ひとりの老いた男性がベッドに横たわっていた。髪は白く、顔には幾つもの皺が刻まれている。
男性の閉じられた瞳は、現実よりも過去の遠い記憶に想いを馳せているのかもしれない。
幾度となく男性の名前を呼ぶ声がある。男性の耳に届くその声は柔らかい。
『……トミオさん』
名前を呼ばれた男性、トミオは、その声にピクリと目元を動かす。
うっすらと目を開け、飛び込んでくる明るい空間に目を細めた。
ぼんやりとした視界の中で穏やかな光が、辺りを包み込むように広がる。
(ここは……あの世、か?)
『トミオさん』
先ほどから名前を呼ぶのは誰だろう?
朦朧とした意識の中で聞こえる声の主を、記憶からたどる。
馴染みのある言語。聞きなれた発音と口調。
それはこの世で誰より大切にしたいと望んでいた人の声だ。
(ああそうだ、この声は、彼女だ……)
まどろみの中、この安堵感が心地よく、そしてかけがえなく感じ……、故に瞼は上がらない。
「トミオさん……!」
次いで響いたのは無機質な声。先ほどとは異なり、温かみはない。
しかし音として届いた声に意識が引き寄せられるのを感じた。
声の主はなおも、妙に高揚したテンションでトミオを呼び続ける。
その声からは応えてくれるまで諦めないといった強い意志、そして何より一生懸命さがあった。
(……リエ?)
トミオは昔から朝が苦手だ。
そんなトミオをいつも呆れ顔で起こしてくれていたのがリエだ。
起床を促すリエと応じないトミオの、朝の攻防戦が始まる。
いくら年月を重ねても、リエはトミオを起こすミッションに必死になるのだ。
(……もう少しだけ、このままでいさせて欲しいな)
そう考えたトミオは、寝たフリをする。
「……トミーちゃん!」
声の主は少し間を置き、思いついた変化球を投げた。
それはトミオにとって想定外のアクションと言っても良い。
(トミーちゃん!? ……トミーって、俺のことか?)
その穏やかな眉がピクリと動く。声の主はこの反応を見逃さない。
「朝。トミーちゃん! ……今すぐ起きる!」
それは勝利を確信した朝の挨拶。
トミオの動揺した反応が嬉しかったのだろう。声のトーンが少し上がっていた。
(さてはリエのやつ、俺の反応を楽しんでいるな?)
トミオはリエの勝ち誇った顔を見てやろうと、勢いよく目を開く。
『俺はトミオだ。やり直しを要求する!』
けれどもその目が捉えたものは、見慣れた寝室の天井。
少し開いた窓からは、生ぬるい風が入り込み、和紙製のブラインドを揺らす。
宙をさまようトミオの、75年の年月を刻んだ左手は何かを掴もうと小刻みに震えていた。
(夢……)
「やっと起きた!」
抑揚のない単調な声。穏やかで、静か。人の声を模倣した無機質なこの声を、トミオは誰よりよく知っている。
「おはよう、サツキ」
ベッドサイドの左側、窓側に立つのはトミオを主とするサツキ。
基幹デザイン式ヒト型AIドールだ。
部分的に機械構造が露出している白いボディは、特殊塗料で着色された軽量合成金属製。
頭部中央にパール大ほどの大きさの黒いカメラがふたつ、眼のように並ぶ。
すらりとした鼻、横に広がる小さな楕円形の穴が口の役割をしている。
このデザインは主がAIドールに感情移入をしないよう設計段階で考慮されたデザイン様式。
トミオはサツキという名を付け登録した。主な使用目的はユーザーの生活のサポートだ。
「おはよう、トミオさん」
サツキは何も入っていない洗濯籠を床に置き、風に揺れてもつれたブラインドを直した。
トミオ自身が趣味で藍染めをした木綿のエプロンが、朝の光を受けて明るく輝く。
「今日はイイ太陽! イイ一日の始まり!」
「良い太陽なら洗濯もはかどりそうだね」
