「大紫様のところに戻るまえに、ゆっくり話したいと思ってね」
父はそういうとカモミールティーを口にした。
圭一郎も一口飲もうと思ったが、カップを戻した。
「そのことですが、私は……大紫様の執事を続けていくことはもうできません」
思い切って、言った。
「ほう」
父はまたカモミールティーを飲む。
カモミールは安らぎを与えるという。
圭一郎の言葉に、父は動揺しているのかもしれない。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る? むしろ喜ばしいことだ」
「え?」
「大紫様に親しきお方ができたということだろう」
圭一郎は、父の目をみた。
実家に戻ってから、父と目をあわせるのを避けていたことに、ようやく気が付く。
「私もそうだった。篤紫(あつし)様が桂子様と親しくなったとき、まるで失恋を経験したような気持ちになったよ」
篤紫様とは、今の三山家当主、大紫様のお父上だ。
「圭一郎、執事にとって一番重要なことはわかるかな」
突然、本質をつくような質問をされ、圭一郎は戸惑った。
「どんな時も、精神誠意お仕えすることでしょうか」
「それも大事だが、違うな。一番重要なのは、心から慕うことができるような相手にお仕えできるか、ということだ」
「心から、慕う……」
「そうだ。執事は主人を選べない。田鍋家は三山家を支えてきた。百年以上続く関係だ。時代が変わっても、この関係を変わらないだろう。そのために重要なのは、三山家の方を、心から慕うことができるかどうかなんだ」
大紫様の晴れやかなお顔が心に浮かんだ。
堂々とした立ち振る舞いが浮かんだ。
そして寝ぐせをつけたまま、圭一郎がいれたモーニングティーを飲む姿が浮かんだ。
ほほえましい気持ちでいっぱいになり、ふと頬がゆるんだ。
「はい、私は大紫様を心からお慕いしております」
「それでいい。それこそが無上の喜びになる」
父は、ポケットからシナモンスティックを取り出し、指先でパキリと折った。
シナモンの幻惑的な甘い香りが部屋に広がった。
そして砕いたシナモンを、圭一郎と自分のカモミールティーにいれた。
カモミールティーの香りが変化し、安らぎから、高揚感へと、圭一郎を包み込んだ。
「圭一郎、お前はきっといい執事になる。そしていい執事を主人はこよなく愛し、決して手放さない」
「はい」
明日、大紫様のところに戻ろう。圭一郎は心の靄が晴れていくのを感じた。
さて。
大紫様の恋をそっと後押しするのが、圭一郎にミッションとなった。
まずは、杏奈さんがいなくなって元気のない大紫様を何とかしなくてはいけない。
圭一郎が、杏奈さんが始めたらしいクラブ活動のことを耳打ちすると、大紫様は途端に元気になり、すぐに行動を始めた。
しかし、恋についての詩を発表することが入部の条件になるとは。
大紫様は素直にお心をリリックにできるのだろうか。
圭一郎の見立てでは、大紫様はまだ自分が恋をしていらっしゃることを十分自覚されていない。
さりげなくアドバイスするしかない。
そして当日、大紫様は杏奈さんを残して、人払いをお申し出になった。
杏奈さんにだけ聞かせたいということは、恋の詩ができあがったのだろう。
どんな詩なのか、いつか教えていただきたいが、今はそっと見守ることにする。
大紫様と杏奈さんがなかなか音楽室から出て来ない。どうしたのだろうか。
まさか、うまくいかなかったのだろうか。
いや、うまくいったからこそ、2人で話が弾んでいるのかもしれない。
内心の焦りを隠すため、圭一郎は「なにか飲み物でも持ってきましょう」とその場を離れた。
すると善財詩子さんが、「三山くん、私も行くわ」とついていらっしゃった。
カフェテラスで飲み物を購入し、音楽室に戻っていく途中で、
「あの、いつかでいいんだけれど、私の詩を三山君に読んでいただきたいの」
と善財さんがおっしゃった。
「私でよければ、ぜひ」
音楽室の前についたとき、ようやく、扉が開いた。
大紫様──。
心の中で、圭一郎は、敬愛してやまない名前を呼んだ。
