教室の前に着いたのは、3限の授業があと15分程で終わる頃だった。授業中に教室へ入る勇気はないため、3限が終わるのを待つことにして、廊下に常設されているベンチに腰掛けた。ここなら教室から見えることはない。授業が終わったら、休み時間の喧騒に紛れて教室に入ろう。脳内でシミュレーションして成功イメージを植え付けていると、教室から、それじゃぁ今から小テストやるぞぉ、という木村先生の声の後に、生徒たちのブーイングが聞こえてきた。木村先生は生物担当の教師だ。生徒たちを宥めるのもそこそこに、ほら早く教科書しまえ、と問答無用で答案が配られる。
ふと、昨日返された古典の小テストを思い出した。ポケットを探り、小さく折り畳まれた藁半紙を取り出す。定期的に行われる古典文法の小テスト。テスト範囲は予告されるため、満点を取る生徒は多い。斯くいう私も毎回頑張って満点を目指している。しかし、高良先生が復習するように言っていたから、今回は満点を取れなかったのだと思っていた。だから、全問正解だったことに驚いた。
「え、なんで?」
満点を喜ぶべきなのに、間違っているところがどこか探す。答案をくまなく眺め、わかったことは、間違いはどこにもないこと。そして、答案の端に無地の付箋が付いていること。なんだこれ? 間違ってくっついたのか? ペリリ、付箋を剥がす。何気なく裏返す。ドキン、心臓が大きく鼓動する。
『コシ2P5』
付箋に記された走り書きの暗号。ただ文字が羅列されているだけに見えるが、違う。私にはわかる。この暗号の意味が。
3限が終わるまであと10分。立ち上がり、向かったのは、2号館の校舎。購買のおばちゃんはまだいない。3階まで階段を上り、長い廊下を行く。顎先に滴る汗を、手の甲で拭う。第2個別指導室に着く。
「失礼します」
ドアを押し開け、中を覗く。誰もいない。中に入り、ドアを閉める。窓を開け放つと、裏庭の湿った空気が室内に吸い込まれ、カーテンが揺れた。こもった熱気が柔らかく冷やされていく。
ふと体の力が抜けた気がしたとき、ぐるるる、お腹が鳴った。そういえば、昨日、お昼にお弁当を食べてから何も食べていない。椅子に腰掛け、病院の売店で買ったおにぎりをリュックから出した。おにぎりの包装を剥がし、いざ食べようと口を開けたとき、なぜか、急に胃が気持ち悪くなった。食べたくない。お腹は空いているのに、食欲が湧かない。
時計を見上げると、3限が終わるまであと5分程だった。今、教室に向かえば、ちょうど登校したように装える。破いたばかりの包装におにぎりを包み直し、ビニール袋に入れ、立ち上がる。教室を出ようとドアノブに手をかけた、そのとき、窓を開けっぱなしにしていることに気付いた。窓の方へ行き、閉める。鍵をかける。と、
「陽葵」
名前を呼ばれた。ドキン、心臓が震える。この声は、彼だ。確かめたくて、顔が見たくて、振り返ろうとしたら、後ろから抱きしめられた。顔は見えない。だけど、確信する。この温もりは彼だ。
「大丈夫?」
優しく撫でるような彼の声が、問いかける。首を横に振る。大丈夫じゃない。大丈夫じゃないから、お願いだから――言いたいことは思い付くのに、喉の奥が熱くて、何かが引っかかっていて、声にならない。代わりに、涙が一粒零れた。
「だよね」
罰が悪そうに、彼は言う。
「でも、大丈夫だから」
大丈夫だから、繰り返す。ごめんね、呟く。
「ごめんね」
優しく、私を突っぱねる。言いたいことを言えたところで、願いは叶わない。彼が私の気持ちに応えてくれることはない。
「ごめんね」
私を抱きしめて、彼は何度も繰り返す。ごめんね。陽葵。ごめん。それは、優しさ。そして、牽制。私は何も言い返せない。
「でも、大丈夫だから」
温もりが離れていく。待って。行かないで。ようやく声になった言葉は、まるで悲鳴のように、狭い教室に響いた。名前を叫んでも、彼は引き止められてくれない。振り返り、その背中を追う。手を伸ばす。大丈夫じゃないから。お願いだから。泣きながら懇願する。さっきは言えなかった続きが、すらすら言えてしまう。無我夢中で離れていく彼の背中を追う。だって、私は大丈夫じゃない。大丈夫じゃないんだよ。もう一度、彼の名前を叫ぶ。何度も、叫ぶ。だけど、彼はいない。もう、いない。
