王宮の最上階。
そこは、俗世の喧騒から最も遠く、そして最も薔薇の香りが濃く漂う場所――王女リリアンヌの私室である。
室内は、贅の限りを尽くした調度品で埋め尽くされていた。
壁には金糸で刺繍されたタペストリーが掛けられ、
床には異国から取り寄せた最高級の絨毯が敷き詰められている。
その部屋の中央に置かれた、豪奢な姿見の前で、一人の少女が自らの髪に触れていた。
彼女の名はリリアンヌ。
このルシフェニア王国を統べる、わずか十四歳の若き王女。
そして民からは、その我が儘で冷酷な振る舞いから「悪ノ娘」と恐れられ、裏で罵られている存在だった。
「ふふ、今日も私の髪は美しいわ」
リリアンヌは満足げに微笑んだ。
絹のように滑らかで、陽の光を浴びて黄金に輝く髪。それは彼女の誇りであり、彼女の権力の象徴でもあった。
しかし、彼女がその髪を愛おしそうに見つめる理由は、ただの自己愛だけではなかった。
「リリアンヌ、お呼びでしょうか」
背後で、重厚なマホガニーの扉が静かに閉まる音がした。
続いて響いたのは、まだ少年のあどけなさを残しながらも、どこか落ち着いた、低い声。
振り返るまでもない。
鏡の中に、もう一人の自分が映り込んでいた。
その少年は、リリアンヌとまったく同じ顔立ち、
同じ鋭くも美しい青い瞳、そして、まったく同じ金の髪を持っていた。
彼の名はアレン。
この城で働く、彼女専属の召使だ。
「遅いわ、アレン。私をどれだけ待たせるつもり?」
リリアンヌはわざとらしく眉をひそめ、ツンとすました態度で振り返った。
「申し訳ありません。貴女のために、最高級の紅茶を淹れておりました。
淹れたての温度が最も香りを引き立てますので、少々お時間がかかってしまいました」
アレンは表情を崩さず、慣れた手つきで銀のトレイをテーブルに置いた。
温かい紅茶からは気品ある湯気が立ち上り、
その傍らには、彼女の好物である焼き立てのブリオッシュが並べられている。
アレンの一挙手一投足は洗練されており、とても一介の召使とは思えない優雅さがあった。
それもそのはずだった。
二人はかつて、大人の都合と政治の陰謀によって引き裂かれた、実の双子の姉弟。
だが、その事実を知る者は城内でも片手で数えるほどしかいない。
当事者であるリリアンヌさえも、幼い頃に大病を患った際の記憶の混乱から、
アレンが実の弟であることを忘れていた。
彼女にとってアレンは、ある日突然現れた「妙に自分と顔が似ている、忠実な僕」でしかなかった。
しかし、アレンの記憶は鮮明だった。
自分が彼女の弟であること。
そして、身分を捨ててまで、死を偽ってまでこの城に召使として戻ってきた理由。
それは、彼女の側にいたいという、誰にも言えない狂おしいほどの愛慕のゆえだった。
「……まあいいわ。今日のブリオッシュは、合格点にしてあげる」
リリアンヌは椅子に腰掛け、小さな手でブリオッシュを千切って口に運んだ。
甘みとバターの香りが口いっぱいに広がる。
彼女の機嫌が良くなったのを見て、アレンは静かに彼女の背後に控え、直立不動の姿勢をとった。
「ねえ、アレン」
リリアンヌは紅茶に口を付けた後、ふとスプーンを置き、鏡越しにアレンを見上げた。
「私の側に、ずっといなさい。私を置いて、どこにも行っては駄目よ。……これは命令よ」
王女の命令は絶対だ。
普段は傲慢で、気に入らない臣下を容赦なく処刑するリリアンヌだが、
アレンに対してだけは、時折こうして子供のように縋るような目を向ける。
彼女自身も気づいていない、血の繋がりがもたらす無意識の執着。
アレンがいない世界を、彼女の魂は本能的に恐れていた。
「御意のままに。王女様。私は貴女の影。どこへ行く時も、生涯貴女の側を離れません」
アレンは胸に手を当て、深く頭を下げた。
前髪に隠れた彼の瞳には、主従関係を超えた、熱く、歪んだ情熱が宿っている。
アレンは知っていた。
リリアンヌが民からどれほど恨まれているかを。
彼女の我が儘のせいで、国が少しずつ傾き始めていることを。
けれど、そんなことはアレンにとってどうでもいいことだった。
(たとえ世界中の全てが君の敵になろうとも)
(たとえ君が世界を滅ぼす悪魔だとしても)
(僕だけは君の味方だ。君の代わりに、僕が全部背負ってあげるから)
それが、少年が己の魂に刻んだ、生涯消えることのない誓い。
リリアンヌはアレンの言葉に満足したように小さく微笑み、再びおやつの時間を楽しみに戻った。
窓の外には、夕暮れに染まる美しいルシフェニアの街並みが広がっている。
しかし、この平穏で歪な幸福は、一人の「青い髪の男」が国境を越えて来訪することによって、
静かに、そして確実に崩壊へと向かい始める。
