☆第1話☆「運命なんて、信じてなかった。」
「よし……!」
鏡の前で制服の襟を整え、私は小さく深呼吸をした。
今日から夏休み。
友達は旅行やプールに行く予定を立てているけれど、私にはもっと特別な予定がある。
芸能事務所での夏休み限定アルバイト。
お母さんの知り合いが事務所で働いていて、「人手が足りないから手伝ってみない?」と声をかけてもらったのだ。
最初は軽い気持ちだった。
「芸能人なんて見かけることないだろうし、いい経験になるかも。」
そう思って引き受けた。
……でも。
昨日、送られてきた仕事内容を見た瞬間、私はスマホを落としそうになった。
『担当現場:NXT』
「えぇぇぇぇぇぇ!?」
思わず部屋中に響くくらい大きな声を出してしまった。
NXT。
今、一番勢いのある5人組ボーイズグループ。
爽やかな楽曲と息の合ったパフォーマンスで人気を集め、デビューからわずか数年でトップアイドルの仲間入りを果たした。
その中でも、私がずっと応援しているのは――
リオ。
クールで無口。
笑顔を見せることは少ないけれど、ステージでは誰よりも輝いていて、そのギャップに何度も心を奪われた。
「リオくんに会えるなんて……。」
夢みたい。
だけど私は首を横に振る。
「ダメダメ!今日は仕事なんだから!」
私はスタッフ。
ファンじゃない。
浮かれて迷惑をかけるわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせ、バッグを持って家を出た。
◇ ◇ ◇
芸能事務所に着くと、大きなガラス張りのビルを見上げるだけで緊張してしまう。
「ここに……NXTのみんながいるんだ。」
胸がドキドキして落ち着かない。
受付を済ませると、優しそうな女性スタッフが笑顔で迎えてくれた。
「今日からよろしくね。まずは現場の説明をするからついてきて。」
「はい!よろしくお願いします!」
エレベーターに乗り、何度も深呼吸を繰り返す。
お願いだから、変なことだけはしませんように。
そう願っていた、その時だった。
カチャ。
廊下の先にあるドアが開く。
「あ、お疲れさまです。」
聞き覚えのある、落ち着いた声。
私は思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは――
黒いパーカーにキャップをかぶった、一人の青年。
テレビやスマホで何度も見てきたその横顔。
「……え。」
時間が止まったような感覚だった。
その人はスタッフへ軽く会釈をすると、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
近い。
近すぎる。
心臓の音が、自分でも聞こえそうなくらい大きくなる。
女性スタッフが私を見て言った。
「ミオちゃん。紹介するね。」
私は慌てて背筋を伸ばく。
「こちら、NXTのリオくん。」
……やっぱり。
本物だ。
画面の中でしか見たことのなかった推しが、今、目の前にいる。
「今日から現場のお手伝いをしてくれる、ミオちゃん。」
リオは一瞬だけ私を見つめる。
表情は穏やかだけど、どこかクールで落ち着いていて。
そして、小さく口を開いた。
「……リオです。よろしく。」
その一言だけだった。
テレビで見る声と同じ。
だけど、画面越しとは全然違う。
落ち着いた声。
少し低くて優しい声。
(ほん、もの……。)
頭の中が真っ白になる。
「ミオちゃん?」
スタッフさんに声をかけられ、私はハッと我に返った。
「は、はいっ! よろしくお願いします!」
慌てて頭を下げると、リオも軽く会釈をして、そのまま控え室へ入っていった。
「やっぱりクールなんだ……。」
少しだけ寂しく感じたけれど、それ以上に胸はドキドキしていた。
---
控え室のドアが開く。
「失礼します。」
中へ入ると、そこにはリオ以外のメンバーも集まっていた。
「おっ、新しいスタッフさん?」
笑顔で声をかけてくれたのはリーダーのハル。
「今日からお世話になります、ミオです!」
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。」
ハルは優しく笑った。
その隣では、明るい雰囲気のユウがニコニコしている。
「よろしくね!俺たち、怖くないから!」
「ユウ、それ自分で言うことじゃない。」
落ち着いた声でツッコんだのはソラ。
すると、一番年下のレンが小さく笑う。
「でも、ユウさん初対面だと結構うるさいです。」
「えぇ!? レンまで!?」
部屋中に笑いが広がる。
(テレビで見てたまんまだ……。)
NXTは本当に仲がいい。
その空気に少しだけ緊張がほぐれた。
「今日は撮影だから、よろしくね。」
ハルがそう言うと、私は元気よくうなずいた。
「はい!」
---
撮影スタジオは朝から大忙しだった。
照明が動き、カメラマンさんが準備を進め、スタッフさんたちが慌ただしく行き来している。
私の仕事は、飲み物を準備したり、小道具を運んだり、衣装担当さんのお手伝いをしたり。
「ミオちゃん、この資料お願い!」
「はい!」
「こっちのお水も!」
「すぐ持っていきます!」
慣れない仕事に必死だった。
(失敗しないようにしなきゃ……!)
