プロローグ
──今日のは、悪手です。
秋の夜の渡り廊下で、その人は前置きもなく言った。
篠宮湊。
ファンドから送り込まれた再建コンサルタント。
ハルシマ文具工業の社員八百人の運命を預かり、社内で「首切り屋」と呼ばれる男の人だ。
この二か月、恨みも苦情も、ぜんぶこの人が宛先になってくれた。
その後ろに、私は隠れていられた。
──今日、自分から、そこを出た。
「ああいう場で発言するということは、次からあなたが標的になるということなんですよ。そのことが、分かっていますか」
「分かってます」
自分でも驚くくらい、静かな声が出た。
暗い廊下で、湊の切れ長の目が、わずかに動く。
「……あなたは」
声が、低くなった。
ため息みたいな、でもため息じゃない声だった。
「本当にあなたは、昔から変わらずそういう人なんですね」
湊との距離が消えたのは、その直後だった。
──すべての始まりは、二か月前。残暑の九月の月曜日。私と湊はオレンジ色に染まる渡り廊下ですれ違ったのだ。
第1話「規定ですので」
──また、制度のせいにした。
自分でも嫌になるくらい、いつも通りの声が出た。
カウンターの向こうで、製造二課の宮下主任がまだ何か言いたそうに口を開けて、あきらめたように閉じる。
「……そうだよな。倉橋さんに聞いたって、しょうがないよな」
しょうがない、の言い方が優しかった。
この仕事を三年やってきて、怒鳴られるほうがずっとましだと、何度思っただろうか。
「詳細が決まり次第、必ずご案内します」
宮下主任は頷いて、エレベーターではなく階段のほうへ歩いていった。
四階から製造棟へは、階段のほうが遠い。
それでも今日は、一人で歩きたいのかもしれない。
今朝、全社向けの社内ネットワークに一枚のリリースが掲載された。
『当社株式の異動に関するお知らせ』
創業家の春島家が、株をすべて手放すこと。
相手は投資ファンドであること。
経営体制は「当面」変わらないこと。
ハルシマ文具工業、創業七十年。
付箋とノートを作り続けてきた会社の持ち主が、一枚のリリースで変わった。
九時二十分に最初の内線が鳴り、それきり、電話は鳴りやまなかった。
「雇用はどうなるんですか」
「現時点で、決定している事実はありません」
「退職金の規程は」
「変更がある場合は、労使協議を経てご案内します」
「早期退職の募集があるって本当ですか」
「そのような決定はされていません」
問い合わせの要点を、付箋に書いて電話機の縁に貼っていく。
山吹色から始まったメモ書きは、昼前には、終盤の緑色まできてしまった。
労働組合の書記長からも電話が入った。
「近いうちに、正式に協議を申し入れます。窓口は倉橋さん?」
「部長になると思います。日程は調整のうえご連絡します」
「……大変だね」
また、私は言葉に詰まる。
本当に責めてくれたほうが楽なのに。
十四時過ぎに遅い昼を給湯室で立ったまま済ませていると、総務の真山千夏が入ってきた。
同期入社で、部署が違うが、いちばんよく喋る相手だ。
「このみ、生きてる?」
「かろうじて」
「ねえ、再建コンサルが入るって話、ほんと?」
「発表以上のことは知らない」
「人事なのに?」
「人事でも、知らないことはあるの。経営層はいろいろ知ってるんだろうけど」
千夏は肩をすくめて、インスタントコーヒーにお湯を注ぐ。
「二年前に北関東の電機メーカーをやった人が来るらしいよ。半年で三百人切ったって」
「誰から聞いたの」
「誰からだったかな。ただ、みんなそう言ってる」
誰が言い出したのかも分からない噂なのに、三百人という数字だけ、やけに生々しく聞こえる。
営業にいた頃は、切るといえば、名刺を切らすことだけだったけど、人事に来てからは人に対してばかりこの言葉を使っていて嫌になる。
短いお昼休みを済ませて席に戻ると、課長が受話器を置いて言った。
「十七時半に全体説明会するから。講堂の設営よろしく」
