あの日、午後三時の教会の鐘が鳴り響き、最愛の片割れの命が断頭台の露と消えてから、数年の歳月が流れた。
ルシフェニア王国という絢爛豪華な国家は歴史の藻屑と消え、新しい民衆の時代が幕を開けていた。
かつて「悪ノ娘」と民衆から呪われ、恐れられた若き王女の記憶は、
今や遠い過去の過ちとして語り継がれるのみ。
人々の日常から、あの黄金に染まった治世は少しずつ、確実に色褪せつつあった。
国の最果て、切り立った断崖絶壁と荒涼とした岩肌が続く、寂れた海辺。
潮風が常に吹き荒れるその地に、ひっそりと佇む古い教会があった。
その教会で、一人の若い修道女が働いていた。
かつて贅の限りを尽くした黄色いドレスを纏っていた少女は今、
白と黒の慎ましやかな修道服に身を包んでいる。
陽の光を浴びて黄金に輝いていた美しい金髪は、ベールのなかにすべて隠され、
その瞳からはかつての傲慢な光は完全に消え失せていた。
彼女の名はリリアンヌ。
――いや、今は名前を捨て、身分を捨て、
ただ一人の孤独な罪人として生きる「リン」という名の修道女だった。
あの日、アレンが命をかけて遺してくれた召使の服を着て、
涙で視界を真っ暗にしながら王城を抜け出した彼女は、あてもなく歩き続け、この最果ての地に流れ着いた。
毎日、床を磨き、貧しい人々にパンを配り、神に祈りを捧げる。
それが、アレンの命を奪って生き延びてしまった自分にできる、唯一の贖罪だと信じていた。
「……リリアンヌ。いや、今は『リン』、だったね」
ある夕暮れ時。誰もいない静まり返った礼拝堂に、重々しい靴音が響いた。
振り返ったリリアンヌは、息を呑んで立ち尽くした。
そこに立っていたのは、深海を思わせる艶やかな青い髪の青年。
かつて彼女が生まれて初めて恋焦がれ、そして彼女のすべてを奪い去った反乱軍の将であり、
現「青の国」の王――カイルだった。
彼は新しい領土の視察の途中で偶然この教会に立ち寄り、
隅で祈りを捧げていた彼女の「顔」を見つけてしまったのだ。
「カイル……様……」
リリアンヌの身体が、過去の恐怖と屈辱でガタガタと震え出す。
彼女を殺しにきたのか、あるいは再びあの断頭台へと引きずり出すために追ってきたのか。
カイルの青い瞳は、かつて謁見の間で見せた優しさなどなく、ひどく冷徹に彼女を見つめていた。
しかし、リリアンヌは逃げなかった。
彼女は静かに首を振り、悲しげに微笑んで胸元で十字を切った。
「いいえ、私はただの罪深き修道女、リンです。貴方が憎んだルシフェニアの王女は
……あの午後三時に、断頭台の上で、皆様の歓声のなかで死にました」
カイルは腰の剣に手をかけることはしなかった。
彼の瞳の奥に宿っていたのは、激しい復讐の炎ではなく、すべてを焼き尽くした後の、暗く深い虚しさだった。
カイルは知っていたのだ。
あの日、黄色いドレスを着て堂々と死んでいった「王女」が、実は彼女の双子の弟、
アレンであったという歪な真実を。
だが、それを今さら民衆に暴き、この生き残った少女の命まで奪うことに、
何の意味もないことも理解していた。
「……君がここで何を祈り、誰の面影を追っているのかは聞かない。
だが、もしあの少年が命をかけて君を逃がしたのなら……君は死ぬことすら許されない。
呪われた王女としてではなく、一人の人間として、ただ生きてくれ」
カイルはそれだけを冷たく言い残し、夕闇のなかに消えていった。
一人取り残されたリリアンヌは、教会の裏手にある、激しい波の音が間近に聞こえる海岸へと、
ふらつく足取りで歩みを進めた。
空は、燃えるような茜色から、深い紫色の黄昏時へと移り変わろうとしていた。
まるであの日、アレンが最期に見た空と同じ色だった。
リリアンヌの手には、透明な小さなガラスの小瓶と、一枚の古びた羊皮紙が握られていた。
この港町に古くから伝わる、切ない「願い事」の伝承を、彼女は人伝てに聞いていたのだ。
――羊皮紙に誰にも言えない願いを書いて、小瓶に詰めて海に流せば、
いつか、いつの日か願いは叶う。
リリアンヌは砂浜に跪き、潮風に修道服を激しく揺らしながら、きつく目を閉じた。
かつての自分は、この世界のすべてが自分の思い通りになると思っていた。
欲しいものは何でも手に入り、邪魔なものはすべて消し去ればいいと信じていた。
だが、すべてを失った今だからこそ、痛いほどによく分かる。
自分が本当に欲しかったものは、王座の権力でも、異国の財宝でも、青い王子の愛でもなかった。
毎日午後三時に、自分のために世界で一番甘いブリオッシュを焼き、
完璧な温度で紅茶を淹れて、自分の我が儘を、自分の醜さを、
世界で一番優しい瞳で全肯定してくれた
――あの金の髪の召使、アレンとの、何気ない日常。
ただそれだけだったのだ。
リリアンヌの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、
白い頬を伝って乾いた砂浜へと吸い込まれていく。
「アレン……ごめんなさい、ごめんなさい……!
