喪失の夜に、あなたがいた

明莉が帰宅したのは、
いつもより少し遅い時間だった。

玄関の扉が開く音に、
楓はゆっくりと顔を上げた。

「おかえりなさい」

声はいつも通り。
けれど、明莉の返事は少し遅れた。

「……ただいま」

その小さな声に、
楓は胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。

明莉の顔を見た瞬間、
その理由がわかった。

目の下の影。
赤く滲んだ目元。
肩の力が抜けている。

(……疲れている)

それだけではない。
“何かに押されている”ような気配があった。

楓は立ち上がりかけて、
しかし一歩だけ近づいて止まった。

触れない。
触れられない。
その距離を、楓は守った。

「今日……どうでしたか」

明莉は一瞬だけ言葉を探し、
かすかに唇を震わせた。

「……うまくできなくて。
 監督にも迷惑かけちゃって……」

その声は、
聞いているだけで胸が痛くなるほど弱かった。

楓はすぐに否定しなかった。
否定すれば、
その震えを追い詰めてしまう気がした。

「……SNSのこと、加苅さんから聞きました」

明莉の肩がびくりと揺れた。

「対応が……追いついていないそうです」

明莉はゆっくり視線を落とした。

「……私、何もしてないのに」

その呟きは、
泣き声よりも痛かった。

楓はそっと息を吸い、
言葉を選んだ。

「明莉さんのせいではありません」

それは本心だった。
けれど、
それだけでは足りないこともわかっていた。

(……誰がやっている)

(……どうして止まらない)

(……何が起きている)

明莉の震えを見つめながら、
楓の胸の奥に、
静かな怒りが沈んでいく。

「……最近、現場で何かありましたか」

明莉は首を横に振った。

「誰も何も言わないの。
 でも……空気が重くて。
 誰かにずっと見られてる気がして……」

その言葉に、
楓の呼吸がわずかに止まった。