便座の上で力んでいたら異世界転生!? 婚約者の冷酷公爵をビンタして婚約破棄を目指します!

キリアンを思いっきり笑い飛ばした後、私は顔に巻きつけていた赤いサリを引っぺがし、近くの干し草の山に投げ捨てた。残った気力を振り絞って西門へとダッシュし、キャンバスシートで覆われた貨物馬車の荷台にコソコソと忍び込む。追っ手の衛兵たちから隠れるために、積み上げられた荷物の隙間で小さく丸まった。

キリアンの騎士団やロワンの神官たちの目が完全に届かない場所だと確認した瞬間、さっきまで市場で繰り広げていた大逃走劇のアドレナリンが、一気にサーッと引いていく。それと同時に、ボロボロになった体に強烈な眠気が襲いかかってきた。動き出した馬車のガタゴト揺れるリズムのせいで瞼がめちゃくちゃ重くなり、私はそのまま爆睡した。

……だけど、その睡眠はちっとも癒やしにならなかった。私の意識は強制的に引っ張られ、この体の元の持ち主――元・皇女様が残した、古い記憶の迷宮へと引きずり込まれていく。

さっきまで馬車の中に漂っていた布切れのカビ臭い匂いが、ゆっくりと消えていく。代わりに鼻をついたのは、やたらと濃厚で、妙に見覚えのある薔薇の甘い香りだった。

◆◆◆

その日の昼下がりの皇宮の薔薇園は、ひどく静まり返っていた。しかし、当時十五歳だったアレシアにとって、そこは目障りな駒を排除すべき「チェス盤」そのものだった。その日、皇帝陛下は一人の同世代の少女を皇宮へと連れてきた。

少女はみすぼらしいメイド服を身にまとっていたが、その瞳と顔立ちは、紛れもなく皇族の血筋を引いていることを示していた。彼女こそが、この世界の本来の「女主人公(ヒロイン)」――皇帝陛下が過去の不倫関係の末に作らせた、私生児の少女だった。

その私生児の出現は、アレシアの地位を脅かすだけでなく、ヘリオスの胸の内に燻る怒りに火をつけるには十分すぎるものだった。亡き母を深く慕う長男として、ヘリオスはそのメイドの少女の存在を、母の尊厳に対する最大の侮辱だと捉えていたのだ。

その日の昼下がり、ヘリオスは若き教皇であるロワンと共に、薔薇園の回廊を歩いていた。兄の感情の揺らぎと、これ以上ない完璧なタイミングを見計らい、アレシアの狡猾な脳細胞は瞬時にフル回転を始めた。当の女主人公は、深く張り巡らされた薔薇の池の縁に、ぽつんと佇んでいた。

その顔には、一瞬だけ無邪気な笑みが浮かんでいた。生まれて初めて目にする薔薇園の美しさに、心から見惚れているようだった。しかし、そのささやかな微笑みはすぐに消え失せ、皇女の気配に気づいた瞬間、彼女の身体は小さく震え出した。

アレシアは優雅な足取りで彼女へと近づいていく。その片手には、美しい宝石のあしらわれた髪飾りが握られていた――これこそが、彼女を嵌めるためにわざわざ持ち出した「餌」だった。

アレシアは彼女の頬を叩いたりはしなかった。むしろ、この上なく甘い微笑みを浮かべ、手入れの行き届いた指先で女主人公の細い髪の毛に触れた。しかし、その唇から紡がれた囁きは、まるで短剣のように冷徹だった。

「ここがどういう場所か、分かっていて?」アレシアは囁いた。その声は絹のように滑らかでありながら、精神をじわじわと追い詰めるような圧迫感を含んでいた。

「ここは亡き母上の、神聖なる薔薇園よ。あなたのような汚れた血が……肥料にすらなる価値もない場所」

「も、申し訳ありません、皇女殿下……私、決してそのようなつもりでは――」

「その哀れっぽい顔をしていれば、この皇宮で私たちの地位を奪えるとでも思っているの?」アレシアは冷静に言葉を遮った。

そして、ヘリオスとロワンの足音が近づいてくる完璧なタイミングを見計らい、アレシアはわざとたじろぐように一歩後ろへと下がった。その美しい笑みを崩さぬまま、傍らに咲く薔薇の茎へと指先を伸ばす。彼女は瞬き一つせず、鋭い棘がびっしりと生えたその茎を、思い切り強く握りしめた。


