あなたを手放す予定は、私の計画にありません――冷徹な首切りコンサルに、規定外の溺愛をされています


 部長の姿は朝から見ていない。

 どうせ役員フロアにいるのだろうと思い、決裁の判子が要る書類を抱えて、このみは六階へ上がった。

 六階の役員フロアは、静かだった。

(四階はあんなに電話が鳴ってるのに)

 同じ会社なのに、ここだけ別の会社みたいだ。

 秘書室で書類を預けて、階段で四階へ戻る。

 降りるほどに、電話の音が近くなる。

 別館の講堂の設営は、人事と総務の仕事だ。

 パイプ椅子を八列、十二脚。

 つい半年前の入社式と同じ並びなのに、今日はまったくの別ものに見える。

 このみは受付に座りながら、社員の名前を聞いてはリストにチェックを入れる。

 いつもは会議に遅れてくる営業部の社員たちも、今日は定刻にやってきた。

 開場から三分ほどでチェックリストの八割が埋まる。

 ただ、席は半分も埋まらない。

 座らずに、壁際に立ったまま様子を窺う人のほうが多かった。

 壇上には、ファンドから来た男が三人並んでいた。

 揃いの濃紺のスーツには、社章がない。

 真ん中の一人がマイクを取って、にこやかに話し始めた。

「皆さまの雇用を、大切に考えています」

 雇用、のところで、講堂の空気がすっと硬くなった。

 三人の挨拶が終わり、司会の総務部長が続けて言った。

「──再建支援をご担当いただきます、篠宮さまです」

 壇の外から、男がひとり出てきた。

 その瞬間、会場が小さくざわめく。

「……え、待って」

「顔やばくない……?」

「どこの人? 俳優?」

 若手の女子社員の声だった。

 これから会社がどうなるかわからないのに、のんきなものだ。

 ただ、確かに壇上の男は目を引いた。

 百八十センチはありそうな長身に、片側だけ耳に掛けた黒髪。

 切れ長の目に、一瞬、息を呑む。

 ドラマ俳優だと言われても、信じただろう。

 いつのまにか受付の隣に座っていた千夏が、名簿の上に身を乗り出してきた。

「ねえ、あれが例の首切り屋? ……三百人切った顔に見えなくない?」

「顔で切るわけじゃないでしょ」

 そうは言ったものの、このみ自身、経験豊かなもっと年配のコンサルタントが来るものだと思っていた。

「いや、そうだけど……そうだけどさぁ!」

 千夏の声が半分裏返っていた。

 壇上の男は、誰よりも速い足取りで前へ出た。

「篠宮です」

 スライドには、長々とした役職と経歴が並んでいる。

 なのに、本人が口にしたのは、名前だけだった。

 拍手こそ起こらないが、ざわつく会場で、篠宮はそんな反応なんか見えていないように、速足で壇上の端の席に座った。

 彼は席に着くと、鞄から出した一枚の資料に目を落としていた。

 質疑応答が始まってから、一度も資料から顔を上げない。

(あの資料、何度も目を通してあるんだ)

 受付席からは手元がよく見える。

 今朝刷り上がったばかりの資料のはずなのに、全ページに折り目がついている。

 質疑の最後、品質保証部の年配の社員が立った。

 震える声の、長い質問だった。

 要約すれば──リストラはあるのか。

 ファンドの男が「現時点では何も言えません」と言いかけたとき、篠宮が初めて顔を上げた。

 そして、彼は質問者の顔を数秒まっすぐに見て、資料の余白に何かを書き込んだ。

 閉会が告げられ、社員たちは口々に何かを言い合いながら講堂を出ていった。

「ねえこのみ、あの人って四階に席できるのかな」

「知らない」

「知らないんだ。人事なのに」

「もう、だから人事でもなんでも知ってるわけじゃないんだって」

 このみの返事に、千夏は笑って、それから少しだけ真顔になった。

「……うちの会社も切られる人、出るのかな」

 このみは答えなかった。

 答えられなかった。

 代わりに、聞こえなかったふりをして、名簿の角を揃えた。

 撤収を終えた十九時前、名簿と筆記用具を抱えて、別館から本館への渡り廊下を歩く。

 二階のガラス張りの廊下は、夏の名残でまだ明るく、西日で一面オレンジだった。

(明日からどうなるんだろ)

 オレンジの中でぼんやりそんなことを考えていると、前から、速い足音が近づいてきた。

 篠宮だ。

 ダークグレイの一目で仕立てが良いと分かるジャケットを腕にかけ、まっすぐこちらへ歩いてくる。

 何も後ろめたいことはないのに、なぜか、名簿を抱え直した腕に力が入る。

 篠宮は廊下の先を見ていて、目を合わせなければ、歩調も緩めない。

 ただ、すれ違う、その半歩手前だった。

「倉橋このみさん」

 確かにそう言った。

 立ち止まったのは、このみだけだった。

 振り返ったときには、男はもう三歩先を歩いていた。

 呼び止めた、というのとは違う。

 なんというか──確かめた、みたいな言い方だった。

 自宅に帰り着いたのは二十一時過ぎ。

 終日の電話で事務対応が遅れ、自炊する暇もなく、買ってきたコンビニのお惣菜を電子レンジに入れる。

 そして、そのままジャケットをハンガーにかけた。

 スマホを見ると、画面が光っており、千夏からのメッセージが表示されている。

『おつかれ! 総務部で篠宮さんの話しかしてない(笑)』

『こっちは各部署からかかってくる電話対応しかしてないよ』

『早く寝な笑』

 スマホを置き、名札を外し、机に置く。

 そこには、人事部、倉橋と書かれていた。

 このみは温めたお惣菜を口に運びながら考える。

『倉橋このみさん』

 篠宮と呼ばれた男の声。

 思い返すとかすかに期待するような声色がある気もした。

(でも、なんで私の名前を知っていたんだろう)

 名札にも、受付名簿にも、名字しか書いていなかったはずだ。

 もちろん、人事コンサルタントとしての立場的に、いろいろな情報にアクセスできるのかもしれない。

 ただ、さすがに私のような平社員の名前を覚えているとは思えなかった。

「とにかく疲れた」

 考えるのも面倒くさくなって、食事もそこそこに眠気が襲ってきた。