その夜。
「大紫様、ホットミルクをお持ちいたしました」
圭一郎は大紫様の部屋を訪ねた。
「気が利くな。さすが圭一郎だ」
大紫様がそっとミルクに口をつけた。
「今日はいろいろございましたから」
「そうだな」
大紫様のお顔が陰って見えるのは、照明を落としているせいだけではあるまい。
圭一郎は、スマホを出した。
「大紫様、ご就寝前にこのようなものをお見せするのはよくないとわかっているのですが、これは本当に佐藤さんなのでしょうか?」
そういって圭一郎は、桜月からもらった動画を再生した。
「お顔は佐藤さんですし、制服も学園のものですが……私にはとても信じられません」
言いながら圭一郎は、画面をワイプさせた。
「ん? 今のは? 止めろ!」
大紫様に言われ、圭一郎は動画を止めた。
「見ろ、圭一郎。腕時計をしている。俺の記憶では、杏奈は腕時計をつけていないぞ」
「さようでございますか? ではこれは佐藤さんではない、ということでしょうか」
「うん、それにこれは……間違いない、マリー・ウィンストン社の腕時計だ。しかも春にでたばかりの限定モデル」
「言われてみれば……スイスの展示会で見た覚えがあります」
「圭一郎、日本でこの時計を購入した人物を調べられるか?」
「もちろんでございます」
「よし、杏奈の疑いを晴らすことができるぞ」
「ワイヤーに傷をつけた犯人もわかりますね」
「そうだ」
大紫様のお顔がみるみる晴れやかになっていく。
「ホットミルクのおかげで、今夜はぐっすり眠れそうだ」
「おやすみなさいませ、大紫様」
圭一郎は、隣の自分の部屋へと戻った。
腕時計のことに気が付いたのは圭一郎である。
だが、大紫様に見つけてもらうほうが、大紫様の心を軽くするのではと思いつき、わざわざ動画をみせにきたのであった。
しかしながら限定モデルだと秒で見抜いたのはさすが大紫様だ。
マリー・ウィンストン社にはすでに問い合わせ済みである。
明日の朝には、おそらく犯人がわかっているだろう。
翌朝、秀礼学園に行くと、S組の教室に佐藤さんの姿がなかった。
なぜか彼女の机が廊下に運び出されている。事態は急速に悪い方向に向かっている。
大紫様を見ると、同じ気持ちだったようで、圭一郎に向かってちいさくうなずいた。
圭一郎はすぐに動いた。
一時間目の授業を自習にしていただき、音楽室使用の許可を得ると、城之内桜月さんと善財詩子さんに来ていただいた。
「俺は杏奈を探してくる」
「かしこまりました。では後程、音楽室で」
しばらくして大紫様が佐藤さんを連れて来られた。
大紫様も佐藤さんも急いでいらっしゃたのか、顔が赤く、息切れしているようだった。
そして大紫様によって、動画に映っているのは、本当は城之内さんだと突き止めることができた。
問題はそこからだ。
今朝、大紫様と話し合い、城之内さんが反省していらっしゃるなら口外でず、水に流そうと決めていた。
もちろん、佐藤杏奈さんが許しがたいと言うならば話は違ってくるのだが……。
そしてどうなるにしろ、善財詩子さんに立会人になっていただく必要があった。
ところが、城之内さんが思いのほか取り乱し、錯乱状態になってしまったのだ。
善財さんが追いかけて行ったので、圭一郎もすぐに追いかけた。
城之内さんは女子トイレに逃げ込んでしまった。
「私が桜月と話してきます」
善財さんがおっしゃり、圭一郎は廊下で待つしかなかった。
40分ほどたって、ようやくお二人が出てきた。
城之内さんは圭一郎と目を合わすこともなく、善財さんに隠れるようにして車寄せへ向かわれた。
迎えの車が来たようであった。
ほどなくして善財さんだけが戻ってきて「少しお話よろしいかしら」と圭一郎のそばへやってきた。
善財詩子さんは大変よくできた人だ。
奥ゆかしい話し方をされるが、状況を見定め、ご自身のお考えで行動している。
