長椅子が幾つも置かれた待合に着き、トミオは大勢の患者と共に座席で診察を待つ。
先程まで最新ニュースを映していたはずのモニターは、気付けば料理番組が終わろうとしている。
(待つことは苦では無い。思考する時間が増えた、そういうことだ)
昔ならば仕事に夢中になっている時間帯だ。今はゆっくり思い出に浸る時間がある。
(こんな時くらいリエを思い出してもいいよな……)
トミオは壁側に置かれたアンティーク風の柱時計を見つめた。
その針を見つめているうちに、トミオの中の時間が逆行し始める。そう、全てが始まった50年前――トミオ・ケイ・イサキが25歳だった頃。当時から天才技師として、周囲にその技能を認められていた。
-*-
物心つく頃から、機械が好きだった。不注意で壊してしまった携帯端末を、自らの手で再び稼働させた時。あの感動は、今になっても忘れられない。
それがきっかけで大手端末機械メーカー、アゼレウス社に入社し、技師になった。難しいライセンスを幾つも入手しても、トミオの向上心は貪欲で、尽きることは無かった。
そんなある日の朝のこと。
出社してすぐにトミオは社長に呼び出された。
周囲の人間が心配そうに見守る中、不安と焦り、そして緊張が襲い掛かる。
(……やらかしたか? それとも新作のコンセプトに何か問題が……)
ここ数日の出来事を振り返り、プランの修正案を練りながら、トミオは社長室を訪れる。
窓辺に立ち、影になった社長の背中を、ただ黙って見つめた。
落ちた肩から想像できるのは決して嬉しいことではないだろう。しかし、社長の深いため息の後に聞こえた言葉は、トミオが予想もしなかったことだった。
「突然このような話を持ち掛けて申し訳なく思う……」
父と同じぐらいの年代の、立場ある者が謝罪の前置きから入る語り。
それはトミオを困惑させた。
彼の薬指の指輪が、一瞬だけ小さな光を放って見えたのは気のせいだろうか。
社長は振り向き、トミオの視線を受け止めながらも言いにくそうに言葉を続けた。
「さる御方のご息女と、結婚を前提とした見合いをして欲しい」
その言葉に、トミオはさらに大きな衝撃を受ける。しっかりと地に足をつけ、思考を重ねなければならないと、自らに言い聞かせた。
「申し訳ありません。そのような文化は……はるか昔に途絶えたと認識していたのですが……」
「そうだよな、俺もそう思うよ」
ならばなぜ、そんなことを告げるのか。
たとえばこの縁談が社運を賭けて何かを左右するものならばわからなくもない。
社長の表情を読む限り、全く可能性がないわけでもないのか。彼もまた、動揺を必死に抑えようとしているトミオを観察している。社長室が取り調べ室のように思えてくる。ピリピリとした重苦しい空気が、この縁談からは逃れられないと告げているかのようだ。
「お相手のご息女とは……?」
咄嗟に出てしまった言葉に、社長の眉が僅かに動く。
「リエ様……。カナド家当主様の孫娘にあたるご令嬢だ」
告げられた「カナド家」の名は、アゼレウス社の者ならば誰もが知っている。なぜなら、先々代からカナド家当主はアゼレウス社を支え、今も莫大な資金提供を行っているからだ。
(嘘だろ……)
「待ってください! なぜ私が……?」
「当主様とリエ様のお父上が当社にお越しになった時、君を見かけ是非にと」
社長は、静かな表情で淡々と告げるが、トミオは納得がいかなかった。
カナド家当主に所縁のある令嬢が、どうして自分と縁談なのか。トミオは、必死で考える。
(何かがおかしい)
何度考えても1つの考えにしか行きつかない。これはお互いの利権がかかった商談――、単純に扱いやすい立場の人間が巻き込まれただけ。
(拒否することすら叶わないのか……)
僅かな希望を求めて社長の目を見つめたが、そこに救いは無かった。
それでもトミオは今の仕事を愛していた。となれば答えは一つしかない。トミオは左手に力をぐっと込めた。
「……わかりました。謹んでお受けします」
静かなトミオの言葉に、社長は肩の荷が下りたかのように安堵した様子を見せた。
トミオは自分との縁談が持ち上がっているリエの立場を考えた。ないとは思いたいが、彼女もまた拒否権なく巻き込まれているのだとしたら。
(……この縁談について彼女は納得しているのか?)