──今日のは、悪手です。
秋の夜の渡り廊下で、その人は前置きもなく言った。
篠宮湊。
ファンドから送り込まれた再建コンサルタント。
ハルシマ文具工業の社員八百人の運命を預かり、社内で「首切り屋」と呼ばれる男の人だ。
この二か月、恨みも苦情も、ぜんぶこの人が宛先になってくれた。
その後ろに、私は隠れていられた。
──今日、自分から、そこを出た。
「ああいう場で発言するということは、次からあなたが標的になるということなんですよ。そのことが、分かっていますか」
「分かってます」
自分でも驚くくらい、静かな声が出た。
暗い廊下で、湊の切れ長の目が、わずかに動く。
「……あなたは」
声が、低くなった。
ため息みたいな、でもため息じゃない声だった。
「本当にあなたは、昔から変わらずそういう人なんですね」
湊との距離が消えたのは、その直後だった。
──すべての始まりは、二か月前。残暑の九月の月曜日。私と湊はオレンジ色に染まる渡り廊下ですれ違ったのだ。
第1話「規定ですので」
──また、制度のせいにした。
自分でも嫌になるくらい、いつも通りの声が出た。
カウンターの向こうで、製造二課の宮下主任がまだ何か言いたそうに口を開けて、あきらめたように閉じる。
「……そうだよな。倉橋さんに聞いたって、しょうがないよな」
しょうがない、の言い方が優しかった。
この仕事を三年やってきて、怒鳴られるほうがずっとましだと、何度思っただろうか。
「詳細が決まり次第、必ずご案内します」
宮下主任は頷いて、エレベーターではなく階段のほうへ歩いていった。
四階から製造棟へは、階段のほうが遠い。
それでも今日は、一人で歩きたいのかもしれない。
今朝、全社向けの社内ネットワークに一枚のリリースが掲載された。
『当社株式の異動に関するお知らせ』
創業家の春島家が、株をすべて手放すこと。
相手は投資ファンドであること。
経営体制は「当面」変わらないこと。
ハルシマ文具工業、創業七十年。
付箋とノートを作り続けてきた会社の持ち主が、一枚のリリースで変わった。
九時二十分に最初の内線が鳴り、それきり、電話は鳴りやまなかった。
「雇用はどうなるんですか」
「現時点で、決定している事実はありません」
「退職金の規程は」
「変更がある場合は、労使協議を経てご案内します」
「早期退職の募集があるって本当ですか」
「そのような決定はされていません」
問い合わせの要点を、付箋に書いて電話機の縁に貼っていく。
山吹色から始まったメモ書きは、昼前には、終盤の緑色まできてしまった。
労働組合の書記長からも電話が入った。
「近いうちに、正式に協議を申し入れます。窓口は倉橋さん?」
「部長になると思います。日程は調整のうえご連絡します」
「……大変だね」
また、私は言葉に詰まる。
本当に責めてくれたほうが楽なのに。
十四時過ぎに遅い昼を給湯室で立ったまま済ませていると、総務の真山千夏が入ってきた。
同期入社で、部署が違うが、いちばんよく喋る相手だ。
「このみ、生きてる?」
「かろうじて」
「ねえ、再建コンサルが入るって話、ほんと?」
「発表以上のことは知らない」
「人事なのに?」
「人事でも、知らないことはあるの。経営層はいろいろ知ってるんだろうけど」
千夏は肩をすくめて、インスタントコーヒーにお湯を注ぐ。
「二年前に北関東の電機メーカーをやった人が来るらしいよ。半年で三百人切ったって」
「誰から聞いたの」
「誰からだったかな。ただ、みんなそう言ってる」
誰が言い出したのかも分からない噂なのに、三百人という数字だけ、やけに生々しく聞こえる。
営業にいた頃は、切るといえば、名刺を切らすことだけだったけど、人事に来てからは人に対してばかりこの言葉を使っていて嫌になる。
短いお昼休みを済ませて席に戻ると、課長が受話器を置いて言った。
「十七時半に全体説明会するから。講堂の設営よろしく」