大きな棘が容赦なく滑らかな手のひらの皮膚を突き破り、肉の深くまで食い込んで、鮮血がドクドクと溢れ出す。凄まじい激痛が走ったが、アレシアの心拍数は一向に乱れなかった。彼女にとって、この程度の痛みはただの「投資」に過ぎないのだ。
次の瞬間、アレシアは電光石火の早さで、血に染まった自らの両手で女主人公の手を強く掴み取った。これでもかというほど力任せに握りしめ、溢れ出る血を女主人公の袖口へとわざと擦り付けた。

「こ、皇女殿下!? 離してください! お、手から血が……!」突如として溢れ出した鮮血に、女主人公は恐怖でパニックに陥った。そして反射的に、強い力で自分の手を引き剥がそうと振り払った。

それこそが、アレシアの待ち望んでいた瞬間だった。女主人公が手を振り払ったその刹那、アレシアはわざと手の力を抜いた。そして、自分の身体をドラマチックに後ろへと のけぞらせた。

バシャーーーン!!!

アレシアは、氷のように冷たい薔薇の池へと、自ら進んで身を投げたのだ。

「アレシア!!!」

悲痛な叫び声を上げたのは、回廊の角から姿を現したばかりのヘリオスだった。隣にはロワンもいる。実の妹が池に沈み、その水面が血でみるみる赤く染まっていく光景を目にした瞬間、ヘリオスが朝から抑え込んでいた怒りは一気に爆発した。

皇太子は何も考えることなく池へと飛び込み、ずぶ濡れになったアレシアの身体を水面へと抱き上げた。若き教皇であるロワンは、すぐさま大理石の床に膝をついた。

アレシアの無残に傷つき、血にまみれた手のひらを見て、彼の顔から血の気が引いていく。彼は即座に神聖魔法を発動し、アレシアの肺から水を吐き出させると同時に、その手の止血を試みた。


神聖魔法の温かみのある黄金の光がアレシアの身体を包み込み、強制的に水を吐き出させると、彼女は冷たい大理石の床の上で激しく咳き込んだ。胸が締め付けられるように苦しく、ズキズキと痛む。しかし、酸素が再び行き渡り、意識が完全に覚醒したその刹那、アレシアの計算高い脳は瞬時に状況を支配した。

アレシアはヒステリックに泣き叫んだり、パニックになって喚いたりはしなかった。そんな安っぽい真似は彼女のプライドが許さない。弱々しく咳き込む合間に、彼女は人間が作り出し得る最も「儚げな表情」を浮かべてみせた――それは純粋な計算から生まれた、演技の最高傑作だった。

「ヘ、ヘリオスお兄様……」

アレシアは蚊の鳴くような声で呟いた。その声は、骨の髄まで染み渡る冷気のせいで、かすかに震えている。傷ついた小さな指先で乱暴に掴みかかるのではなく、まるで壊れやすいガラス細工にでも触れるかのように、ヘリオスのマントの端をそっと、本当に優しく握りしめた。

そして、手のひらに刻まれた薔薇の棘による傷跡を、ヘリオスとロワンの目にこれでもかと焼き付けるように見せつけたのだ。

「ダメ……。お願い、あの人を責めないで……」アレシアは再び呟いた。

ヘリオスは息を呑み、アレシアの手の凄惨な傷跡を見つめながら、引き裂かれそうな、そして恐怖に満ちた眼差しを妹に向けた。

「アレシア、何を言っているんだ!? あいつはお前を傷つけたんだぞ! その手を見ろ!」

「違うの、お兄様……私が悪いの」アレシアはそう囁くと、青白い頬を伝って一筋の涙が美しく零れ落ちた。完璧な諦念を体現したかのような涙だった。

「私はただ、歓迎の印にこの髪飾りをプレゼントしたかっただけなの。でも……私の存在が、彼女を不快にさせてしまったのかも。この皇宮は本来自分のものになるべきだって言われて、それを奪い取られて、突き落とされて……」

アレシアはわざと言葉を濁し、沈黙と、手から滴る血の傷跡にその先を語らせた。その効果は、どんな罵詈雑言よりも致命的だった。傷ついたその手こそが、女主人公から「暴力を振るわれた」という、言い逃れのできない決定的な身体的証拠となったのだ。

