Clover、たったひとつの記憶

 いつもは玄関先まで見送るのが常なのに、今日のサツキはエレベーターまでトミオに付き添う。閉じていくエレベーターのドアの隙間から、トミオに向かって静かに手を振る様子が見えた。
 サツキには表情がない。それなのに、トミオには穏やかな微笑みを浮かべている様に思えた。

(……いや、気のせいだ)

 愛用の杖を頼りにエレベーターからエントランスへ向かう。
 ガラス張りの自動ドアを抜けた先に、一台の黄色いバスが停まる。このドアへ近づけば自動で開閉し、利用患者が着座してから稼働を始める。そんなAIバスだ。

(到着まで……30分程度か。診療外来も少し混み始めるかも)

 トミオは、車内の案内パネルから情報を得ると、窓に視線を移す。
 ――澄んだ青空。
 サツキが「イイ太陽」と言う時、それは過ごしやすい天候なことが多い。
 そういえば雨季が去った今時期の太陽を、リエも「良い太陽」と言って好んでいた。

(リエの記憶を学んだからかもしれないが……、口癖も少し似てきたな)

 現在のトミオは日中外に出ることはあまりない。天候は衣服を決める時に少し確認する程度のものだと思っていた。

(どうでもいいなんて言ったら、怒られそうだ)

 停車の度にピコンと音が鳴り、その度にバスの中に患者が増えていく。
 ゆっくりと傾斜の穏やかな坂を下り、色とりどりの車とすれ違いながらも次の目的地を目指す。
 換気のために自動で窓が少し開くと、空を飛ぶ海鳥の甲高い鳴き声が聞こえた。海沿いを走り、バスはまた坂を上がる。その後二カ所ほど停車して患者を乗せた後、病院のエントランスに到着した。
 
 -*-
 
 この病院は、トミオが所属するアゼレウス社と提携を結ぶ大きな総合病院。
 付属の医療学校からの学生ボランティアたちが白いポロシャツに深緑色のエプロンを付け、患者の移動サポートに当たっていた。かつてこの病院で働いていたリエによると、遠慮せず頼ることも学生たちの学びになるそうだ。

「こんにちは、何かお手伝いすることはありませんか?」

 バスから降り、杖をついてゆっくりと歩くトミオにも若者のサポーターが声をかけた。
 彼の左胸のネームには「タケシバ」とある。トミオは彼に穏やかに伝える。

「ありがとう。タケシバさん、私はリハビリをしたいので、独りで歩かせて下さい」
「わかりました! どうかお足元にお気をつけて!」

 彼はトミオに一礼すると、別のバスに向かって行く。
 その様子を応援の意味を込めて眺め、トミオは杖をついてまた歩き始める。自動ドアをくぐり、自動受付機に携帯端末をかざす。あとは携帯端末のAIが、診察手続きを完了させてくれる。

「診療受付番号は63番です。経路の案内が必要でしたら教えてください」

 何度も通院しているため、診察室までの経路は把握している。
 トミオは杖をついて再び歩き始めた。
 正面にはガラス張りの窓が見える。Y字になった廊下を左側に向かえば、奥に噴水のある広めの庭園がある。
 リエともう一度出会った、思い出の庭園だ。
 この場所から止まっていたリエとの時間が動き出した。あの頃のリエの姿は、今でもトミオの脳裏に鮮明に残っている。
 しかしトミオはその場に足を止めることもなく、右側の廊下を歩き始めた。