喪失の夜に、あなたがいた

楓の家で過ごす日々は、驚くほど静かだった。
テレビの音も、誰かの足音も、外の喧騒もない。
ただ、ゆっくりと流れる時間だけがそこにあった。

明莉はソファに座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。
雲がゆっくりと流れていく。
その動きが、壊れた心の奥に少しずつ染み込んでいく。

楓はキッチンで洗い物をしていた。
水の音が静かに響き、部屋の空気をやわらかく揺らす。

その音を聞きながら、明莉はふと気づいた。

(……この家、怖くない)

佑輔を失ったあの日から、
どんな場所も、どんな人も、どんな音も怖かった。
世界が自分を拒絶しているように感じていた。

でも、この家だけは違った。
楓の距離感が、明莉の壊れた心を刺激しない。
踏み込まない優しさが、静かに支えてくれる。

「少し散歩でもしますか。家の前だけでも」

楓が声をかけた。
その声は、押しつけではなく、選択肢としてそっと差し出される。

「……少しだけなら」

明莉は立ち上がった。
足に力が入らず、ふらりとよろける。

楓は手を伸ばしかけて、
しかし途中で止めた。

触れない。
助けすぎない。
でも、倒れそうなら支えられる距離。

その絶妙な距離が、明莉にはありがたかった。

玄関を出ると、夕方の風が頬を撫でた。
少し冷たくて、少し優しい風。

明莉は深く息を吸った。
胸の奥が少しだけ軽くなる。

「……外の空気、久しぶりです」

「そうですね。無理のない範囲で、少しずつ」

楓は明莉の横に立ち、空を見上げた。
その横顔は、どこか寂しげで、どこか温かかった。