ヘリオスの顎が、怒りで硬く強張った。これまで辛うじて抑え込んでいた怒りが、ここにきてどす黒い怒号となって爆発する。妹の「責めないで」という言葉によって、兄としての庇護欲と防衛本能が、完全にロックオンされた瞬間だった。

アレシアがその私生児を庇えば庇うほど、ヘリオスの中で「妹を傷つけた忌々しい疫病神を徹底的に叩き潰さねばならない」という衝動が膨れ上がっていった。ヘリオスはすくと立ち上がり、アレシアの身体を外の視線から遮るように立ちはだかった。そして、父親の隠し子であるその私生児に向けて、血も凍りつくような殺意に満ちた眼差しを向けた。

「よくもあたしのものに手を上げてくれたな! 恩知らずの路地裏のゴミめが!」

ロワンもまた、聖職衣の裾をわずかに揺らしながら一歩前へと踏み出した。普段なら神の慈愛に満ちているはずの若き教皇の顔は、今は容赦のない冷徹さで硬直している。その視線は、女主人公の手元に付着したアレシアの血痕に釘付けになっていた。

「無垢な顔の内側に、これほど見苦しい嫉妬の毒を隠していようとは」ロワンの声は、厳格な審判そのものの響きを伴って響き渡った。

「神の御前において、神聖なる帝国の血統を傷つけ、血を流させた罪は、決して赦されるものではありません」

「ち、違います! 神に誓って、私はやっていません!」

女主人公はヒステリックに首を振った。大粒の涙がとめどなく溢れ出し、彼女の中に残されていたわずかな冷静さを完全に打ち砕いていく。震える身体のまま大理石の床に崩れ落ちた彼女は、ヘリオスのブーツの足元へ縋り付くように平伏しようとした。

「アレシア皇女殿下が、ご自分の手で薔薇の棘を握りしめたのです! 本当です! 私は池の縁にすら触れていません! どうか、どうか信じてください……ヘリオスお兄様、お願いです……」


「黙れ! 誰に向かって『お兄様』と呼んでいる!」ヘリオスの地鳴りのような怒号が言葉を遮り、女主人公は恐怖のあまりびくりと身体をすくませて後退した。ヘリオスは、まるで不快な害虫でも見るかのような蔑みの目を彼女に向けた。

「お前の身体を流れる汚れた血など、あたしやアレシアと同等になることは万に一つもない。その汚らわしい唇で、二度とその呼び名を口にするな!」

その残酷な言葉が空中に残り、一瞬にして聖なる庭園のすべてを静まり返らせた。侍女や騎士の誰一人として、息をすることさえ拒まれた。アレーシアが自傷行為をしたのだというヒロインの弁明は、彼らにとって到底信じられるものではなかった。

他人をおとしめるためだけに、薔薇の棘を粉々になるまで握りしめる正気な人間がどこにいるだろうか。いるはずがない。そして、それこそがアレーシアの天才的な計算だった。

ヒロインの声は、皇太子の絶対的な威厳と若き教皇の聖なる権威によって完全に掻き消された。あの日の昼下がり、庭園にいたすべての者の目に、その私生児は残酷な怪物、そして嘘つきとして公式に刻印された。自分を保護するように抱きしめるヘリオスの広い背中の陰で、アレーシアの身は誰の視線からも完全に隠され、守られていた。私生児の少女が、誰にも信じてもらえず絶望の悲鳴を上げたその瞬間、それまで力なくぐったりとしていたアレーシアが、ゆっくりとわずかに頭をもたげた。その虚ろだった瞳が、突如として鋭く、冷徹に、そして完全に生気を取り戻す。

手のひらの疼くような痛みが、むしろ彼女の歪んだ自尊心を満足させる燃料となった。彼女は、大理石の床に崩れ落ちて涙を流すヒロインをまっすぐに見据えた。そして、血の気の失せた青白い唇に、極めて微かで、狡猾、かつ優雅な勝利の微笑みを浮かべた。

(心ゆくまで泣くがいいわ、路頭のゴミ屑が)アレーシアは心の中で、満ち足りた勝利感とともに囁いた。

(今日からこの宮廷のどこを探しても、あなたのような存在を迎え入れる場所なんてありはしないのだから)声には出さなかった。

しかし、その鋭い眼差しは、まるで彼女に直接囁きかけているかのようだった。──私の地獄へようこそ、お嬢ちゃん。