Clover、たったひとつの記憶

 トミオには毎朝必ず行う儀式があった。
 薬剤を注射によって体内に投与する。これはトミオにとって最も重要なこと。

「……ふぅ。さて、今日のニュースは……」

 それが終わると次に行うのはニュースの確認だ。
 リビングテーブルの引き出しからボールペンほどの長さの端末を取り出す。片手で操作し画面を呼び出す。空中に17型の画面が表示され、数多くのニュース記事が次々に映し出された。
 トミオは指でニュース記事を選ぶ。その内容はいずれも思わずため息が出るような暗いものばかり。
 この世界の一部の地域で起こっている宗教紛争や謎の暴走車による交通事故、一部の子供に発症するという奇病の状況など。
 思わずため息が漏れる。何か明るい話題は無いものかと思いながら、更に記事を探す。
 男性アイドルユニット「RARUTO」の活動が評価され表彰されたこと。
 大手機械メーカー、アゼレウス社の動物型AIドールの人気が沸騰。予約受付が一時停止されたこと。
 ある海域に未踏の無人島が発見され、政府が資源調査隊の派遣を決めたこと……などだ。
 こうした話題は少しだけトミオの心を落ち着かせるものだった。
 視線を上げると、サツキがリモコンで空調を設定していた。少し湿度が上がってきたのかもしれない。トミオは視線をずらし、サイドボード上に置いたスナップ写真の少女を見つめた。それは孫娘、ユカが進学校へと入学した際に撮影したものだ。

「……成人式か」

  幼かったユカも、来年は成人式だ。先日その時の衣装について話をしたばかりだった。
 ユカは「キモノ」のカタログを観て、振袖を着てみたいと言っていた。ユカが選んだ青の振袖は、全体に染めのグラデーションをかけ、金糸の刺繍も入れるよう手配した。

(それにしても、時の流れは早いものだな)

 ユカは生まれてすぐに母親を亡くし、父親も病気で亡くした。リエの強い希望でユカを引き取り、それからは我が娘のように大事に育ててきた。辛い過去を背負いながらも、ユカは明るく元気に育ってくれた。それがトミオにとって何よりの救いだ。

(自分に万が一のことがあれば、ユカはまた独りになってしまう)

 トミオは過去をちらりと思い出す。
 あの頃の辛い日々だけはもう二度と繰り返してほしくはない。

(ユカを支え、寄り添ってくれる存在を置くか?)

 ユカが以前からヒト型AIドールが欲しいと言っていたことを思い出す。
 境界線を理解できないうちは、ヒト型はまだ早い。それなら動物型はどうだろうか。
 サンプルとして造った動物型のAIドールがあったはずだ。
 外見デザインは後でユカの好みに合わせてカスタマイズすればいい。
 同僚のアレンに早速手配してもらわないといけないと、トミオはアレンにメッセージを送った。

「トミオさん、そろそろ支度!」

 空になった湯呑を片付けるサツキが、トミオを促す。時刻は8時。

「ああ、そうだね」

 端末を引き出しに戻し、外出の支度をしようとしたその時。

「トミオさん、ユカさんから通信来た」
「おや、ユカから? サツキ、これに繋いでくれ」 
「ハイ」

 急いで先ほどのスティック端末を操作する。
 空間に投影された映像には、目元を腫らした赤い目のユカの姿があった。

『……おじいちゃん。今少しいい?』
「どうしたんだい? 何かあったか?」
『実は……これ……』

 ユカはボロボロになった携帯端末をトミオに見せた。
 携帯端末の画面には強い衝撃を受けた跡があった。
 掌の上の端末は裏蓋が開き、萎んだ白いバルーンが垂れ下がっている。この状態にトミオの心臓がドクンと鳴る。

「何があった! 怪我はないのか?」
『怪我はないよ。昨日事故に遭って……。マシューが……』 
「そうか……。それは怖かっただろう」

 この携帯端末はアゼレウス社製で、内部にゼロン社製のサポートAIが搭載されている。
 ユカが“マシュー“と呼ぶのは、この携帯端末を管理するサポートAIのことで、ユカにとっては相棒に等しい。

