お母さんが病院に緊急搬送されたのは、それから数週間後のことだった。
それは、2限の古典の授業中。高良先生が黒板に徒然草の本文を書き写していたとき。教室のドアがノックされた。
「授業中にすみません、あの……高良先生、いいですか……」
ドアを開けたのは、担任の木村先生だった。訳ありな様子で高良先生を廊下に連れ出し、こそこそと話している。高良先生が、えっ、と目を見張る。その後、
「矢野、ちょっと……」
木村先生が廊下から顔を出し、私に手招きした。生徒たちの視線が一斉に私に向けられる。何が何だかわからないが、とりあえず立ち上がる。廊下に出ると、高良先生が入れ違いに教室へ入り、ピシャリとドアを閉めた。教室の中から、どうしたの~? と山口さんの声が聞こえてくる。心配しているのではない。ただの興味だ。こういう目立ち方、嫌なんだけどな。無意識にため息を吐いたとき、
「矢野、落ち着いて聞けよ」
木村先生が重々しく前置きをした。そして、お母さんが怪我をして、意識不明の状態で勤務先の病院に運ばれたこと、今から来てほしいと病院から電話があったことを話した。矢野さん大人しいのに呼び出されるなんて珍しいね~。山口さんの声が聞こえる。ケラケラ笑っている。怪我って何? 骨折とか? 意識不明って、今も? やめなよ〜矢野さんに聞こえてるかもよ~。そうだよかわいそうだよ〜。クスクス。ケラケラ。タクシー呼んでくるから、矢野は荷物持って昇降口に行ってて。木村先生がせかせかと職員室へ戻って行く。
今日の朝食を思い出す。ご飯と味噌汁と厚焼き玉子。あれがお母さんと食べた最後のご飯になったら、どうしよう。
ガラリ、音を立てて無造作にドアが開いた。驚いて、思わず振り返る。ぽろり、一粒、涙が零れた。ドアを開けたのは高良先生だった。右手で私のリュックを握り、左手で一枚の藁半紙を持っている。
「これ、この間やった古典文法の小テスト。時間があるときに復習すること」
藁半紙を受け取った後、すぐにリュックが押し付けられるように渡された。
「荷造りは後ろの席の男子がしたから大丈夫だ」
「大丈夫って、何が……?」
「他人に所持品触られるの嫌だろ。ましてや男の教師に」
「そんな、気にしません」
「そうか。なら、アイツらのことも気にするな」
高良先生は苛立った様子で、教室を顎でしゃくった。
「人の気持ちを考えられない人間の言葉に、振り回されてやる必要はない」
芯の真っ直ぐ通った力強い声だった。ぽろり、また一粒、涙が零れた。頷いて、リュックを背負う。駆け出す。いつもなら廊下を走るなと叱られるけど、何も言われなかった。