「ハイ。だから今日は洗濯を沢山する。トミオさん起きて着替える、いつもの測定する!」
「うん、お願いするよ」
トミオの言葉にサツキは頷き、機械の右手を差し出す。
その甲には「WHR21X2-0415」というシリアルナンバーが刻まれている。
これはアゼレウス社とゼロン社、両企業の製品である証拠、そしてサツキがヒトではないという証。
サツキの眼が、開いた窓に向けられる。風が藍染のエプロンの裾を揺らす。
毎朝の測定はサツキの手の上に、トミオが右掌を乗せることで始まる。
それは通常90秒ほどで終了するものだが、今日はなかなか判定が出ない。
「……もう一度トライ!」
先ほどと同じ動作を繰り返す。
トミオは少しだけ焦りを感じたが、今度の測定では結果が出た為、少しホッとしていた。
「……カンリョウ」
「ありがとう、サツキ」
完了を合図に、無言のままトミオがサツキから手を離す。
サツキは離れていくトミオの手を、二つの黒いカメラの目で追いかけた。
「……トミオさん、イイ夢ミレマシタ?」
サツキの言葉にトミオは少し考えるも、明確な答えは出てこなかった。
「……わからない。ただ、サツキのおかげで目覚めは良かったよ」
そう言いながら、自然と口元がほころぶ。
これも“サツキのおかげ“だ。
「ヤッター! これで今日もシアワセ!」
トミオの言葉にサツキはカメラアイをピンク色に点灯させる。
子供のように素直な反応。苦笑しながらも、悪い気はしない。
穏やかな微笑みの奥で、罪悪感だけがちらついた。
(サツキはリエの代わりではない。いや、誰もリエの代わりになど、最初からなれはしない……)
無駄のない動きで家事をこなす、サツキ。
トミオはその姿を無言のまましばらく見守った。
やがて壁の時計を確認し、愛用の杖を頼りに歩く。
今日はトミオにとって重要な一日。その朝がいま始まったのだ。
男性の閉じられた瞳は、現実よりも過去の遠い記憶に想いを馳せているのかもしれない。
幾度となく男性の名前を呼ぶ声がある。男性の耳に届くその声は柔らかい。
『……トミオさん』
名前を呼ばれた男性、トミオは、その声にピクリと目元を動かす。
うっすらと目を開け、飛び込んでくる明るい空間に目を細めた。
ぼんやりとした視界の中で穏やかな光が、辺りを包み込むように広がる。
(ここは……あの世、か?)
『トミオさん』
先ほどから名前を呼ぶのは誰だろう?
朦朧とした意識の中で聞こえる声の主を、記憶からたどる。
馴染みのある言語。聞きなれた発音と口調。
それはこの世で誰より大切にしたいと望んでいた人の声だ。
(ああそうだ、この声は、彼女だ……)
まどろみの中、この安堵感が心地よく、そしてかけがえなく感じ……、故に瞼は上がらない。
「トミオさん……!」
次いで響いたのは無機質な声。先ほどとは異なり、温かみはない。
しかし音として届いた声に意識が引き寄せられるのを感じた。
声の主はなおも、妙に高揚したテンションでトミオを呼び続ける。
その声からは応えてくれるまで諦めないといった強い意志、そして何より一生懸命さがあった。
(……リエ?)
トミオは昔から朝が苦手だ。
そんなトミオをいつも呆れ顔で起こしてくれていたのがリエだ。
起床を促すリエと応じないトミオの、朝の攻防戦が始まる。
いくら年月を重ねても、リエはトミオを起こすミッションに必死になるのだ。
(……もう少しだけ、このままでいさせて欲しいな)
そう考えたトミオは、寝たフリをする。
「……トミーちゃん!」
声の主は少し間を置き、思いついた変化球を投げた。
それはトミオにとって想定外のアクションと言っても良い。
(トミーちゃん!? ……トミーって、俺のことか?)