圭一郎は、大紫様のためにハーブティーを淹れながら、昨日から今日にかけての急展開を思い起こしていた。
ワイヤー事故の原因を作り、その罪を佐藤さんになすりつけた城之内さんは、海外への短期留学が決まり、学園を一時的に去ることになった。
そして佐藤さんはこの件を公にしないと同意してくださり、学園祭は予定通り行われることになっている。
圭一郎が望んだもっとも美しい解決策を、善財さんのほうから提案してくれたのである。
佐藤さんへの思いやりと配慮ある説得も素晴らしかった。
おかげで城之内さんが演じることになっていた準主役の小鹿役さえ、佐藤さんに引き受けてもらえることになったのである。
見事というしかない。
大紫様のお相手が善財詩子さんだったら、どうだろうか。
ふと圭一郎は思った。
善財詩子さんならば、お人柄といい、家柄といい、申し分ないお相手だろう。
いや、善財家は五条財閥の直系。
実業に口をはさむことはないが、大株主として巨万の富を得ながら、今や日本古来の文化を守る立場を貫いていらっしゃる。
噂では、詩子さんのお相手はすでに決まっていらっしゃるとも聞く。
残念なことだ……。
だが……圭一郎は自分の中に、小さな安堵がうまれたことを見逃さなかった。
もしや自分は、大紫様がどなたかと恋に落ちるのを恐れている?
いや、そんなことはない。大紫様がお幸せでいることが、私の何よりに幸せだ。
気を取り直して、圭一郎はやさしい香りを漂わせたハーブティーを大紫様の部屋へ持って行った。
大紫様は読書をしていたようで、ぼんやりと、ワシントン・アーヴィングの言葉をつぶやかれていた。
大紫様がなぜか最後のところで言葉を止めてしまわれたので、圭一郎が続きを言うと、大紫様は不機嫌になられた。
いったいなぜ……?
圭一郎は冷静さを装いながら、頭をフル回転させたが、なにも思い浮かばなかった。
「大紫様、ホットミルクをお持ちいたしました」
圭一郎は大紫様の部屋を訪ねた。
「気が利くな。さすが圭一郎だ」
大紫様がそっとミルクに口をつけた。
「今日はいろいろございましたから」
「そうだな」
大紫様のお顔が陰って見えるのは、照明を落としているせいだけではあるまい。
圭一郎は、スマホを出した。
「大紫様、ご就寝前にこのようなものをお見せするのはよくないとわかっているのですが、これは本当に佐藤さんなのでしょうか?」
そういって圭一郎は、桜月からもらった動画を再生した。
「お顔は佐藤さんですし、制服も学園のものですが……私にはとても信じられません」
言いながら圭一郎は、画面をワイプさせた。
「ん? 今のは? 止めろ!」
大紫様に言われ、圭一郎は動画を止めた。
「見ろ、圭一郎。腕時計をしている。俺の記憶では、杏奈は腕時計をつけていないぞ」
「さようでございますか? ではこれは佐藤さんではない、ということでしょうか」
「うん、それにこれは……間違いない、マリー・ウィンストン社の腕時計だ。しかも春にでたばかりの限定モデル」
「言われてみれば……スイスの展示会で見た覚えがあります」
「圭一郎、日本でこの時計を購入した人物を調べられるか?」
「もちろんでございます」
「よし、杏奈の疑いを晴らすことができるぞ」
「ワイヤーに傷をつけた犯人もわかりますね」
「そうだ」
大紫様のお顔がみるみる晴れやかになっていく。
「ホットミルクのおかげで、今夜はぐっすり眠れそうだ」
「おやすみなさいませ、大紫様」
圭一郎は、隣の自分の部屋へと戻った。
腕時計のことに気が付いたのは圭一郎である。
だが、大紫様に見つけてもらうほうが、大紫様の心を軽くするのではと思いつき、わざわざ動画をみせにきたのであった。
しかしながら限定モデルだと秒で見抜いたのはさすが大紫様だ。
マリー・ウィンストン社にはすでに問い合わせ済みである。
