喪失の夜に、あなたがいた

カフェ「灯」で働き始めてから、少しずつ外の世界に慣れてきた。
まだ胸の奥には不安が残っているけれど、
店内に満ちるコーヒーの香りと、
午前の柔らかな光が落ちる空気は、
明莉の心をゆっくりとほぐしてくれていた。

レジ横で注文を受けながら、
明莉はふと、背中に冷たいものが触れたような感覚に襲われた。

(……見られてる?)

その感覚は、ほんの一瞬だった。
けれど、胸の奥に小さなざわつきが広がる。

振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、スマホを握った女性が一瞬こちらを見て、
すぐに視線を逸らした。クスクス笑う声も聞こえてきた。

その仕草が、妙に引っかかった。

(……気のせい、だよね)

そう思おうとする。
いや、思いたかった。
けれど、胸の奥のざわつきは消えなかった。

「明莉ちゃん、これお願いね」

美咲が笑顔でトレーを渡してくれる。
その笑顔に救われるように、明莉は小さく頷いた。

昼過ぎ。
店内が少し落ち着いた頃、美咲がスマホを見て眉を寄せた。

「……え?」

その小さな声に、明莉は思わず顔を向けた。

「どうしたんですか?」

美咲は迷ったように画面を見つめ、それから明莉にそっと見せた。

そこには──
明莉がレジに立っている写真。

帽子を深くかぶり、マスクをしていても、
明莉だとわかる。

そして、その写真の横には
「落ちぶれた元女優がバイトしてる」
「男に捨てられて働くしかないらしい」
「落ちぶれた女優なんて、誰も相手しない。ダサすぎる」
そんな言葉が並んでいた。

胸の奥がぎゅっと縮まる。

(……どうして)

手が震える。
呼吸が浅くなる。
店内の音が遠くなる。

美咲は慌ててスマホを閉じ、
明莉の肩にそっと手を置いた。

「明莉ちゃん……今日はもう上がろうか。お店の方は大丈夫よ。
 こんなの、気にしなくていいから」

美咲は明莉の震える手をそっと両手で包み込んでくれた。