そこは、俗世の喧騒から最も遠く、そして最も薔薇の香りが濃く漂う場所――王女リリアンヌの私室である。
室内は、贅の限りを尽くした調度品で埋め尽くされていた。
壁には金糸で刺繍されたタペストリーが掛けられ、
床には異国から取り寄せた最高級の絨毯が敷き詰められている。
その部屋の中央に置かれた、豪奢な姿見の前で、一人の少女が自らの髪に触れていた。
彼女の名はリリアンヌ。
このルシフェニア王国を統べる、わずか十四歳の若き王女。
そして民からは、その我が儘で冷酷な振る舞いから「悪ノ娘」と恐れられ、裏で罵られている存在だった。
「ふふ、今日も私の髪は美しいわ」
リリアンヌは満足げに微笑んだ。
絹のように滑らかで、陽の光を浴びて黄金に輝く髪。それは彼女の誇りであり、彼女の権力の象徴でもあった。
しかし、彼女がその髪を愛おしそうに見つめる理由は、ただの自己愛だけではなかった。
「リリアンヌ、お呼びでしょうか」
背後で、重厚なマホガニーの扉が静かに閉まる音がした。
続いて響いたのは、まだ少年のあどけなさを残しながらも、どこか落ち着いた、低い声。
振り返るまでもない。
鏡の中に、もう一人の自分が映り込んでいた。
その少年は、リリアンヌとまったく同じ顔立ち、
同じ鋭くも美しい青い瞳、そして、まったく同じ金の髪を持っていた。
彼の名はアレン。
この城で働く、彼女専属の召使だ。
「遅いわ、アレン。私をどれだけ待たせるつもり?」
リリアンヌはわざとらしく眉をひそめ、ツンとすました態度で振り返った。
「申し訳ありません。貴女のために、最高級の紅茶を淹れておりました。
淹れたての温度が最も香りを引き立てますので、少々お時間がかかってしまいました」
アレンは表情を崩さず、慣れた手つきで銀のトレイをテーブルに置いた。
温かい紅茶からは気品ある湯気が立ち上り、
その傍らには、彼女の好物である焼き立てのブリオッシュが並べられている。
アレンの一挙手一投足は洗練されており、とても一介の召使とは思えない優雅さがあった。
それもそのはずだった。
二人はかつて、大人の都合と政治の陰謀によって引き裂かれた、実の双子の姉弟。
だが、その事実を知る者は城内でも片手で数えるほどしかいない。
当事者であるリリアンヌさえも、幼い頃に大病を患った際の記憶の混乱から、
アレンが実の弟であることを忘れていた。
彼女にとってアレンは、ある日突然現れた「妙に自分と顔が似ている、忠実な僕」でしかなかった。
しかし、アレンの記憶は鮮明だった。
自分が彼女の弟であること。
そして、身分を捨ててまで、死を偽ってまでこの城に召使として戻ってきた理由。
それは、彼女の側にいたいという、誰にも言えない狂おしいほどの愛慕のゆえだった。
「……まあいいわ。今日のブリオッシュは、合格点にしてあげる」
リリアンヌは椅子に腰掛け、小さな手でブリオッシュを千切って口に運んだ。
甘みとバターの香りが口いっぱいに広がる。
彼女の機嫌が良くなったのを見て、アレンは静かに彼女の背後に控え、直立不動の姿勢をとった。
「ねえ、アレン」
リリアンヌは紅茶に口を付けた後、ふとスプーンを置き、鏡越しにアレンを見上げた。
「私の側に、ずっといなさい。私を置いて、どこにも行っては駄目よ。……これは命令よ」
王女の命令は絶対だ。
普段は傲慢で、気に入らない臣下を容赦なく処刑するリリアンヌだが、
アレンに対してだけは、時折こうして子供のように縋るような目を向ける。
彼女自身も気づいていない、血の繋がりがもたらす無意識の執着。
アレンがいない世界を、彼女の魂は本能的に恐れていた。
「御意のままに。王女様。私は貴女の影。どこへ行く時も、生涯貴女の側を離れません」
アレンは胸に手を当て、深く頭を下げた。
前髪に隠れた彼の瞳には、主従関係を超えた、熱く、歪んだ情熱が宿っている。
アレンは知っていた。
リリアンヌが民からどれほど恨まれているかを。
彼女の我が儘のせいで、国が少しずつ傾き始めていることを。
けれど、そんなことはアレンにとってどうでもいいことだった。
(たとえ世界中の全てが君の敵になろうとも)
(たとえ君が世界を滅ぼす悪魔だとしても)
(僕だけは君の味方だ。君の代わりに、僕が全部背負ってあげるから)
それが、少年が己の魂に刻んだ、生涯消えることのない誓い。
リリアンヌはアレンの言葉に満足したように小さく微笑み、再びおやつの時間を楽しみに戻った。
窓の外には、夕暮れに染まる美しいルシフェニアの街並みが広がっている。
しかし、この平穏で歪な幸福は、一人の「青い髪の男」が国境を越えて来訪することによって、
静かに、そして確実に崩壊へと向かい始める。

