翌朝、会社ではこんな噂が流れていた。
「四階に席ができるらしいよ、例のコンサル」
「役員フロアじゃないんだ」
「現場に近いほうがいいんだって。……怖くない?」
始業前の給湯室で、そんな声が聞こえる。
緑のタイルの壁に、ひそめたつもりの声がよく響く。
このみは昨日の電話メモを手に取り、今日やるべきことを整理する。
早くこれらを処理していかないといけない。
始業から三十分ほどたってから、課長が受話器を置いて、このみを見た。
「倉橋、十時から第一会議室行ってくれ。ファンドとの顔合わせだ」
「私もですか」
「私も、じゃなくて、お前が呼ばれてるんだよ」
課長は変な顔をしていた。
(なんで私?)
その理由は、すぐに分かることになった。
第一会議室、長机の向こうにファンドの男二人と、篠宮がいた。
こちら側は藤堂常務、人事部長、課長、そして末席にこのみ。
手元のメモパッドはハルシマ製で、どうやら篠宮も同じものを使ってくれているようだった。
重い空気の中で、藤堂常務がしゃべる。
「いやあ、昨日の説明会は良かった。ああいう場はね、誠実さが伝わることがいちばんですから」
恰幅のいい体に、ぴたりと撫でつけられた七三の髪型。
笑うと皺が寄る目尻。
若手のあいだでは「話の分かる役員」で通っている人だ。
藤堂常務の発言に対しファンドの男も何ごとか笑顔で返し、一枚の紙を配る。
このみはそれを手に取った。
どうやら今後の体制図のようだ。
「再建計画の策定にあたって、各部門にカウンターパートを置かせていただきます。人事領域は──」
「倉橋さんにお願いします」
ファンドの男の言葉にかぶせるように篠宮が言う。
一瞬、会議室が静まり返った。
人事部長が咳払いをする。
「篠宮さん、人事領域の窓口ということでしたら、私が」
「部長には決裁をお願いします。実務のカウンターパートは倉橋さんに」
「いや、しかし、倉橋はまだ主任で」
「役職は関係ありません」
篠宮は手元の資料から顔を上げずに続ける。
「必要なのは、この会社の制度と運用データをいちばん正確に把握している方です」
部長の顔が少し赤くなる。
それはそうだ。
部長の前で、制度をいちばん知っているのは主任だと言ったようなものだ。
(なんで、そんなこと言うのよ……)
このみは自分の力の及ばないところで、バチバチされることにひやひやしながら、この嵐のような空気が収まるのを待った。
そして、そんな沈黙を埋めてくれたのは、藤堂常務だった。
「いいじゃないですか。若い人に任せるのは、いいことです」
柔和な表情。
「倉橋さん、でしたか。大抜擢だねえ。頑張って」
感じのいい声だった。
(……でも、なんだろう。感じはいいのに、この人の言葉って変にねっとりしてる)
「──承知しました」
違和感を覚えながらこのみが答える。
篠宮は一度だけこのみを見て、すぐに資料へ戻る。
昨日、渡り廊下でフルネームを呼んだ人と同一人物とは思えない、事務的な目だった。
会議が終わって席に戻ると、課長が寄ってきた。
「……なんでお前なんだろうな」
「私が聞きたいです」
「普通は部長か俺だろ。まぁ、俺としては進んでやりたい仕事ではないけど」
私も別にやりたくはない。
そのうえ、わざわざ部長を逆撫でするような言い方をして……。
会議が終わって一時間もしないうちに、千夏からのメッセージがきた。
『ねえ! 例のコンサルの相手役に指名されたってほんと!?』
情報伝達が速い。
この会社の機密情報はどうなってるんだろうと不安になる。
『相手役って言い方やめて。仕事の窓口』
『相手役じゃん! てかなんでそういう体制の話が先に総務に回ってきてないのよ~』
『総務なのに、何にも知らなかったんだ』
『総務でも知らないことはあるの~。あ、でも委嘱契約の書類は見た。篠宮さん、三十二歳だって』
『若くない?』
人事領域の名門コンサル会社ピースフェリー。
新卒は取らず、中途も手練れのプレイヤーしか取らないハイクラスのコンサル会社だ。
そのことを考慮すると異例の若さだろう。
『若い。うちらの五つ上。あと独身らしいよ』
『最後の情報いる?』
『相手役だからいるかなって』
既読をつけたまま、返事はしなかった。
昼休み明け、コピー機の前で視線を感じると、経理の女子社員が二人、給茶機の前でこちらに背を向けて立っていた。
声は抑えているつもりなのだろうが、コピー機の作動音の切れ目に、声が届く。
「──で、なんで倉橋さんなの?」
「わかんない。でも、部長飛ばしたらしいよ」
「え、何それ? 意味わかんない」
「ねえ。……女出したんじゃない? ピースフェリーのコンサルなんてほとんど出会えないだろうし」
「うちらの首は切りながら、自分だけ転職活動って感じか」
このみが後ろにいるなんて思ってないだろうが、明確な悪意を感じた。
このみはコピー機が吐き出した束を取り、角を揃える。
そして、彼女たちのほうを見ないで、目も合わせないように下を向いて、その場を去る。
(選ばれた理由なら、こっちが知りたいよ)
自席に戻ると、悔しさより先に疲れが襲ってきた。
