歌声が心の扉を叩いた日

渡辺真知子——デビュー曲『迷い道』を自らの手で作詞作曲し、その切なくも心に染みる歌声と、人生の機微を捉えた歌詞で、瞬く間に日本中の人々の心を掴んだ。デビュー以来、その透明感あふれる美貌と、気品あふれる佇まいは年を重ねても少しも衰えることがなく、今も多くの人々に憧れられ続けている。
だが、そんな真知子には、長年変わらない姿勢があった。これまで一度も熱愛報道が世に出たことはなく、結婚の話も聞かない。周りが「そろそろ恋も」「素敵な人がいるでしょう」と勧めても、彼女はいつも穏やかに微笑んでこう言うのだ。「私の一番の仕事は歌を届けること。恋愛に興味がないわけじゃないけれど、今はそれどころじゃないの」。そうして音楽一筋に歩み続け、自分の心を歌に込めることだけに、全身全霊を注いできた。
末山愛斗もまた、同じような生き方をしていた。高校時代、周りの同級生が恋の話で盛り上がる中、彼は一人でラジオから流れる昭和歌謡や演歌に聴き入り、歌詞の一つひとつの意味を噛み締め、声の響きを真似てみることに夢中だった。「恋なんて、心を乱すだけだ」とどこか冷めたように思い、ただひたすら歌うことだけを自分の道として歩き始めた。
そしてその夢を叶え、演歌歌手としてデビューしてから、ちょうど一年が過ぎた。少しずつ自分の歌を聴いてくれる人が増え始め、毎日が新しい発見と学びの連続だ。
ある休日、愛斗は同じ事務所の後輩で、同じく演歌歌手を目指す亜蘭と、久しぶりに街を歩いていた。お互いに最近聞いた曲の話や、歌い方のコツなどを語り合いながら、のんびりと歩いていたその時、ふと路地の先に見慣れた二人の女性の姿が目に入った。
「えっ……? あれって、渡辺真知子さん? それに庄野真代さん?」
愛斗は思わず足を止めた。それは、自分が何度もCDを買い、何度もラジオの前で聴き入り、『迷い道』を暗記するほど好きで、歌の道を志すきっかけをくれた、憧れの人その人だった。
だが、その穏やかな光景は、次の瞬間に一変した。見知らぬ中年の男性が二人の前に立ちふさがり、真知子の腕を無理やり掴んでいた。
「やめてください! 本当にやめて! 手を離してください!」
真知子は顔を青くし、体を強く引こうとするが、男性は力任せに腕を掴んだまま、離そうとしない。
「別に悪いことはしない。ただ、真知子さんと少しだけ話がしたいだけなんだ。なあ、いいだろう?」
真代が慌てて間に入り、男性の腕をそっと叩いて言う。
「ちょっと、彼女が嫌がってるでしょう。やめてください!」
すると男性は急に不機嫌になり、勢いあまって真代の肩を強く突き飛ばした。
真代はよろめき、そのまま後ろに倒れそうになった。
「危ない!」
愛斗は反射的に駆け出し、真代の体をしっかりと両腕で受け止めた。ゆっくりと地面に足をつけ、真代が倒れないように支える。
「大丈夫ですか? どこか痛くないですか?」
「ありがとうございます…! 大丈夫よ、ありがとう」真代は胸を撫で下ろし、安堵したように頷いた。
愛斗は真代を亜蘭に任せると、すぐに真知子のもとへ駆け寄り、男性の真正面に立ちはだかった。
「聞こえていますよね。この方が本当に嫌がっていらっしゃいます。手を離して、すぐに帰ってください」
男性は若い男が前に立ったことに苛立ったのか、眉を吊り上げ、手を振り上げて愛斗の顔を殴ろうとした。だが愛斗は怯まず、ぐっと足を踏みしめて動かず、鋭い視線で男性を見つめ返した。その揺るぎない眼差しに気圧されたのか、男性は拳を振り下ろし、舌打ちをして「めんどくせえ」とつぶやくと、その場から足早に逃げていった。
周りが静かになり、ようやく安心したのか、真知子は深く長いため息をつき、愛斗にゆっくりと深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます。助かりました。本当に、本当にありがとう」
愛斗は少し照れくさそうに頬をかき、真っ直ぐ真知子の瞳を見つめて、はっきりと言葉にした。
「いえ、とんでもないです。……実は私、昔からずっと、渡辺真知子さんの大ファンなんです。デビューしたばかりの頃から、『迷い道』を何度も何度も聴いて、歌詞を書き写して、自分もこんなに心に響く歌を歌いたいって、強く思ったんです。あの曲が、私が歌の道を志す一番のきっかけなんですよ。だから、お会いできただけでも嬉しいのに、こんな形でお役に立てて、本当に良かったです」
真知子は驚いて目を大きく見開き、愛斗の言葉を聞いているうちに、少しずつ柔らかく、心からの笑顔がこぼれた。
その笑顔は、今までテレビやステージで見せていたものとは少し違う、誰にも見せたことのないような、あたたかな光を放っていた。
「そうだったの……。そんなに聴いてくださっていたなんて、嬉しいわ。ありがとう」
その瞬間、愛斗の胸の奥で、今まで感じたことのない、新しい鼓動が、ゆっくりと響き始めた。