そう思っていた矢先だった。
「あっ……!」
手に持っていた資料が床に散らばってしまう。
「ご、ごめんなさい……!」
慌ててしゃがみ込む。
その瞬間――
一枚の紙が、誰かの手によって拾い上げられた。
「……これ。」
聞き慣れた声。
顔を上げると、そこにはリオが立っていた。
「あ……。」
「急がなくていい。」
そう言って、リオは散らばった資料を一枚ずつ集めてくれる。
「ありがとうございます……!」
「うん。」
短い返事。
でも、その表情は最初より少しだけ柔らかく見えた。
「リオー!」
ユウが遠くから呼ぶ。
「撮影始まるって!」
「今行く。」
リオは私に資料を渡すと、小さく言った。
「焦ると危ないから。」
それだけ言って、撮影場所へ向かっていった。
私はその後ろ姿を見つめたまま動けなかった。
(今……心配してくれた?)
クールで近寄りがたい人だと思っていた。
だけど、ほんの少しだけ見えた優しさ。
その一瞬で、胸の鼓動はまた速くなる。
そんな私の様子を少し離れた場所から見ていたユウは、ニヤッと笑って小さくつぶやいた。
「……あれ?リオが初日にあんなことするなんて、珍しいな。」
その言葉は、まだ誰の耳にも届かなかった――。
「はい、OKです!」
カメラマンさんの声がスタジオに響く。
「お疲れさまでした!」
スタッフの拍手とともに、その日の撮影は無事に終了した。
「みんな、お疲れ!」
ハルが声をかけると、メンバーも一斉に笑顔になる。
「やっと終わった〜!」
ユウは大きく伸びをしながらソファへ倒れ込んだ。
「ユウさん、またそんなことしたら怒られますよ。」
レンが苦笑いする。
「ははっ、ごめんごめん!」
スタジオには、テレビでは見られない自然な空気が流れていた。
(本当に仲がいいんだな……。)
私は飲み物を配りながら、そんなことを思っていた。
「ミオちゃん。」
突然、スタッフさんに呼ばれる。
「このスポーツドリンク、リオくんにお願いできる?」
「はい!」
私はペットボトルを持って、少し離れた場所にいるリオのもとへ向かった。
(落ち着いて……。仕事、仕事!)
心臓は相変わらずうるさい。
「リオさん、お疲れさまです。」
リオはタオルで汗を拭きながら振り向いた。
「……ありがとう。」
私はペットボトルを差し出す。
そのとき。
「あっ!」
手が少し滑ってしまい、ペットボトルが落ちそうになる。
でも、その瞬間。
スッ――。
リオが素早く受け止めた。
「危ない。」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「謝らなくていい。」
そう言って、リオはペットボトルを私に返す。
「……まだ初日なんだから。」
その言葉に、私は目を丸くした。
(覚えてくれてる……。)
「ありがとうございます!」
思わず笑顔になる。
すると、リオは少しだけ目を細めた。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
その表情は、どこか優しかった。
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その様子を遠くから見ていたユウが、小さな声でつぶやく。
「ねぇハル。」
「ん?」
「リオ、今日ちょっと違わない?」
ハルは視線を向ける。
「……確かに。」
「資料拾ったり、飲み物受け取るだけであんな顔する?」
ソラも気づいていたようで、小さく笑う。
「珍しいね。」
レンは首をかしげる。
「リオさん、機嫌いいんですか?」
すると、ちょうど戻ってきたリオが不思議そうな顔をする。
「……何?」
「いや〜?」
ユウはニヤニヤ。
「別に〜?」
「……変なの。」
リオはそう言って席に座る。
だけど。
ふと視線の先には、スタッフさんと話しているミオの姿があった。
(……頑張ってるな。)
初めての現場。
慣れない仕事。
それでも必死に走り回る姿が、なぜか気になってしまう。
(なんでだろ。)
自分でも理由は分からない。
でも、気づけば目で追ってしまっていた。
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帰る時間。
私は事務所の入口でスタッフさんに頭を下げた。
「今日はありがとうございました!」
「こちらこそ!また明日もよろしくね。」
「はい!」
嬉しかった。
緊張したけど、失敗もあったけど、それ以上に夢みたいな一日だった。
そのときだった。
「ミオ。」
突然、後ろから名前を呼ばれる。
(え……?)
振り返ると、そこにはリオが立っていた。
「……忘れ物。」
そう言って差し出されたのは、私が落としていた社員証。
「あっ!」
バッグにつけるはずだったストラップが外れていたらしい。
「ありがとうございます!」
リオは小さくうなずく。
「明日もあるんだから。」
「はい!」
「……気をつけて帰って。」
その一言だけ残して、リオは事務所へ戻っていった。
私はしばらく、その場から動けなかった。
(今……私の名前、呼んだ。)
胸がドキドキする。
でも、この気持ちは胸の奥にしまわなきゃ。
相手は、たくさんの人に愛されるアイドル。
私は、ただのアルバイトスタッフ。
それ以上でも、それ以下でもない。
……そう思っていた。
このときは、まだ。
まさかこの出会いが、私の人生を大きく変えるなんて――。