そんな疑問がトミオのなかをよぎる。
本来であれば余計なことは言わない方が身のためだ。しかしトミオは躊躇しない。
「もしお相手の方が私との縁談を望まないのであれば、話は無かったことにすべきです」
「そうだな。しかしそれを決めるのは我々ではない……」
確かにそうだ。
それほどカナド家当主はアゼレウス社において絶大であるから。
社長がトミオにA5サイズの、紺色のプレートを差し出す。その表面には金字で名が刻まれており、トミオは両手で丁寧に受け取った。
(リエ・イリア・カナド)
流麗な文体でつづられたその名が、トミオの中に響く。
「君の社員コードが解錠キーだ。後ほど確認を頼む」
ジャケットの内ポケットに紺のプレートを入れ、トミオは静かに答える。一礼し、背を向けようとしたところ
「どうか、お幸せに」
社長がトミオに向かって穏やかに微笑んでいた。まるで孫の門出を祝う祖父のような、温かいまなざしにトミオは少し驚く。動揺を隠してトミオは微笑み返し、静かに社長室を退出した。
窓の外には、花びらが散った後の桜の樹。
先ほどの社長の言葉がリフレインする。それは、一体誰の幸せを願ったものなのだろうかとトミオは思った。
先程まで最新ニュースを映していたはずのモニターは、気付けば料理番組が終わろうとしている。
(待つことは苦では無い。思考する時間が増えた、そういうことだ)
昔ならば仕事に夢中になっている時間帯だ。今はゆっくり思い出に浸る時間がある。
(こんな時くらいリエを思い出してもいいよな……)
トミオは壁側に置かれたアンティーク風の柱時計を見つめた。
その針を見つめているうちに、トミオの中の時間が逆行し始める。そう、全てが始まった50年前――トミオ・ケイ・イサキが25歳だった頃。当時から天才技師として、周囲にその技能を認められていた。
-*-
物心つく頃から、機械が好きだった。不注意で壊してしまった携帯端末を、自らの手で再び稼働させた時。あの感動は、今になっても忘れられない。
それがきっかけで大手端末機械メーカー、アゼレウス社に入社し、技師になった。難しいライセンスを幾つも入手しても、トミオの向上心は貪欲で、尽きることは無かった。
そんなある日の朝のこと。
出社してすぐにトミオは社長に呼び出された。
周囲の人間が心配そうに見守る中、不安と焦り、そして緊張が襲い掛かる。
(……やらかしたか? それとも新作のコンセプトに何か問題が……)
ここ数日の出来事を振り返り、プランの修正案を練りながら、トミオは社長室を訪れる。
窓辺に立ち、影になった社長の背中を、ただ黙って見つめた。
落ちた肩から想像できるのは決して嬉しいことではないだろう。しかし、社長の深いため息の後に聞こえた言葉は、トミオが予想もしなかったことだった。
「突然このような話を持ち掛けて申し訳なく思う……」
父と同じぐらいの年代の、立場ある者が謝罪の前置きから入る語り。
それはトミオを困惑させた。
彼の薬指の指輪が、一瞬だけ小さな光を放って見えたのは気のせいだろうか。
社長は振り向き、トミオの視線を受け止めながらも言いにくそうに言葉を続けた。
「さる御方のご息女と、結婚を前提とした見合いをして欲しい」
その言葉に、トミオはさらに大きな衝撃を受ける。しっかりと地に足をつけ、思考を重ねなければならないと、自らに言い聞かせた。
「申し訳ありません。そのような文化は……はるか昔に途絶えたと認識していたのですが……」
「そうだよな、俺もそう思うよ」
ならばなぜ、そんなことを告げるのか。
たとえばこの縁談が社運を賭けて何かを左右するものならばわからなくもない。
社長の表情を読む限り、全く可能性がないわけでもないのか。彼もまた、動揺を必死に抑えようとしているトミオを観察している。社長室が取り調べ室のように思えてくる。ピリピリとした重苦しい空気が、この縁談からは逃れられないと告げているかのようだ。
「お相手のご息女とは……?」
咄嗟に出てしまった言葉に、社長の眉が僅かに動く。
「リエ様……。カナド家当主様の孫娘にあたるご令嬢だ」
告げられた「カナド家」の名は、アゼレウス社の者ならば誰もが知っている。なぜなら、先々代からカナド家当主はアゼレウス社を支え、今も莫大な資金提供を行っているからだ。
(嘘だろ……)
「待ってください! なぜ私が……?」
「当主様とリエ様のお父上が当社にお越しになった時、君を見かけ是非にと」
社長は、静かな表情で淡々と告げるが、トミオは納得がいかなかった。
カナド家当主に所縁のある令嬢が、どうして自分と縁談なのか。トミオは、必死で考える。
(何かがおかしい)
何度考えても1つの考えにしか行きつかない。これはお互いの利権がかかった商談――、単純に扱いやすい立場の人間が巻き込まれただけ。
(拒否することすら叶わないのか……)
僅かな希望を求めて社長の目を見つめたが、そこに救いは無かった。
それでもトミオは今の仕事を愛していた。となれば答えは一つしかない。トミオは左手に力をぐっと込めた。
「……わかりました。謹んでお受けします」
静かなトミオの言葉に、社長は肩の荷が下りたかのように安堵した様子を見せた。
トミオは自分との縁談が持ち上がっているリエの立場を考えた。ないとは思いたいが、彼女もまた拒否権なく巻き込まれているのだとしたら。
(……この縁談について彼女は納得しているのか?)
そんな疑問がトミオのなかをよぎる。
本来であれば余計なことは言わない方が身のためだ。しかしトミオは躊躇しない。
「もしお相手の方が私との縁談を望まないのであれば、話は無かったことにすべきです」
「そうだな。しかしそれを決めるのは我々ではない……」
確かにそうだ。
それほどカナド家当主はアゼレウス社において絶大であるから。
社長がトミオにA5サイズの、紺色のプレートを差し出す。その表面には金字で名が刻まれており、トミオは両手で丁寧に受け取った。
(リエ・イリア・カナド)
流麗な文体でつづられたその名が、トミオの中に響く。
「君の社員コードが解錠キーだ。後ほど確認を頼む」
ジャケットの内ポケットに紺のプレートを入れ、トミオは静かに答える。一礼し、背を向けようとしたところ
「どうか、お幸せに」
社長がトミオに向かって穏やかに微笑んでいた。まるで孫の門出を祝う祖父のような、温かいまなざしにトミオは少し驚く。動揺を隠してトミオは微笑み返し、静かに社長室を退出した。
窓の外には、花びらが散った後の桜の樹。
先ほどの社長の言葉がリフレインする。それは、一体誰の幸せを願ったものなのだろうかとトミオは思った。
