喪失の夜に、あなたがいた

仕事が終わる頃、楓が店の前で待っていた。

「お疲れさまでした」

「……今日も、少しだけできました」

明莉がそう言うと、楓はゆっくりと頷いた。

「少しずつでいいんです。あなたが前に進めているなら、それで十分です」

その声は、明莉の胸にそっと触れるような優しさだった。

夕方の光が街を淡く染めていく。
その光の中で、明莉はふと気づいた。

(……外の世界は、思ったほど怖くない)

楓の隣を歩くと、その思いが少しずつ強くなっていった。

そのとき——
人混みの少ない歩道の向こう側で、ひとりの女性が立ち止まっていた。

上質なコートを羽織り、整った髪を風に揺らしながら、
その女性は静かに二人を見つめていた。

玲奈。
大手企業の社長令嬢で、幼い頃から楓の家とは取引があった。
楓とは顔見知りで、ずっと「自分の隣に立つべき人」だと思っていた。

だからこそ、
明莉と並んで歩く楓の姿は、胸の奥に静かな痛みを落とした。

「……楓くんが、あんな顔をするなんて」

明莉に向ける楓の柔らかい表情。
それは、玲奈が一度も見たことのないものだった。

風が頬を撫でる。
その冷たさよりも、胸の奥のざわつきの方が強かった。

「どうして……私じゃないの。なんで、その子なの?」

その呟きは怒りではなく、
自分の価値が否定されたような、静かで深い痛みに近かった。

明莉の姿を見つめながら、玲奈はゆっくりと微笑んだ。

「少し……知りたくなってきたわ。
 楓くんが守りたいと思う人が、どんな人なのか。
 佐伯明莉……調べる価値がありそうね」

その笑みは上品で穏やかで、
けれど底に冷たい影が潜んでいた。

玲奈は人混みの中へと歩き出した。
その足取りは迷いなく、まっすぐだった。