終わらない夜に


「あの、名執さん。私今日はこのまま帰りますね」
「……ごめん。また次回、埋め合わせさせて」
「はい。スペイン料理、楽しみにしてます」

笑って言った私に、名執さんは申し訳なさそうに頭を優しくなでる。

「タクシー呼ぶから少し待ってて」
「えっ、いいですよ。悪いです」
「いいから。さっきの体調のこともあるし、俺が心配なんだ」

照れたり笑ったりもせず真剣に言う彼から、本当に心配してくれているのだろうと感じられる。
お言葉に甘えてタクシーを呼んでもらうと、駅近くという立地もありタクシーはすぐに来た。

「じゃあまた連絡する」
「はい。お仕事頑張ってくださいね」

私が乗ったのを確認したあとも、開いたドアに手をかけたまま、名執さんはなにかを言いたげに私の顔をじっと見つめた。

「つぐみ」
「はい?」

次の瞬間、突然彼の顔が近づく。
目の前に迫る透き通るような茶色の瞳をきれいだ思うと同時に、そっと唇が重なった。

「……おやすみ」

少し照れくさそうに微笑んで手を振る。
そんな名執さんの行動に私が驚いたまま固まっているうちに、ドアは閉まり車は走り出した。

今のって……キス、だよね。
名執さんとの、初めてのキス。あとから湧いてきた実感に、車の中で叫び出しそうなくらいうれしい。

優しく、一瞬触れただけの唇。その優しいキスが名執さんらしくて愛おしい。

今夜は眠れないかも……。
先ほどまでの苦しさや恐怖も吹き飛んでしまうくらい、胸の奥がまた彼で埋め尽くされていく。

その瞬間、ヴーッと鳴るスマートフォンの振動に我に返った。
画面を見るとそれはまたも母からの着信で、一気に嫌な気持ちになりながらも電話に出た。

「……もしもし」
『ちょっと!まだお金入ってないけどどういうこと!?今日約束あったのに行けないじゃない!』
「ごめん、今日残業で……明日の朝のうちに振り込んでおくから」
『絶対よ!? もう本当トロいんだから!ちゃんとしてよね、使えない!』

昼間同様、母は言いたいことを言い終えるとブチッと通話を終わらせた。
たった数秒の母の声が、それまでの夢心地から一瞬で現実に引き戻す。

……浮かれてちゃいけない。
どんなに今幸せでも、私と名執さんとでは住む世界が違う。
育ってきた環境も、見てきた景色も違いすぎる。

彼の隣に私は相応しくないとわかってる。……だけど。
もう少しだけ。このまま、彼の隣にいたい。