(マシューのおかげで無事だったのだな。本当に良かったが……)

 しかしマシューが緊急用のエアバックを発動させたということは、(ユカ)の命が危険になるほどの惨事が起きたということになる。だが、あの家からは一切連絡がない。そういう立場になってしまったのだから仕方がない。とはいえ、こんな時くらい……そんな考えが頭をよぎる。

『おじいちゃん、マシューを助けて!』

 ユカの目から溢れた一滴が、大きく割れた端末の画面にポトリと落ちる。

「直接見てみなければなんとも……。それよりも、その時のことを詳しく教えてくれ」
『……うん』 

 ユカが泣きながら語った状況をまとめると。
 食材を買いに出かけた帰り道、信号無視の暴走車に轢かれそうになったのだという。
 マシューは警戒音を鳴らしてなんとかユカを回避させようとしたが、スピードを上げた暴走車との接触を避けられなかった。そこでマシューは緊急用のエアバッグを出してユカを庇い、代わりに轢かれたというわけだ。

「そうか……。元通りに出来るかどうかはわからないが、手を尽くすよ。本当に大丈夫なのか?」

 幼い頃、ユカはリエと共に過激派組織の無差別襲撃に巻き込まれ、リエはユカを庇い犠牲となった。
 しかもこの日は100年前の天変地異と同じ3月15日。
 再び被害者やその家族の心身に大きな傷を負わせたまま、「過去」となった。

『大丈夫だよ。もう、昔みたいになりたくない……。大丈夫』

 まだ幼かったユカは、食事も喉を通らず、ほぼ一日カーテンを閉め切った部屋で過ごしていたという。またトミオもリエを失い、一人絶望していた。トミオとユカが今のように過ごすことが出来るようになったのは、サツキのおかげだ。

「……それなら良いが。くれぐれも無理だけはしないように」
『うん、ありがとう』

(……強くなったな)

 孫の成長を嬉しく感じつつも、ユカを襲った暴走車に対し怒りがこみ上げる。ニュースに上がるくらいだから、謎の暴走車は意図的に人間を襲っているのだろう。
 あの時もそうだった。
 結果的に治安部隊が過激派組織を鎮圧し逮捕した上で、法の裁きによって首謀者は極刑に至った。それにより過激派組織は消滅したと言われている。

(偏った価値観は簡単に人を狂わせる……。そして犠牲になるのは決まって無関係の人間ばかりだ)

 トミオは俯いた視界の中で、握りしめた右手が震えていることに気がついた。そしてやるせない思いのまま、小さく息を吐く。

「その携帯端末は、学校の指定便で送ってくれないか?」
『うん、出来るだけ早くおじいちゃんの家に届くようにするね』

 ユカの小さな微笑みに安堵しながら、トミオは通信を切った。訪れた静けさの中、空調の鈍い機械音があの男の声と重なり、リビングに響いてくる。

『人が「機械」に癒しと支えを求め、共にあろうとするのは人としての堕落だ。「機械」とは道具であり、人と対等にあるべきものではない。だからこそ、そのように腐敗した人間は抹消しなければならない。それが正しい世界の在り方である』

 裁判で首謀者の男が語ったこの言葉。忘れようとしても忘れられないが、それでも忘れなければ前には進めない。

(それでも俺は……機械を扱う人を支えたい)

 焦点の合わない視界の中にサツキの姿が入る。ベランダでサツキは洗濯物を干していた。洗い立ての白いベッドシーツが陽光を受けとめながら風になびく。

(AIドールは主亡き時間には存在できない。……いや、やめよう)

 リエと共に暮らした室内を、トミオは今一度見つめ返した。
 無駄なものは一切なく、シンプルで整頓された空間が広がる。リエが選んだ小物がアクセントとして置かれ、サツキによって掃除が行き届いた清潔な部屋。他人はモデルハウスの様だと褒めるものの、トミオにはただ色あせて見えるだけだった。