スピンオフ 執事と御曹司の始まらない恋の一部始終

 夜が明けるころ、圭一郎は全身の力を抜きながら軽やかにステップを踏み、体をほぐした。
十分に体が目覚めたのを感じた後、すばやく拳で空を切る。腰を低くし、そこからの蹴り。
 イギリスで生まれた武術、バーティツの稽古だ。

 日本の柔術とボクシングを融合し、さらに英国ならではのステッキを使った戦闘術もある、実践的な格闘術だ。
シャーロックホームズが宿敵モリアーティとの戦闘シーンで披露したのもバーティツだと言われている。

 ロンドン留学時代、圭一郎は大紫様とともに、柔道、空手、剣道、そしてフェンシングに馬術とさまざまな習い事をしたが、田鍋家の命を受けて圭一郎だけがひそかに習得したのがバーティツだった。
イギリス諜報機関MI6を退職したばかりのエージェントから直々に指導を受けた。
なにかの時に、大紫様をお守りするためである。
 日本に帰国してからは比較的安全だったのをいいことに修練を怠っていたが、圭一郎は自身を鍛えるため、最近また激しく稽古を始めたのである。

 エージェントの指導はバーティツだけではなく、基礎的な諜報活動や交渉術も含まれていた。
その教えが大いに役立ったのはつい先日のことである。

 S組教室内に佐藤杏奈さんに関する誹謗中傷ビラが貼られていた。
学園祭準備期間中の事故にかかわっている人物の仕業と思われ、圭一郎はすばやく調査をし、担任の門倉先生がすべての犯人であることを突き止めたのである。

 事を荒立てることなくすみやかに解決に至り、喜んでいいところだが、圭一郎の胸には棘が刺さったような痛みが残った。
門倉先生は、三山タイシの婚約者候補としてふさわしくない女子生徒を排除したかったと弁明した。
その方法に問題があったとはいえ、もし「ふさわしくない女子生徒」が「婚約者」になるなら、圭一郎も何かしらの行動をとるだろう。
それはどんな行動になるのだろうか。
自分も門倉先生と同じことをしてしまうかもしれない。
一抹の不安が拭いきれないのだった。

 ご家族のことで金銭的な問題を抱えた佐藤さんが、三山タイシの婚約者になりたいと名乗り出たが、とりあえずの解決策を提案し、婚約者の件は撤回されている。
 これから大紫様には婚約者探しを念頭に置き、学園生活を送っていただくが、まだそれらしきお相手もいないのが圭一郎にとっては幸いかもしれなかった。

 すべてが覆ったのは、その直後だった。

 佐藤杏奈さんが、庭師の家を出て、ご実家へ戻ってしまわれたことがきっかけだった。
ご実家はご両親の借金の担保になっており、期日までに返済できなければ取り上げられてしまうはずだ。
そのため庭師の家を無償で提供し、路頭に迷うことなく暮らしていけるよう計らったのである。

 なのになぜ?
 とても合理的な判断とは思えない。圭一郎は困惑した。

しかしもっと圭一郎を驚かせたのは、大紫様の狼狽ぶりだった。

「失うとはこんなにもつらいことなのだな。いや違うな。俺は得てすらいなかった」
 
佐藤さんが出て行ったことが悲しく、打ちのめされていた。大紫様のこんな顔をみるのは初めてだった。

突然、圭一郎は理解した。

大紫様は佐藤杏奈さんにそばにいてほしいのだ。
 
BLだと嘘をついてまで佐藤さんを家に住まわせたのは、借金を心配しただけではない、ご自身のそばにいてほしいと願ったからなのだ。
なぜならそれは……。

サーっと血の気がひくのがわかった。

どうして? 喜ぶべきことではないのか? 
大紫様が心ひかれる女性と出会ったのだ。ご自身で見つけることができたのだ。
なのになぜ……。

「大紫様。しばらく実家に戻ってもよろしいでしょうか」
ようやく口にできた言葉に、圭一郎は自分でも驚いていた。


「圭一郎ったら、ぜんぜん顔をみせてくれないんだもの。寂しかったわ」
圭一郎の実家、田鍋家は三山家と同じ敷地内にある。
帰ろうと思えばいつでも帰れるために、かえって帰らない日々が続いていた。
実家に顔を出したのは日本に帰国した時だけだった。
母親は最初こそ、なにかと世話をやきたがったが、圭一郎が戻ってきて3日もたつと普段のペースに戻り、慈善活動や趣味で忙しく出かけていった。

圭一郎はやることもなく、ベッドで横になった。
久しぶりの実家は、他人の家のようで、くつろげたものではない。
6歳で英国に渡り、帰国してからはずっと大紫様の隣の部屋で寝起きしていたのだから、仕方がないと言える。

 これからどうしたらいいのか……

大紫様が佐藤杏奈さんに恋をしていると気が付いたときから、圭一郎は心臓からドス黒い血を流し続けている。

今まで大紫様のおそばにはいつも自分がいた。
大紫様のことは誰よりもわかっていた。

だから大紫様にも自分を、自分だけを、見ていてほしかった……?

なんと畏れ多く、分不相応な夢を抱いていたのだろうか。
自分は執事だ。
大紫様をお支えするだけの人間じゃないか。

頭ではわかっている。
けれど大紫様とつないだ手が、触れ合った指先が、圭一郎の心を揺さぶるのだ。

秀礼学園には実家から通っていた。
佐藤杏奈さんはご両親が戻っていらしたようで、家を手放して借金を返済することになったようだ。
秀礼学園の学費は支払い済みだったため転校はされないが、もといたA組に戻っていった。
それもすべて圭一郎がこっそりと調べたことだ。

大紫様はいつも通りにふるまっているが、時折さみしそうな顔をしている。
自分が実家に帰っているせいだと思いたい。
だが、佐藤杏奈さんがいないことが理由だと、どうしたってわかってしまうのだ。

 苦しい。
 こんな想いを抱えては、もう大紫様のそばに戻ることはできない。
 
「少しいいかな?」
夕食のあと、父の直一郎が圭一郎の部屋にやってきた。