田鍋圭一郎の朝は紅茶を淹れることから始まる。
湯を沸かし、少な目の湯で濃いめの紅茶を作る。その間に洗顔をし、身だしなみを軽く整える。
濃いめの紅茶の入ったポットと、50~60度の湯の入ったポット、フレッシュなミルク、そして季節や天気にあわせたティーカップをトレーにのせ、隣室の三山大紫へと運ぶのだ。
「おはようございます、大紫様」
ノックをして入っていくと、すでに起きていた大紫様が腕立て伏せをしているのが見えた。
今日もお元気でいらっしゃる。圭一郎はそれだけで良い一日を予感する。
大紫様は圭一郎が用意したティーセットで今日の最初の一杯を自分で作る。
朝はいわゆる白湯をお飲みになるが、白湯ではどうしても味気なく飲みづらいということで、紅茶をフレーバーのように使うのだ。
わずかに色が付く程度に紅茶を足して湯を飲み干す日もあれば、紅茶を多めに入れて味わうこともあるし、ミルクを足されることもある。
今朝は紅茶を多めに入れているようだ。
「今日の舞台稽古が楽しみだな」
「そうですね」
秀礼学園の学園祭で大紫様は主役のライオンを演じることになっていた。
今日の舞台稽古では大紫様の発案で大掛かりな仕掛けを試すことになっている。
気持ちの高ぶりを落ち着かせるために今朝は紅茶を多めに足したのだと圭一郎は察した。
秀礼学園に転入してまだ1カ月もたっていないというのに、大紫様はすでにS組の中心となっている。
当然のことと言われればそうなのだが、やはり感嘆せずにはいられない。
実行委員に立候補され、瞬く間にクラスメートから信頼を得た。
最初の話し合いからクラスメートの特に女子生徒たちが非常に協力的で、活発な意見が出ていた。
不特定多数の来訪者がある学園祭ではS組の生徒は顔を隠すために人形劇を行うことが不文律になっていたようだが、大紫様の発案でマスクと特殊メイクをつかっての演劇に決まり、なおかつご自身が主役を務めると決まるまで、わずか1時間。
あまりにも鮮やかで、誇らしく思ったことを圭一郎はこの朝あらためて思い返した。
「もうちょっと高くあげられないか」
大紫様の指示でサンドバックが空中に吊り上げられていく。
「あまり高すぎると見切れてしまいますよ」
「声が届きにくくなるかも」
佐藤杏奈さんも意見を述べた。
同じ日にS組に転入した彼女も学園祭に大変積極的で、脚本係として大いに励んでくれた。
「だったら、ピーターパンのように客席の上を飛ぶのはどうだ?」
「安全性に問題がなければ」
「よし! 客席のほうに動かしてみてくれ!」
大紫様からはアイディアがあふれ出て、次々と実行に移していく。圭一郎はそのお手伝いをすることが嬉しくてたまらなかった。
「いいじゃないか!」
「そうですねえ、照明はどうなるのでしょう。ちょっと見てきます」
大紫様のお役に立てるよう、舞台監督の仕事に励もうと圭一郎は席を立った。
照明は実行委員でもある善財詩子さんが担当している。
善財さんはクラスの女子生徒からの信頼も厚く、大変しっかりした方だが、大紫様の補佐的な振る舞いをしてくださる非常に奥ゆかしい方だった。
さすが五条財閥のご令嬢だと思う。
「主役のライオンが月の光にむかって飛んでいくような演出にしたいのですが、どうでしょう」
「幻想的ね、こんな感じでいかがかしら」
「いいですね。もう少し角度をつけられますか」
「こうかしら」
「そこです! 今の角度で……」
うっかり善財さんの手に触れてしまった。
「失礼しました」
「いえ、気になさらないで」
そう言ってうつむいた善財さんのまつげが震えていた。
不用意に女子に手を重ねるなど、してはならないこと。圭一郎は自分の迂闊さを恥じた。
その時だった。
「キャー!」
階下から女子の叫び声がして舞台に目をやると、サンドバックが制御を失い大きく揺れていた。
ワイヤーが1本切れたようだ。残る1本では支えきれないだろう。
「杏奈、伏せろ!」
大紫様が客席に飛び降りていくのが見えた。
瞬間、圭一郎も走り出す。
大紫様が倒れていた。
客席に圭一郎が降りたとき、バスンと大きな衝撃音がしてドスンと音が続いた。
ワイヤー1本で支えられていたサンドバックが勢いをつけて客席へと放り出され、佐藤さんを守ろうとした大紫様がサンドバックをまともに受けて、投げとばされたのだ。
「大丈夫ですか!」
駆け寄り、すぐさま大紫様を抱きおこす。
額から血が流れている。
「大(紫様)」
