喪失の夜に、あなたがいた

撮影所を出た瞬間、明莉はふっと膝が抜けそうになった。

立っているだけで精一杯だった。
歩くたびに、胸の奥がじわりと痛む。

(……帰りたい。楓さんの顔が見たい)

その言葉が、今日だけは何度も心に浮かんだ。

タクシーの窓に映る自分の顔は、
どこか他人のように見えた。

疲れ果てている。
それを認めるのが怖かった。

玄関の扉を開けると、
リビングの灯りが柔らかく揺れた。

楓がゆっくりと顔を上げる。

「おかえりなさい」

その声は、
いつもより少しだけ静かだった。

明莉は頷こうとして、
うまく笑えなかった。

「……ただいま帰りました」

声が掠れていた。

楓は立ち上がりかけて、
しかし一歩手前で止まった。

触れない。
踏み込まない。
でも、寄り添う。

その距離を、楓は守った。

「夕飯は……軽めにしてあります。
 食べられそうなものだけ、少し」

楓の声は、
まるで壊れ物に触れるように静かだった。

明莉は弱く笑った。

「……ありがとうございます」

その瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。

張り詰めていた糸が、
静かにほどけていくような感覚。

そして──
涙が落ちた。

ぽたり、と。
音もなく。