喪失の夜に、あなたがいた

明莉はエプロンをつけ、
小さな声で自分に言った。

「……よし。作ってみよう」

包丁を握る手はまだぎこちない。
でも、怖くはなかった。

トマトを切る音が、
静かな部屋に優しく響く。

その音は、
明莉の“再生の音”だった。

夕方。
玄関の鍵が回る音がした。

「ただいま戻りました」

楓がリビングに入ると、
テーブルの上に並んだ料理を見て、
目を大きく見開いた。

「……作ったんですか?」

「はい……少しだけ。
 外にも……行ってみました」

楓は言葉を失い、
それからゆっくりと微笑んだ。

「……すごいです。頑張りましたね。
 本当に……すごい」

その声は震えていて、
明莉の胸にそっと触れた。

「無理はしていませんか」

「大丈夫です。
 少しだけ……外の空気を吸いたくて」

楓は深く頷いた。

「あなたが前に進めたなら……それだけで十分です」

その言葉が、
明莉の心の奥に静かに沈んでいく。