病室に着いた私を出迎えたのは、ベッドに横たわっているお母さんだった。身体中に管が付いていて、心電図のモニターが一定の速度で音を刻んでいる。
「お母さん」
枕元に呼びかける。胸元が呼吸に合わせて上下している。
「お母さん」
もう一度呼びかけたとき、個室の病室に白衣を着た男性が入って来た。担当医だというその人は、お母さんは脳梗塞により倒れたのだと説明した。怪我は倒れたときに足首をひねったくらいで軽傷だという。どんな治療をしたのか説明されたけど、よくわからない専門用語が混じっていて、話の半分も理解できなかった。それを気にして、年配の看護師さんが補足してくれた。意識が戻っても、しばらくは記憶障害があると思われます。片麻痺や運動機能への後遺症が残る場合があります。今は目を覚ますのを待ちましょう。看護師さんがベッド脇に椅子を用意してくれて、お母さんが起きたらナースコールで知らせてね、と病室を出て行った。
椅子に腰掛け、お母さんの顔を見下ろす。寝顔を見るのなんて久しぶりだった。酸素マスクの表面が呼吸に合わせて曇る。
まだ、生きてる。
不意に心で呟いた言葉にぞっとして。
いや、生きてる。
慌てて訂正する。
「お母さん」
呼びかける。返事はない。縋るものがない私は、自分の右手を必死に握り締めた。薬指には、3年前からずっとはめたままの指輪がある。傷だらけのシルバーリングの表面を指先でなぞる。恭介くん。名前を呼ぶ。
「お母さん」
呼びかける。お母さんは起きない。恭介くん。指輪の傷を撫でる。恭介くんは、いない。
お母さんが目を覚ましたのは、その日の夕方だった。意識が朦朧としていて、担当医の、今日の日付は? という質問に、12月5日と答えた。今日は7月25日なのに。お子さんのお名前は? という質問に、ぼんやりと考え込んでから、こうすけ、と答えた。私の名前ははるきなのに。目が覚めたばかりだもの、と看護師さんが私の背中をさする。あのまま目を覚まさない可能性だってあったのよ。看護師さんの励ましが、ぐさり、胸に突き刺さった。まるで崖の淵に立っているような。少しでも気を抜けば、暗闇に吸い込まれていってしまいそうな。もしまた眠ってしまったら、次はもう起きないかもしれない。恐ろしい想像が脳裏を過る。
「お母さん」
呼びかける。閉じていた瞼がゆっくりと開き、ぼんやりとこちらを見上げる。
「なぁに?」
酸素マスク越しの声は、少し苦しそうで。
「陽葵だよ」
はるき、お母さんが繰り返す。それは名前ではなく、単語。
「誰だかわかる? お母さんの娘だよ」
はるき、呟く。はるき、呼ぶ。はるき、私を見つめる。
「思い出した?」
はるき、頷く。微笑む。涙が出そうだった。恐怖から解放された安堵感が、全身を包み込む。そんな私の気も知らないで、お母さんは焦点の定まらない目で、病室をキョロキョロ見回した。そして、私を見て、こうすけくんは? と尋ねた。まだ記憶が混濁しているのだろう。脳梗塞で倒れた後は自分の名前さえ思い出せないこともあるの。大丈夫、少しずつ思い出していくわ。そう言って、看護師さんは、母に名前を忘れられた娘の背中を撫でた。慰めに縋りたい気持ちを押し殺し、お母さんに「こうすけじゃなくて、きょうすけ」と教える。
「恭介くんはいないよ」
言いながら、指輪をぎゅっと握り締める。
「そう、まだ来てないの」
お母さんはため息を吐き、ベッドに深く沈み込んだ。
「恭介くんは来ないよ」
お母さんは、そう、と他人事みたいに相槌を打った後、目を閉じた。それから何と声をかけても返事をしなくなった。怖くなってナースコールを鳴らしたら、疲れて眠っているだけですよ、と背中を撫でられた。
次の日、お母さんはちゃんと目覚めた。自分の名前が矢野瑛子だということも、娘の名前が陽葵だということもわかった。ほっとした。精密検査があるとかで、お母さんはベッドに寝かせられたまま検査室へ連れて行かれた。空になった病室に一人佇みながら、一先ず学校へ行こうと決めた。
