュアル。

(これが……リストラの材料になるのかな……)

 自分で集めた数字で、誰かの席が消えるかもしれない。

 気が重いなんてものじゃない。

 一読して、このみは顔を上げる。

「……半分は、部長決裁が要る資料です」

「決裁は今日中に取ります。取れなかったものは私の名前で正式に請求します」

「分かりました。──ひとつ、伺っていいですか」

「どうぞ」

「なぜ、私なんですか」

 篠宮は初めて、資料ではなくこのみを見た。

 切れ長の目は、昨日壇上で見たときより近い。

 近いと分かってから、机一枚ぶんしか離れていないことに気づく。

「昨日の説明会の受付名簿。あなたが作ったものですね」

「……はい」

「部署と氏名の並びが、組織図の順ではなく、講堂までの動線の順になっていた。製造棟から来る人が最初に受付に着く並びです。ああいう名簿は、数字だけ見ている人間には作れません。私は、人と数字の両方をバランスよく見ているあなたのような人と、組みたいんです」

 確かに、デフォルトのリストだと社員名簿順になる。

 だが、このみが受付をする際は、普段早く集まってくれる部署から順にリストを作成していた。

 名簿の並び順なんて地味な仕事、気づいてくれたのは篠宮が初めてだった。

 この人は、私の仕事を見て、私を選んだ。

 膝の上の手に、意味もなく力が入る。

 ……嬉しい、と思いかけた自分に、少し遅れて気づいた。

 この状況で、何を喜んでいるのだ。

「それだけですか」

「今は、それだけです」

 今は。

 引っかかる言い方をする人だ。

 追加の質問をする前に、篠宮は次の紙を出した。

「進め方の確認です。三点あります」

 一点目、データはすべて生の数字で。

 加工や要約は不要。

 二点目、悪い数字ほど早く伝えること。

「三点目。今後、社員への告知文書はすべて私の名前で出します」

 このみはメモの手を止めた。

「……人事部の名前ではなく、ですか」

「再建に関わる告知は、すべて外部の私の名義です。質問と苦情の宛先も私に集約してください」

「それは」

 言葉を選ぶ前に、口が動いていた。

「それは、篠宮さんが全部悪者になるということですか」

 篠宮の手が、一瞬だけ止まった。

「──社内の人間同士で恨み合うのが、再建ではいちばんの損失です。恨みは外に向くほうが、早く、効率的に再建が進む」

 資料の説明とまったく同じ、平坦な何も感じさせない声で篠宮が言う。

「私は一年半でいなくなります。恨みごと持って帰るのが、外部の仕事です」

 半年で三百人切った、という千夏の声が、頭の中で再生された。

(三百人切った人は、三百人ぶんの恨みの宛先を、自分にしてたってこと……?)

「……わかりました」

 このみの返事に、篠宮は短く付け足した。

「進め方を先に固めるのは、迷う時間を消すためです。決められない時間が、いちばん人を傷つけるので」

 その一言だけ、ほんの少し、速かった。

「では、規程から見せてください。写しはありますか」

 このみは持参したファイルから、評価制度の規程を差し出した。

 自分も作成に関わった規程だ。

 もちろん、表紙には人事部という記載しかないのだが。

「先に、評価以外の制度から確認させてください。等級や役職定義が評価に関わってくることも多いので」

 言うなり、篠宮は腕時計を一瞥して立ち上がった。

 机を回り込んで、このみの隣に立ち、このみのパソコン画面を見つめる。

(え……っ)

 と思ったときには、もう隣に顔があった。

 長机の同じ側。

 椅子ひとつぶんも空いていない距離で、息遣いを感じる。

「三等級と四等級の境目。ここの運用は」

 声が、思ったより近くで落ちた。

 マイクを通さない、生の声だった。

 低くて、少し湿度がある。

(耳の横で聞くと、こんな声してるんだ……)

「──に、二次評価で調整会議が入ります。部門間のばらつきを、そこで調整します」

「調整会議の議事録は」

「残っています。請求リストに追加します」

 机に置かれた篠宮の白く大きな手を見ながら、声が上ずらないように、わざと抑えたような声で言った。

 そして、篠宮は私のマウスを奪い、自分でパソコンを操作する。

 骨ばった白い手が、滑らかに画面上のカーソルを動かす。

(近い……。この人、距離の取り方おかしくない?)

 別になんとも思ってなくても、つい慌ててしまうくらいの距離感だ。

 椅子を半分引いて、距離を空けることもできた。

 ……もちろん、そんなことはしなかった。

 パソコンから、目を離せなかったし。

 仕事だし。

 心臓の音が、隣に聞こえていないだろうか。

 いや、何を考えているんだ、私は。

 これは打ち合わせで、相手は明日からこの会社を切り刻むかもしれない人で──。

「倉橋さん」

「はいっ」

 返事が半音高くなった。

「四等級の滞留年数は」

「……平均六・二年です。長いです。詰まって、います」

「詰まってますね」

 篠宮は事務的に頷いて、自分の席へ戻っていった。

 何事もなかったような顔で、資料の山から次の一冊を引き抜いている。

 このみは別表の同じ行を、意味もなく三回読んだ。

 数字が頭に入らない。

(……なに、どぎまぎしてるのよ?)

 なんだか調子が狂う。

 ……やりにくい。

 ……たぶん、顔がいいから、だけじゃない。

 この人は、名簿の並びを含め、いろいろなことを見ている。

 見られている側としては落ち着かない。

 篠宮は受け取った規程のページをめくり始めた。

 速いのに、読み飛ばしている感じがしない。

 等級定義のページで、指が止まった。

 評価項目の一覧だった。

 成果目標。

 行動評価。

 等級別のウェイト。

 篠宮は、そのページを開いたまま、しばらく動かない。

 それから、顔を上げずに言った。

「──この制度、項目がひとつ足りない」

 心臓が、嫌な音を立てた。

「どういう、意味ですか」

 篠宮は答えなかった。

 規程を閉じて、表紙をこのみのほうへ向ける。

「次回までに、この規程の改定履歴をお願いします。──改定前の版も、すべて」

(改定前の版も、すべて──)

 その意味を考えると、指先から血が冷えた。