私は、貴方に甘えてばかりで、何も返せなかった……っ」
声を押し殺して泣き叫ぶ。
胸の奥をかきむしられるような孤独が、彼女の華奢な身体を打ちのめす。
「もしも……もしも来世というものがあるのなら。
神様が私たちをもう一度、生まれ変わらせてくださるのなら……」
彼女は震える手で、願いを認めた羊皮紙を丸め、小瓶のなかに押し込んだ。
そこには、アレンが残した召使の衣服の切れ端で作った、
黒いインクで、ただ一行だけ、彼女の本当の願いが書かれていた。
【もしも生まれ変われるのなら、その時はまた、二人で一緒に遊びましょうね】
リリアンヌはしっかりと小瓶に栓をすると、
愛おしそうに、まるでそれがアレンの身体そのものであるかのように強く胸に抱きしめた。
そして、消え入りそうな夕日へ向かって、己の魂のすべてを込めて、小瓶を海へと投げ入れた。
小瓶はチャプンと寂しい音を立てて波間に落ち、夕日の光を反射してキラキラと輝きながら、
黄金色に染まる海の彼方へと流れていく。
リリアンヌは、その小瓶が波の間に見えなくなるまで、潮風に打たれながら、
ずっとまっすぐに海を見つめ続けた。
「アレン……私は、貴方が遺してくれたこの命で、生きていくわ。
貴方の分まで、この世界を見て、祈り続けるわ……」
その瞬間、ざあぁ、と一段と大きな、包み込むような温かい波の音が響き渡った。
それはまるで、かつて夜の闇のなかで、悪夢に怯えるリリアンヌの寝顔を見つめながら、
アレンが静かに歌ってくれた優しい子守唄のようであり。
そして、断頭台の露と消えた少年が、海の向こうから
「待っているよ、リリアンヌ」
と微笑みながら応えた、愛に満ちた声のようでもあった。
リリアンヌは涙を ぬぐい、ベールを整え、
生まれて初めて自分の足でしっかりと大地を踏みしめて、教会へと歩き出す。
彼女の胸の中には、アレンがその命と引き換えに遺してくれた「未来」という名の消えない光が、
今も、そしてこれからも、永遠に灯り続けているのだった。
ルシフェニア王国という絢爛豪華な国家は歴史の藻屑と消え、新しい民衆の時代が幕を開けていた。
かつて「悪ノ娘」と民衆から呪われ、恐れられた若き王女の記憶は、
今や遠い過去の過ちとして語り継がれるのみ。
人々の日常から、あの黄金に染まった治世は少しずつ、確実に色褪せつつあった。
国の最果て、切り立った断崖絶壁と荒涼とした岩肌が続く、寂れた海辺。
潮風が常に吹き荒れるその地に、ひっそりと佇む古い教会があった。
その教会で、一人の若い修道女が働いていた。
かつて贅の限りを尽くした黄色いドレスを纏っていた少女は今、
白と黒の慎ましやかな修道服に身を包んでいる。
陽の光を浴びて黄金に輝いていた美しい金髪は、ベールのなかにすべて隠され、
その瞳からはかつての傲慢な光は完全に消え失せていた。
彼女の名はリリアンヌ。
――いや、今は名前を捨て、身分を捨て、
ただ一人の孤独な罪人として生きる「リン」という名の修道女だった。
あの日、アレンが命をかけて遺してくれた召使の服を着て、
涙で視界を真っ暗にしながら王城を抜け出した彼女は、あてもなく歩き続け、この最果ての地に流れ着いた。
毎日、床を磨き、貧しい人々にパンを配り、神に祈りを捧げる。
それが、アレンの命を奪って生き延びてしまった自分にできる、唯一の贖罪だと信じていた。
「……リリアンヌ。いや、今は『リン』、だったね」
ある夕暮れ時。誰もいない静まり返った礼拝堂に、重々しい靴音が響いた。
振り返ったリリアンヌは、息を呑んで立ち尽くした。
そこに立っていたのは、深海を思わせる艶やかな青い髪の青年。
かつて彼女が生まれて初めて恋焦がれ、そして彼女のすべてを奪い去った反乱軍の将であり、
現「青の国」の王――カイルだった。
彼は新しい領土の視察の途中で偶然この教会に立ち寄り、
隅で祈りを捧げていた彼女の「顔」を見つけてしまったのだ。
「カイル……様……」
リリアンヌの身体が、過去の恐怖と屈辱でガタガタと震え出す。
彼女を殺しにきたのか、あるいは再びあの断頭台へと引きずり出すために追ってきたのか。
カイルの青い瞳は、かつて謁見の間で見せた優しさなどなく、ひどく冷徹に彼女を見つめていた。
しかし、リリアンヌは逃げなかった。
彼女は静かに首を振り、悲しげに微笑んで胸元で十字を切った。
「いいえ、私はただの罪深き修道女、リンです。貴方が憎んだルシフェニアの王女は