その穏やかな眉がピクリと動く。声の主はこの反応を見逃さない。
「朝。トミーちゃん! ……今すぐ起きる!」
それは勝利を確信した朝の挨拶。
トミオの動揺した反応が嬉しかったのだろう。声のトーンが少し上がっていた。
(さてはリエのやつ、俺の反応を楽しんでいるな?)
トミオはリエの勝ち誇った顔を見てやろうと、勢いよく目を開く。
『俺はトミオだ。やり直しを要求する!』
けれどもその目が捉えたものは、見慣れた寝室の天井。
少し開いた窓からは、生ぬるい風が入り込み、和紙製のブラインドを揺らす。
宙をさまようトミオの、75年の年月を刻んだ左手は何かを掴もうと小刻みに震えていた。
(夢……)
「やっと起きた!」
抑揚のない単調な声。穏やかで、静か。人の声を模倣した無機質なこの声を、トミオは誰よりよく知っている。
「おはよう、サツキ」
ベッドサイドの左側、窓側に立つのはトミオを主とするサツキ。
基幹デザイン式ヒト型AIドールだ。
部分的に機械構造が露出している白いボディは、特殊塗料で着色された軽量合成金属製。
頭部中央にパール大ほどの大きさの黒いカメラがふたつ、眼のように並ぶ。
すらりとした鼻、横に広がる小さな楕円形の穴が口の役割をしている。
このデザインは主がAIドールに感情移入をしないよう設計段階で考慮されたデザイン様式。
トミオはサツキという名を付け登録した。主な使用目的はユーザーの生活のサポートだ。
「おはよう、トミオさん」
サツキは何も入っていない洗濯籠を床に置き、風に揺れてもつれたブラインドを直した。
トミオ自身が趣味で藍染めをした木綿のエプロンが、朝の光を受けて明るく輝く。
「今日はイイ太陽! イイ一日の始まり!」
「良い太陽なら洗濯もはかどりそうだね」
「ハイ。だから今日は洗濯を沢山する。トミオさん起きて着替える、いつもの測定する!」
「うん、お願いするよ」
トミオの言葉にサツキは頷き、機械の右手を差し出す。
その甲には「WHR21X2-0415」というシリアルナンバーが刻まれている。
これはアゼレウス社とゼロン社、両企業の製品である証拠、そしてサツキがヒトではないという証。
サツキの眼が、開いた窓に向けられる。風が藍染のエプロンの裾を揺らす。
毎朝の測定はサツキの手の上に、トミオが右掌を乗せることで始まる。
それは通常90秒ほどで終了するものだが、今日はなかなか判定が出ない。
「……もう一度トライ!」
先ほどと同じ動作を繰り返す。
トミオは少しだけ焦りを感じたが、今度の測定では結果が出た為、少しホッとしていた。
「……カンリョウ」
「ありがとう、サツキ」
完了を合図に、無言のままトミオがサツキから手を離す。
サツキは離れていくトミオの手を、二つの黒いカメラの目で追いかけた。
「……トミオさん、イイ夢ミレマシタ?」
サツキの言葉にトミオは少し考えるも、明確な答えは出てこなかった。
「……わからない。ただ、サツキのおかげで目覚めは良かったよ」
そう言いながら、自然と口元がほころぶ。
これも“サツキのおかげ“だ。
「ヤッター! これで今日もシアワセ!」
トミオの言葉にサツキはカメラアイをピンク色に点灯させる。
子供のように素直な反応。苦笑しながらも、悪い気はしない。
穏やかな微笑みの奥で、罪悪感だけがちらついた。
(サツキはリエの代わりではない。いや、誰もリエの代わりになど、最初からなれはしない……)
無駄のない動きで家事をこなす、サツキ。
トミオはその姿を無言のまましばらく見守った。
やがて壁の時計を確認し、愛用の杖を頼りに歩く。
今日はトミオにとって重要な一日。その朝がいま始まったのだ。