明日の朝には、おそらく犯人がわかっているだろう。
翌朝、秀礼学園に行くと、S組の教室に佐藤さんの姿がなかった。
なぜか彼女の机が廊下に運び出されている。事態は急速に悪い方向に向かっている。
大紫様を見ると、同じ気持ちだったようで、圭一郎に向かってちいさくうなずいた。
圭一郎はすぐに動いた。
一時間目の授業を自習にしていただき、音楽室使用の許可を得ると、城之内桜月さんと善財詩子さんに来ていただいた。
「俺は杏奈を探してくる」
「かしこまりました。では後程、音楽室で」
しばらくして大紫様が佐藤さんを連れて来られた。
大紫様も佐藤さんも急いでいらっしゃたのか、顔が赤く、息切れしているようだった。
そして大紫様によって、動画に映っているのは、本当は城之内さんだと突き止めることができた。
問題はそこからだ。
今朝、大紫様と話し合い、城之内さんが反省していらっしゃるなら口外でず、水に流そうと決めていた。
もちろん、佐藤杏奈さんが許しがたいと言うならば話は違ってくるのだが……。
そしてどうなるにしろ、善財詩子さんに立会人になっていただく必要があった。
ところが、城之内さんが思いのほか取り乱し、錯乱状態になってしまったのだ。
善財さんが追いかけて行ったので、圭一郎もすぐに追いかけた。
城之内さんは女子トイレに逃げ込んでしまった。
「私が桜月と話してきます」
善財さんがおっしゃり、圭一郎は廊下で待つしかなかった。
40分ほどたって、ようやくお二人が出てきた。
城之内さんは圭一郎と目を合わすこともなく、善財さんに隠れるようにして車寄せへ向かわれた。
迎えの車が来たようであった。
ほどなくして善財さんだけが戻ってきて「少しお話よろしいかしら」と圭一郎のそばへやってきた。
善財詩子さんは大変よくできた人だ。
奥ゆかしい話し方をされるが、状況を見定め、ご自身のお考えで行動している。
圭一郎は、大紫様のためにハーブティーを淹れながら、昨日から今日にかけての急展開を思い起こしていた。
ワイヤー事故の原因を作り、その罪を佐藤さんになすりつけた城之内さんは、海外への短期留学が決まり、学園を一時的に去ることになった。
そして佐藤さんはこの件を公にしないと同意してくださり、学園祭は予定通り行われることになっている。
圭一郎が望んだもっとも美しい解決策を、善財さんのほうから提案してくれたのである。
佐藤さんへの思いやりと配慮ある説得も素晴らしかった。
おかげで城之内さんが演じることになっていた準主役の小鹿役さえ、佐藤さんに引き受けてもらえることになったのである。
見事というしかない。
大紫様のお相手が善財詩子さんだったら、どうだろうか。
ふと圭一郎は思った。
善財詩子さんならば、お人柄といい、家柄といい、申し分ないお相手だろう。
いや、善財家は五条財閥の直系。
実業に口をはさむことはないが、大株主として巨万の富を得ながら、今や日本古来の文化を守る立場を貫いていらっしゃる。
噂では、詩子さんのお相手はすでに決まっていらっしゃるとも聞く。
残念なことだ……。
だが……圭一郎は自分の中に、小さな安堵がうまれたことを見逃さなかった。
もしや自分は、大紫様がどなたかと恋に落ちるのを恐れている?
いや、そんなことはない。大紫様がお幸せでいることが、私の何よりに幸せだ。
気を取り直して、圭一郎はやさしい香りを漂わせたハーブティーを大紫様の部屋へ持って行った。
大紫様は読書をしていたようで、ぼんやりと、ワシントン・アーヴィングの言葉をつぶやかれていた。
大紫様がなぜか最後のところで言葉を止めてしまわれたので、圭一郎が続きを言うと、大紫様は不機嫌になられた。
いったいなぜ……?
圭一郎は冷静さを装いながら、頭をフル回転させたが、なにも思い浮かばなかった。


