終わらない夜に

落ち着いてから名執さんに、山梨県から来たことや片道分の電車賃しかなかったことを話した。
すると彼は驚きながらも『今日はとりあえず帰りな』とお金を持たせてくれた。

『けど、知らない人からお金なんて……』
『ちゃんとしてる子だね。貰えないっていうなら、いつかそのうち返しにおいで』

その言葉とともにくれた名刺には彼の名前と連絡先が書いてあり、大人な彼の優しさにお礼を言って帰路についた。

家を飛び出したときはあんなにも悲しい気持ちでいっぱいだったのに、帰り道は不思議と心は穏やかだった。

それはきっと、自分の気持ちと向き合うことができたから。
自分くらいは、自分の悲しみや苦しさを受け止めてあげたいと思えたから。

それから私は、いつか彼にお礼を言うために毎日を過ごした。

アルバイトと勉強を両立させながら母からの暴言も乗り越え、高校卒業後は事務全般の専門学校に通うため都内でひとり暮らしを始めた。

そして生活も落ち着いた頃、ようやく彼に連絡をとり、借りていたお金を返すために再会したのだった。

『あの時は本当にありがとうございました』
『どういたしまして。元気そうで安心した、ずっと気になってたから』

そう笑ってくれた彼とそれから少しずつ連絡を取り合い、会って話をして……と過ごすうちに好きになっていた。
私にとって光のような、彼のことを。



それから月日は流れ、24歳の今。
仕事中にもかかわらず、私の頭の中は先日の名執さんとのキスで埋め尽くされていた。

「──咲、藤咲!」
「あっはい!」

突然響いた大きな声にはっと我に返ると、目の前には目を吊り上げ怒る部長がいた。

「何度も呼ばせるな!前に言った先月のデータを早く出せ!」
「えっ、でもあれは明日まで……」
「急遽必要になったんだ!ったく、仕事くらいしか取り柄がないんだからそれくらい早く終わらせておけ」

チクチクと刺すように言う部長に周りもくすくすと笑う。

相変わらず職場は居心地が悪い。
だけど今は、先日のキスの思い出がこの心を支えてくれている。

付き合って一ヶ月でのキス。
大人としては遅いのかもしれないけど、そもそも恋愛経験の浅い私にとってはこれだけでふわふわと浮かれてしまう。

今夜も名執さんと会う約束だけど、どんな顔をすればいいかわからない。

キスなんて高一の頃二ヶ月だけ付き合った彼氏以来だ。それ以来、恋愛なんてする余裕なかったから。
……だけど今の、母のために働くような日々はいつまで続くのかな。

母のことは、名執さんには一切話せていない。

恥ずかしい、情けない、嫌われたくない。
そんな気持ちで言えずにいるけれどずっと隠すことはできないだろう。

言うべきなんだろうけど……言えないよ。
幸せだと思うほど母の影がチラついて、ずっと心が揺れている。