(スピンオフ・おわり)
父はそういうとカモミールティーを口にした。
圭一郎も一口飲もうと思ったが、カップを戻した。
「そのことですが、私は……大紫様の執事を続けていくことはもうできません」
思い切って、言った。
「ほう」
父はまたカモミールティーを飲む。
カモミールは安らぎを与えるという。
圭一郎の言葉に、父は動揺しているのかもしれない。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る? むしろ喜ばしいことだ」
「え?」
「大紫様に親しきお方ができたということだろう」
圭一郎は、父の目をみた。
実家に戻ってから、父と目をあわせるのを避けていたことに、ようやく気が付く。
「私もそうだった。篤紫(あつし)様が桂子様と親しくなったとき、まるで失恋を経験したような気持ちになったよ」
篤紫様とは、今の三山家当主、大紫様のお父上だ。
「圭一郎、執事にとって一番重要なことはわかるかな」
突然、本質をつくような質問をされ、圭一郎は戸惑った。
「どんな時も、精神誠意お仕えすることでしょうか」
「それも大事だが、違うな。一番重要なのは、心から慕うことができるような相手にお仕えできるか、ということだ」
「心から、慕う……」
「そうだ。執事は主人を選べない。田鍋家は三山家を支えてきた。百年以上続く関係だ。時代が変わっても、この関係を変わらないだろう。そのために重要なのは、三山家の方を、心から慕うことができるかどうかなんだ」
大紫様の晴れやかなお顔が心に浮かんだ。
堂々とした立ち振る舞いが浮かんだ。
そして寝ぐせをつけたまま、圭一郎がいれたモーニングティーを飲む姿が浮かんだ。
ほほえましい気持ちでいっぱいになり、ふと頬がゆるんだ。
「はい、私は大紫様を心からお慕いしております」
「それでいい。それこそが無上の喜びになる」
父は、ポケットからシナモンスティックを取り出し、指先でパキリと折った。
シナモンの幻惑的な甘い香りが部屋に広がった。
そして砕いたシナモンを、圭一郎と自分のカモミールティーにいれた。
カモミールティーの香りが変化し、安らぎから、高揚感へと、圭一郎を包み込んだ。
「圭一郎、お前はきっといい執事になる。そしていい執事を主人はこよなく愛し、決して手放さない」
「はい」
明日、大紫様のところに戻ろう。圭一郎は心の靄が晴れていくのを感じた。
さて。
大紫様の恋をそっと後押しするのが、圭一郎にミッションとなった。
まずは、杏奈さんがいなくなって元気のない大紫様を何とかしなくてはいけない。
圭一郎が、杏奈さんが始めたらしいクラブ活動のことを耳打ちすると、大紫様は途端に元気になり、すぐに行動を始めた。
しかし、恋についての詩を発表することが入部の条件になるとは。
大紫様は素直にお心をリリックにできるのだろうか。
圭一郎の見立てでは、大紫様はまだ自分が恋をしていらっしゃることを十分自覚されていない。
さりげなくアドバイスするしかない。
そして当日、大紫様は杏奈さんを残して、人払いをお申し出になった。
杏奈さんにだけ聞かせたいということは、恋の詩ができあがったのだろう。
どんな詩なのか、いつか教えていただきたいが、今はそっと見守ることにする。
大紫様と杏奈さんがなかなか音楽室から出て来ない。どうしたのだろうか。
まさか、うまくいかなかったのだろうか。
いや、うまくいったからこそ、2人で話が弾んでいるのかもしれない。
内心の焦りを隠すため、圭一郎は「なにか飲み物でも持ってきましょう」とその場を離れた。
すると善財詩子さんが、「三山くん、私も行くわ」とついていらっしゃった。
カフェテラスで飲み物を購入し、音楽室に戻っていく途中で、
「あの、いつかでいいんだけれど、私の詩を三山君に読んでいただきたいの」
と善財さんがおっしゃった。
「私でよければ、ぜひ」
音楽室の前についたとき、ようやく、扉が開いた。
大紫様──。
心の中で、圭一郎は、敬愛してやまない名前を呼んだ。
(スピンオフ・おわり)


