「お先に失礼します」
18時の定時ちょうどに仕事を終えると、誰からの返事もない挨拶を告げオフィスを出た。
そして私服に着替えると足早に駅へと向かう。
本当はすぐATMに寄って母に送金をしなければいけない。
けれどそんな時間も惜しいくらいはやる気持ちを抑え、向かったのは、電車で20分ほど先にある渋谷の街だった。
たくさんの人が行き交う、複雑な作りの駅の中を抜けてすぐ着いたのは、今や渋谷の名所と言われる複合施設『渋谷シャインタワー』だ。
予約しておいたチケットで入場し、40階以上ある建物をエレベーターで一気に上った先にあったのは屋上展望台だった。
芝生が敷かれ、ところどころがイルミネーションで照らされたこの展望台は、渋谷の街を360度見渡せることで人気のスポットだ。
訪れる人々が夜景を背景に映え写真を撮る中、私はひとり一番端にあるベンチに腰かけ頭上を見上げた。
「わぁ……」
このエリアで最も高いと言われるこのビルは、つまり一番空に近いところ。
そこで見上げた夜空には、今日もいくつもの星が輝いている。
九月の少し涼しい夜風を感じながら、心が穏やかになるのを感じた。
この展望台に来るのは、私にとって唯一の趣味。
開業した6年前から、バイト代から捻出したお金で月に1、2回の頻度で来てはこうして夜空を見上げるのが好きだ。
大きな空と星の輝きを見ることで現実を忘れられる。初めてここに来た日の感動を今でも忘れられず、ずっと通っている。
……それに、今ではそれだけが理由じゃない。
「つぐみ」
名前を呼ばれて視線を空から戻すと、前からはひとりの男性が歩いてくる。
180センチ近い高身長に、チャコールグレーのスーツ越しでもわかるしっかりとした体つき。
栗色の髪に薄茶色の目をした彼は、彫りの深い奥二重の目と鼻筋が通った高い鼻ととても整った顔をしている。
周囲の人々がつい視線を向ける中、それらを一切気にすることなくこちらに来た彼は私の前で足を止めた。
「名執さん。もうお仕事終わったんですか?」
「うん、予定より早く片付いた。つぐみはまだ来たばっかりでしょ。少しゆっくりしていこ」
「はい」
にこっと笑って私を気遣うように言うと、隣に腰を下ろし同じように空を見上げた。
「今日は天気が良かったから星がよく見える」
「そうですね。もう少し寒くなればいっそう見えやすくなるんですけど……」
話しながら、名執さんは私の手をそっと握る。
私の手を包む大きな手の感触に視線を再び彼へ向けると、その口元は小さく笑った。
いつも穏やかな表情をする中、こうして不意打ちに見せるいたずらな表情に私は弱い。
彼――名執蒼は、このビルを運営する『名執不動産』の社長息子だ。
名執不動産は、誰もが一度は耳にしたことのある国内トップの不動産会社。
土地を扱う不動産から賃貸業やハウスメーカー運営、リゾート開発やショッピングモールの運営など……いくつもの子会社を持ち様々な業種を手広く行っている。
名執さんは30歳という若さでそのすべての部門を取りまとめる常務を務めており、数年後には副社長、そしてのちに社長となりこの大企業を担う未来を約束された存在だ。
それは社長息子だからというだけでなく、有名大学を主席で卒業するほどの優秀さと真面目さ。そして入社後の会社での仕事ぶりから周囲も納得の評価の結果だそう。
ハイスペックで見た目もいい、そんな彼と私が恋人同士だなんてなにかの間違いのようにも思えてしまう。
けれど、重ねられたままのその手が『間違いじゃない』と教えてくれる。