呼びかけた圭一郎を、大紫様がすっと制した。
良かった、意識はあるようだ。
それどころか、気が動転して「大紫様」と呼びかけようとした自分を押しとどめた。
圭一郎は安心すると同時に自分を恥じた。
このような状態でもしっかりと入れ替わりを守っている大紫様を自分がお守りせねば。
「問題ない。それより杏奈は無事か?」
佐藤杏奈さんを慌てて確認する。
大紫様がかばったおかげで大きな怪我はなさそうだった。
「無事ですよ」
「そうか、よかった。悪いが俺を医務室まで連れて行ってくれないか」
「はい!」
圭一郎は大紫様をかつぐように抱き起す。
立ち上がることはできるようだ。一刻も早く病院へお連れしなければ。
「待って」
佐藤さんに呼び止められ、大紫様が足を止め、振り返った。
つられて圭一郎も振り返る。
「……ありがとう」
佐藤さんの声が震えていた。
大紫様は微笑み、軽く手を上げようとすらなさった。
しかし痛みが走ったようだ。
圭一郎はすぐに運転手に電話し、迎えにくるよう頼んだ。
私が席を立たなければこんなことにはなっていなかった……圭一郎は自分を責め続けた。
学園の車寄せで待機していたロールスロイスにお乗りになるやいなや、大紫様は傷みに顔をゆがめた。
誰かに見られぬよう、ここまで我慢しておられたのだろう。おいたわしい。
「大紫様、本当に申し訳ありません。私があの場を離れていなければ、大紫様がお怪我することもありませんでしたのに」
圭一郎は心から悔やんでいた。
「なにを言ってるんだ、圭一郎が客席にいたらやっぱり俺は助けにいっていた。同じことだ」
「大紫様……」
胸が熱くなった。涙がこみ上げてくるのを圭一郎はぐっとこらえた。
「自分にとって一番大事なものは何か、はっきりと気づきました」
幼少からずっと一緒にいて、親元を離れてロンドンで暮らしてきた。
公明正大で聡明で堂々としていつも輝いていた人。けれど自分にだけは甘えてくれる人。
圭一郎が尊敬し大事に思うように、大紫様もまた自分を大切に思ってくださっている。
その喜び。
圭一郎はこれからもずっと大紫のそばにいたいと心から願った。
大紫様のために自分に何ができるのか、圭一郎はおのれの未熟さが歯がゆかった。
湯を沸かし、少な目の湯で濃いめの紅茶を作る。その間に洗顔をし、身だしなみを軽く整える。
濃いめの紅茶の入ったポットと、50~60度の湯の入ったポット、フレッシュなミルク、そして季節や天気にあわせたティーカップをトレーにのせ、隣室の三山大紫へと運ぶのだ。
「おはようございます、大紫様」
ノックをして入っていくと、すでに起きていた大紫様が腕立て伏せをしているのが見えた。
今日もお元気でいらっしゃる。圭一郎はそれだけで良い一日を予感する。
大紫様は圭一郎が用意したティーセットで今日の最初の一杯を自分で作る。
朝はいわゆる白湯をお飲みになるが、白湯ではどうしても味気なく飲みづらいということで、紅茶をフレーバーのように使うのだ。
わずかに色が付く程度に紅茶を足して湯を飲み干す日もあれば、紅茶を多めに入れて味わうこともあるし、ミルクを足されることもある。
今朝は紅茶を多めに入れているようだ。
「今日の舞台稽古が楽しみだな」
「そうですね」
秀礼学園の学園祭で大紫様は主役のライオンを演じることになっていた。
今日の舞台稽古では大紫様の発案で大掛かりな仕掛けを試すことになっている。
気持ちの高ぶりを落ち着かせるために今朝は紅茶を多めに足したのだと圭一郎は察した。
秀礼学園に転入してまだ1カ月もたっていないというのに、大紫様はすでにS組の中心となっている。
当然のことと言われればそうなのだが、やはり感嘆せずにはいられない。
実行委員に立候補され、瞬く間にクラスメートから信頼を得た。
最初の話し合いからクラスメートの特に女子生徒たちが非常に協力的で、活発な意見が出ていた。
不特定多数の来訪者がある学園祭ではS組の生徒は顔を隠すために人形劇を行うことが不文律になっていたようだが、大紫様の発案でマスクと特殊メイクをつかっての演劇に決まり、なおかつご自身が主役を務めると決まるまで、わずか1時間。
あまりにも鮮やかで、誇らしく思ったことを圭一郎はこの朝あらためて思い返した。
「もうちょっと高くあげられないか」
大紫様の指示でサンドバックが空中に吊り上げられていく。
「あまり高すぎると見切れてしまいますよ」
