喪失の夜に、あなたがいた

新しい生活が始まって数日が経った。
明莉はまだ本調子ではなかったけれど、
少しずつ、家の中でできることが増えてきた。

朝、楓が仕事に出る前に、
「無理はしないでください」と言い残していく。
その言葉に守られているような気がして、
明莉はゆっくりと深呼吸をした。

(……今日は、何かひとつだけでもできることを)

そう思えるようになったのは、
楓が毎日、静かに寄り添ってくれたからだ。

最初にできたのは、洗濯物を畳むことだった。
楓のシャツを手に取ると、
生地の柔らかさと、微かな洗剤の匂いが胸に広がる。

(……この人は、私を守るために結婚してくれた)

その事実が、まだ信じられない。

畳んだシャツをクローゼットにしまうと、
そこには明莉のために空けられたスペースがあった。

「……ここに、私の服が並ぶんだ」

そう思うと、胸が少しだけ温かくなった。

次の日は簡単な掃除。
その次の日は食器を洗うこと。
ほんの小さなことでも、
“自分が生活に参加している”という実感が嬉しかった。

(……少しずつ、戻っていける)

その思いが、心の奥で静かに芽を伸ばしていく。

夕方、玄関の鍵が回る音がした。
明莉は思わず立ち上がる。

「ただいま戻りました」

楓はいつもの静かな声で言った。
けれど、明莉がリビングを整えているのを見ると、
ほんの少しだけ目を見開いた。

「……片付けを?」

「はい……できる範囲で、少しだけ」

楓は一瞬だけ言葉を失い、
それから柔らかく微笑んだ。

「ありがとうございます。
 無理をしていませんか」

「大丈夫です。
 少しだけ……やってみたくて」

その言葉に、楓の表情がわずかに緩んだ。

「……よかった」

その声は、安堵と喜びが混ざっていた。