喪失の夜に、あなたがいた

翌朝。
楓が出社したあと、明莉はゆっくりと玄関の前に立った。

靴を履く手が少し震える。
外の空気を吸うのは、あの日以来ほとんどなかった。

(……少しだけ。
 ほんの少しだけでいい)

そう自分に言い聞かせて、
帽子を深くかぶり、伊達メガネをしてマスクをつけて、
明莉はそっとドアを開けた。

外の空気は思ったより冷たくて、
胸の奥がきゅっと縮まる。

けれど——
風が頬を撫でた瞬間、
心の奥に小さな光が灯った。

(……大丈夫。歩ける)

明莉はマンションの前まで出て、
ゆっくりと周囲を見渡した。

人の姿は少ない。
車の音も遠い。
ただ、静かな朝の光が街を照らしていた。

その光の中で、
明莉は深く息を吸った。

(……外の世界は、まだ怖くない)

そう思えたのは、
楓の言葉が胸の奥に残っていたからだ。

「できないときは……一緒にやりますから」

その声が、
明莉の背中をそっと押してくれていた。

マンションの近くにある小さなスーパー。
入口の前で一度立ち止まる。

(……入れるかな)

胸が少しだけざわつく。
けれど、足は自然と前へ進んだ。

まだ、正直人前に出るのは怖い。
でも、そのたびに楓の言葉を思い出す。

店内は静かで、
午前中の光が商品棚に落ちている。

明莉は野菜売り場で立ち止まり、
そっとトマトを手に取った。

赤い色が、
心の奥に小さな温度を落としていく。

(……これ、楓さん好きだったかな)

そんなことを考えている自分に気づいて、
明莉は少しだけ頬を緩めた。

買い物かごにトマトを入れ、
次に卵、牛乳、パン。
ほんの少しだけの買い物。

それでも、
明莉にとっては大きな一歩だった。

部屋に戻ると、
明莉は買ってきた食材をキッチンに並べた。

(……できた)

その事実が胸に広がり、
ゆっくりと温かさに変わっていく。