Clover、たったひとつの記憶

 トミオは噴水そばの芝生までたどり着く。そこに小さなクローバーが群生していた。
 体に陽光が降り注ぐと、体の圧が少しだけ和らぐ。
 トミオの視力では、三葉も四葉もそう変わらない。目を凝らし探せる範囲で四葉を探す。

  「む……これか?」

 少し先の場所で、花のような四葉のクローバーを見つけた気がした。その目標はすぐに見失う。
 それでも目の前にある。間違いない。しかし、届かない。求めても取れない。

(どうして必死になっているんだ……?)

 思考が、記憶が、トミオの脳内で目まぐるしく過去と現実が入り混じる。
 トミオは雑念を払うように首を振り、四葉のクローバーを探そうと意識を集中させる。
 四葉のクローバーは確かにあった。まちがいない。右斜めの方角だ。
 しかし近づけば近づくほど、足場が崩れるような気がしてならなかった。
 それはまるで粘り気のある沼に足が捕らわれるようなもの。一歩ずつ深みにはまっていくような感覚だ。次第に顔も覆われるようになり、息苦しくなってくる。

 ――”四葉のクローバーは幸運の証なの”

 そうリエが耳元で囁いたような気がした。
 体を包む陽光が遠のいていくと、先ほどの鋭い視線が背中にまた突き刺さる。同時に圧力も増大し、トミオの体を押しつぶしにかかる。

(俺はリエの四葉のクローバーになると誓った)

 いつの間にか目の前に、暗い水底に封をした瓶が見える。
 揺らめく水面の明かりで、瓶の中にある四葉のクローバーがちらりと見えた。その瓶は、ベッタリとした赤黒い泥に沈みつつある。

『触るな!』

 後ろから悲痛な叫び声が聞こえる。その声が誰のものか、よくわかっている。
 それでもトミオはその瓶に向かって、手を伸ばし続ける。

(あれは……)

 -*-

 7年前の3月15日。
 職場からリエとユカの元へ駆けつけた時は、すでに手遅れだった。
 リエの顔には白い布をかけられ、白いキモノを纏って寝台に横たわっていた。

「リエ……!」

 白い袖から出た、深い皺を刻んだ手は青白く、トミオが知る温かみはどこにもない。
 震える左手がリエの顔の布に伸びかけた時――、トミオはカナド家現当主夫人に呼び止められた。

「イサキさん、ダメよ」
「何故ですか?」

 リエの遺体が数人の医師と看護師に運ばれていく。
 黒服の男性たちによって行く手を阻まれたトミオは、ただ見送ることしか出来なかった。

(最後の別れすらも許されないのか。リエの姿をもう一度この目に焼き付けることも……)

「どうして……」
「いまのあなたに、リエさんの死を受け止められる?」

 カナド家現当主夫人の言葉に、トミオはなにも言えなかった。
 言われるがまま病院の会議室へと移り、代替わりしたカナド家現当主夫妻の説明を聞く。
 リエとユカは過激派組織が扱う「機械」の襲撃事件に巻き込まれたという。それは無差別に行われたらしい。
 おそらくその”機械”のなかにはトミオが修理したモノもあっただろう。リエは、トミオが信じて愛し続けた「機械」によって殺されたのだ。

(もうリエは戻らない)

「イサキさん。カナド家はこの件を黙って受け入れるつもりはない。……協力してくれるね?」
「ユカも、こうなった以上あなたには任せられないわ」

 ショックのあまり、言葉が出てこない。
 リエを失い、ユカともまた引き剝がされる。荒れ狂う暗い海の中にたった一人取り残されたようだ。

「リエの葬儀への出席も控えて欲しい。また埋葬場所も今は教えられない」
「そんな……」

 異を唱えるも、それが過激派組織の報復からトミオとユカを守るためだという。カナド家現当主夫妻の言葉に、トミオの立場では黙って従うしかない。
 ユカは虚ろな目をしたままカナド家に保護された。その痛々しい姿を抱きしめることも叶わないまま。
 ――過去の記憶が入れ替わる。
 浴びるように強い酒を飲み続けた日々だった。
 絶望し荒れた生活を送るトミオの元に、一体の基幹デザイン式のヒト型AIドールが連れられて来た。
 アレンとアゼレウス社の後輩たちが運んできたのだ。
 名前を付けてやってくれと言われて、トミオは白いAIドールを鋭い視線で見つめた。

『ハジメマシテ……! トミオ……サン』

 ふたつのカメラアイが、青く光っている。基幹デザイン式の青点灯は「悲哀」のサインだ。
 アレンが呆れて「この子は生まれたてなんだ。そんなに睨むなよ」とトミオをたしなめる。
 トミオは何も言わず、AIドールに背を向け自宅の庭に植えた樹を見つめた。
 満月の夜空に舞う、小さな花びらが目に入って――、頭に浮かんだ単語を口にした。

「サツキ……」

 それは適当につけた名前だった。

『サツキ、登録スル?』

 しかしカメラアイの点灯を青から「安心」の緑色に変えたサツキは、遠慮がちにトミオに確認する。
 困惑したまま振り返るトミオに、アレンたちが頷いて見せた。
 仕方なくトミオが承諾の意を示すと、サツキはカメラアイを「喜び」の黄色に光らせた。

『……登録処理完了。サツキ、トミオサン、ト……ウゴク!』
「動くじゃなくて……」

 トミオがため息をついて指摘すると、

『一緒ニ……スゴス?』

 サツキはすぐに訂正してみせるも、自信がなさそうだった。

「そう……だね……」

 一滴の涙が、トミオの室内履きをわずかに濡らした。
 サツキがそっと差し出すハンカチからは、ほのかなスズランの香りがした。

 -*-

 体の角度を調節しながら必死に手を伸ばす。
 噴水の水が頬をぬらす。四葉のクローバーの葉に、震える指先が僅かに触れる。

(あれは……俺だった。後悔しか出来なかった、あの頃の)

 あの夜から今に至るまで7年間。
 サツキが導いてくれた。ユカと暮らせるようになる未来まで。

(もしも四葉のクローバーを手に取れるなら……)

 トミオは体に極力負担を掛けないように角度を調節して手を伸ばす。
 震える左手は四葉のクローバーの場所を少し外し、目標を見失って宙をさまよう。

(俺は、届けたかったんだ。君に……)

 深い皺が刻まれた左手を、目前の四葉のクローバーに向かって伸ばす。

『トミオさん……』

 突然、耳元でリエの声が聞こえた。
 辺りを見回しても姿は見えない。それでも、右手に誰かの両手が重ねられた感触があった。

『私、ほんとうに幸せだったの』

 その言葉でトミオは一歩踏み出すための勇気を与えられた気がした。
 芝生の四葉のクローバーの短い茎に触れ、軽く力を入れて摘み上げる。

「ありがとう……リエ」

 気が付けば、トミオは。
 小さな四葉のクローバーの茎を摘んだまま、芝生の上に足を投げ出して座っていた。
 涙に濡れた目は、どこまでも高く澄んだ青を映し出す。
 白い蝶のつがいが、その空に寄り添うように飛んでいる。もうあの澱みの沼はなかった。