「声が届きにくくなるかも」
佐藤杏奈さんも意見を述べた。
同じ日にS組に転入した彼女も学園祭に大変積極的で、脚本係として大いに励んでくれた。
「だったら、ピーターパンのように客席の上を飛ぶのはどうだ?」
「安全性に問題がなければ」
「よし! 客席のほうに動かしてみてくれ!」
大紫様からはアイディアがあふれ出て、次々と実行に移していく。圭一郎はそのお手伝いをすることが嬉しくてたまらなかった。
「いいじゃないか!」
「そうですねえ、照明はどうなるのでしょう。ちょっと見てきます」
大紫様のお役に立てるよう、舞台監督の仕事に励もうと圭一郎は席を立った。
照明は実行委員でもある善財詩子さんが担当している。
善財さんはクラスの女子生徒からの信頼も厚く、大変しっかりした方だが、大紫様の補佐的な振る舞いをしてくださる非常に奥ゆかしい方だった。
さすが五条財閥のご令嬢だと思う。
「主役のライオンが月の光にむかって飛んでいくような演出にしたいのですが、どうでしょう」
「幻想的ね、こんな感じでいかがかしら」
「いいですね。もう少し角度をつけられますか」
「こうかしら」
「そこです! 今の角度で……」
うっかり善財さんの手に触れてしまった。
「失礼しました」
「いえ、気になさらないで」
そう言ってうつむいた善財さんのまつげが震えていた。
不用意に女子に手を重ねるなど、してはならないこと。圭一郎は自分の迂闊さを恥じた。
その時だった。
「キャー!」
階下から女子の叫び声がして舞台に目をやると、サンドバックが制御を失い大きく揺れていた。
ワイヤーが1本切れたようだ。残る1本では支えきれないだろう。
「杏奈、伏せろ!」
大紫様が客席に飛び降りていくのが見えた。
瞬間、圭一郎も走り出す。
大紫様が倒れていた。
客席に圭一郎が降りたとき、バスンと大きな衝撃音がしてドスンと音が続いた。
ワイヤー1本で支えられていたサンドバックが勢いをつけて客席へと放り出され、佐藤さんを守ろうとした大紫様がサンドバックをまともに受けて、投げとばされたのだ。
「大丈夫ですか!」
駆け寄り、すぐさま大紫様を抱きおこす。
額から血が流れている。
「大(紫様)」
呼びかけた圭一郎を、大紫様がすっと制した。
良かった、意識はあるようだ。
それどころか、気が動転して「大紫様」と呼びかけようとした自分を押しとどめた。
圭一郎は安心すると同時に自分を恥じた。
このような状態でもしっかりと入れ替わりを守っている大紫様を自分がお守りせねば。
「問題ない。それより杏奈は無事か?」
佐藤杏奈さんを慌てて確認する。
大紫様がかばったおかげで大きな怪我はなさそうだった。
「無事ですよ」
「そうか、よかった。悪いが俺を医務室まで連れて行ってくれないか」
「はい!」
圭一郎は大紫様をかつぐように抱き起す。
立ち上がることはできるようだ。一刻も早く病院へお連れしなければ。
「待って」
佐藤さんに呼び止められ、大紫様が足を止め、振り返った。
つられて圭一郎も振り返る。
「……ありがとう」
佐藤さんの声が震えていた。
大紫様は微笑み、軽く手を上げようとすらなさった。
しかし痛みが走ったようだ。
圭一郎はすぐに運転手に電話し、迎えにくるよう頼んだ。
私が席を立たなければこんなことにはなっていなかった……圭一郎は自分を責め続けた。
学園の車寄せで待機していたロールスロイスにお乗りになるやいなや、大紫様は傷みに顔をゆがめた。
誰かに見られぬよう、ここまで我慢しておられたのだろう。おいたわしい。
「大紫様、本当に申し訳ありません。私があの場を離れていなければ、大紫様がお怪我することもありませんでしたのに」
圭一郎は心から悔やんでいた。
「なにを言ってるんだ、圭一郎が客席にいたらやっぱり俺は助けにいっていた。同じことだ」
「大紫様……」
胸が熱くなった。涙がこみ上げてくるのを圭一郎はぐっとこらえた。
「自分にとって一番大事なものは何か、はっきりと気づきました」
幼少からずっと一緒にいて、親元を離れてロンドンで暮らしてきた。
公明正大で聡明で堂々としていつも輝いていた人。けれど自分にだけは甘えてくれる人。
圭一郎が尊敬し大事に思うように、大紫様もまた自分を大切に思ってくださっている。
その喜び。
圭一郎はこれからもずっと大紫のそばにいたいと心から願った。
大紫様のために自分に何ができるのか、圭一郎はおのれの未熟さが歯がゆかった。


