Clover、たったひとつの記憶

 社長に呼び出されてからあっという間に2週間が過ぎ、季節は5月を迎えた。
 今日はお見合い当日だ。
 トミオはこの日のために衣装を新調し、人気ヘアサロンで髪を整えた。これまで己の外見に全く無関心だったことが悔やまれた。他人からの視線が気になって仕方がない。友人の協力のもと、精一杯の努力を尽くしたものの、不安は尽きない。
 できる限りの努力を尽くして社長室を訪れたトミオを、社長は嬉しそうな表情で迎え入れる。

「これは……。なかなかの男前じゃないか」
「……ありがとうございます」

 緊張はトミオだけではない。社長もまたこのお見合いに気を配っているのが伝わる。
 いつまでも不安に飲み込まれている場合ではないと、トミオは気合を入れなおす。相手《リエ》のためにも、トミオは最善を尽くそうと考えた。
 
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 見合い開始の時刻10分前、社長と共にリージョンNのH市にある、カナド家所有の料亭に到着。この料亭はH市特有の石畳の歴史的な建築様式の建物。伝統を重んじるカナド家の家風を感じた気がした。
 冷静を装いながらも、裏では激しく高鳴る心臓を抑え込もうと必死だ。慣れた足取りの社長の後を追いかけるように、トミオもまた料亭の中へ入る。

「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」

 玄関ではキモノ姿の女将がトミオと社長を出迎える。目尻に皺をよせ、温かな微笑みで対応する様子にトミオは母の姿を重ねる。

「どうぞこちらへ……」

 玄関から座敷へ上がり、木製の廊下を歩く。高い天井に、座敷の合間に大きな池がある。その池に掛けられた橋を渡り向かう先の座敷は、これまでの座敷とは異なり豪華な造り。やがて清々しい草の香りが広がる畳の一室へと到着する。
 女将に勧められて座卓の片側に正座して座る。仲居が運んできた茶器を使い、優雅な手つきで茶を入れる女将。
 開かれた障子戸からは、水の流れる音だけが聞こえる。
 ――風流。
 技術者として過ごしてきたトミオは、伝統の美といったものにはとんと疎い。しかし、この客人をもてなすために特化した機能美の奥深さには、感嘆せざるを得ない。
 トミオの緊張をほぐそうと、社長が開発中の新商品の話を始めると、女将はいつの間にか下がっていた。

「次期当主夫人が参りました。すぐにこちらへお渡りになります」

 会話に夢中になっていると、別の仲居が夫人の到着を知らせてくれた。

「はい」

 トミオは気を引き締め、穏やかに返答する。

「わかりました、ありがとう」

 社長の表情にも本番を迎える覚悟が見受けられた。それでトミオは一層気合が入った気がした。
 しばらくして複数の軽い衣擦れの音が聞こえ、その中に女将の声が混じった。トミオの前に、キモノを纏った夫人とリエが姿を見せる。社長とトミオは同時にスッと立ち上がり、二人に一礼する。

「遅くなってしまって……待ちくたびれたでしょう? ごめんなさいね?」

 夫人が社長とトミオを交互に見つめ、申し訳なさそうに話しかけるも、社長がにこやかに対応する。
 キモノを着たリエは夫人の横に立っており、言葉を失ったように頬を赤らめながらトミオを見上げている。

「お初にお目にかかります、リエ様。……トミオ・ケイ・イサキと申します」
「リエ・イリア・カナドです。私も……イサキ様にお会いできて嬉しいです」

 この場においての決まり文句を確認し、静かに座る。
 トミオとリエはよく目が合った。その度にリエが見せる一瞬の様子に、トミオは心が痛む。その美しい双眸はどこか哀しみをたたえているようにも見える。トミオはこの縁談をリエは望んでいなかったと判断した。

(ならば彼女を傷つけないように注意を払って、この場をなんとか丸く収めよう)

 見合いの進行は、誰もが成功したのではないかと思うほどに和やかに、順調に進んだ。
 この場にカナド家当主が不在であるにもかかわらず、夫人が見事に当主代行を務めている。
 会話の間を見計らい、カナド家当主夫人は、リエとトミオに庭園の散策を促す。二人への配慮だろう。

「この店の庭園は美しいと評判なの。リエは花に詳しいでしょう? イサキさんを案内してさしあげて」
「……はい」

 いわれるままにリエはトミオを庭園に誘う。
 トミオは社長から事前に受けたアドバイスに従い、リエを気遣いながらエスコートする。
 庭園へは女将が先導し、案内してくれた。色とりどりの花が優雅に咲き誇る庭園は――トミオにとっては別世界のような幻想的な空間だった。