……あの午後三時に、断頭台の上で、皆様の歓声のなかで死にました」
カイルは腰の剣に手をかけることはしなかった。
彼の瞳の奥に宿っていたのは、激しい復讐の炎ではなく、すべてを焼き尽くした後の、暗く深い虚しさだった。
カイルは知っていたのだ。
あの日、黄色いドレスを着て堂々と死んでいった「王女」が、実は彼女の双子の弟、
アレンであったという歪な真実を。
だが、それを今さら民衆に暴き、この生き残った少女の命まで奪うことに、
何の意味もないことも理解していた。
「……君がここで何を祈り、誰の面影を追っているのかは聞かない。
だが、もしあの少年が命をかけて君を逃がしたのなら……君は死ぬことすら許されない。
呪われた王女としてではなく、一人の人間として、ただ生きてくれ」
カイルはそれだけを冷たく言い残し、夕闇のなかに消えていった。
一人取り残されたリリアンヌは、教会の裏手にある、激しい波の音が間近に聞こえる海岸へと、
ふらつく足取りで歩みを進めた。
空は、燃えるような茜色から、深い紫色の黄昏時へと移り変わろうとしていた。
まるであの日、アレンが最期に見た空と同じ色だった。
リリアンヌの手には、透明な小さなガラスの小瓶と、一枚の古びた羊皮紙が握られていた。
この港町に古くから伝わる、切ない「願い事」の伝承を、彼女は人伝てに聞いていたのだ。
――羊皮紙に誰にも言えない願いを書いて、小瓶に詰めて海に流せば、
いつか、いつの日か願いは叶う。
リリアンヌは砂浜に跪き、潮風に修道服を激しく揺らしながら、きつく目を閉じた。
かつての自分は、この世界のすべてが自分の思い通りになると思っていた。
欲しいものは何でも手に入り、邪魔なものはすべて消し去ればいいと信じていた。
だが、すべてを失った今だからこそ、痛いほどによく分かる。
自分が本当に欲しかったものは、王座の権力でも、異国の財宝でも、青い王子の愛でもなかった。
毎日午後三時に、自分のために世界で一番甘いブリオッシュを焼き、
完璧な温度で紅茶を淹れて、自分の我が儘を、自分の醜さを、
世界で一番優しい瞳で全肯定してくれた
――あの金の髪の召使、アレンとの、何気ない日常。
ただそれだけだったのだ。
リリアンヌの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、
白い頬を伝って乾いた砂浜へと吸い込まれていく。
「アレン……ごめんなさい、ごめんなさい……!
私は、貴方に甘えてばかりで、何も返せなかった……っ」
声を押し殺して泣き叫ぶ。
胸の奥をかきむしられるような孤独が、彼女の華奢な身体を打ちのめす。
「もしも……もしも来世というものがあるのなら。
神様が私たちをもう一度、生まれ変わらせてくださるのなら……」
彼女は震える手で、願いを認めた羊皮紙を丸め、小瓶のなかに押し込んだ。
そこには、アレンが残した召使の衣服の切れ端で作った、
黒いインクで、ただ一行だけ、彼女の本当の願いが書かれていた。
【もしも生まれ変われるのなら、その時はまた、二人で一緒に遊びましょうね】
リリアンヌはしっかりと小瓶に栓をすると、
愛おしそうに、まるでそれがアレンの身体そのものであるかのように強く胸に抱きしめた。
そして、消え入りそうな夕日へ向かって、己の魂のすべてを込めて、小瓶を海へと投げ入れた。
小瓶はチャプンと寂しい音を立てて波間に落ち、夕日の光を反射してキラキラと輝きながら、
黄金色に染まる海の彼方へと流れていく。
リリアンヌは、その小瓶が波の間に見えなくなるまで、潮風に打たれながら、
ずっとまっすぐに海を見つめ続けた。
「アレン……私は、貴方が遺してくれたこの命で、生きていくわ。
貴方の分まで、この世界を見て、祈り続けるわ……」
その瞬間、ざあぁ、と一段と大きな、包み込むような温かい波の音が響き渡った。
それはまるで、かつて夜の闇のなかで、悪夢に怯えるリリアンヌの寝顔を見つめながら、
アレンが静かに歌ってくれた優しい子守唄のようであり。
そして、断頭台の露と消えた少年が、海の向こうから
「待っているよ、リリアンヌ」
と微笑みながら応えた、愛に満ちた声のようでもあった。
リリアンヌは涙を ぬぐい、ベールを整え、
生まれて初めて自分の足でしっかりと大地を踏みしめて、教会へと歩き出す。
彼女の胸の中には、アレンがその命と引き換えに遺してくれた「未来」という名の消えない光が、
今も、そしてこれからも、永遠に灯り続けているのだった。

