茜と菫の境界線で、夢を見る。


 2号館3階の廊下は、日中に温められた空気が密閉されているせいで、むわむわと蒸し暑い。息苦しいくらいだ。昼休みは購買前に人だかりができる2号館も、放課後は静まり返っている。

 なぜ人気のない校舎の廊下を一人で歩いているかというと、個別指導室で待ち合わせをしているからだ。個別指導室とは、2号館3階にある、簡単に言えば補習をする教室だ。数人分の机と椅子を並べただけで埋まってしまうほど狭く、普段は人の出入りはほとんどない。テストの点数が振るわなかった生徒を集めたり、入試対策の臨時講座や面接練習をしたりするときにのみ使用される。個別指導室は全部で5つあるが、私たちが待ち合わせをするのは決まって第2個別指導室。

 ドアの小窓から教室内を覗き込むと、ガラス越しに、椅子に腰掛けて本を読む彼が見えた。表紙には「これでカンペキ! 古典文法(中級編)」と書いてある。4月頃、文系クラスの2年生全員が購入させられたテキストだ。そういえば、明後日、古典文法の小テストがある。

 しばらく見つめてみたが、彼は私に気付かない。彼の指先がテキストの表面を撫でる。そっとページを捲る。集中しているのか、瞬きの回数が少ない。パチリ、やっと目を閉じる。開ける。顔を上げる。こちらを見る。


「何してんの」

 ドアに隔てられた向こう側から小さく声が聞こえた。今来たばかりという風を装い、ドアを開け、中に入る。


「今日は何する?」

 何にも隔てられずに、彼の声が聞こえる。目が合うのはまだ怖くて、俯いたまま隣の席に腰掛ける。


「数Ⅱ、」

 リュックを下ろし、問題集を取り出す。彼が、えっ、と顔をしかめる。


「数学あんま得意じゃないって、この前言っただろ」

 付箋を付けておいたページを開き、彼の前に突き出す。


「三角関数、」

 わからなくて、

 彼は、まったく……とぼやきながら、問題集を受け取った。得意じゃないだけで、できないわけじゃないのだ。


「問2が難しくて」

 彼は設問を見つめ、じっと黙り込んだ。そして、しばらくした後、ノート出して、と告げ、問題集を私の机に置いた。言われた通りノートと、ペンケースからシャープペンを取り出す。


「取っ掛かりはわかるだろ?」

 頷くと、彼は、やってみな、と言ったきり黙り込んだ。彼はいつも余計なことは言わず、私が問題を解くのを見つめている。手が止まったり質問をしたりすれば、ヒントをくれる。彼は勉強会と言っているが、私が一方的に教わっているので、授業と言った方がしっくりくる。週に1、2回、放課後に1時間だけ、場所は第2個別指導室、というのが、いつの間にか定着していた。


「電車、間に合う?」

 帰り際になると、彼は必ず言う。私が乗る電車の発車時刻を把握しているからだ。帰宅が遅くならないように心配してくれているのだろう。だけど、早く帰れと催促されているような気がして。ギリギリまでここにいようとしていると覚られている気がして。嬉しいけど、嬉しくない。


「まだ……、」

 もうちょっとだけ、

 言いながら、時計ではなく窓の外を見る。燃えるような夕焼けが紫がかった空に呑み込まれていく。茜色と菫色の境目がどこか探してみるが、見つからない。境目だと思ったところはまた違った色に見えて。茜色でもなく、菫色でもない。いや、茜色でもあり、菫色でもあるのか。


「どうした?」

 彼が顔を寄せ、私の視線の先を覗き込む。振り向けば触れてしまいそうな距離。空気を介して体温まで伝ってきてしまいそうで。必死に平生を装う。


「あの色、何色なのかなって」

「色? あぁ、確かに、綺麗だ」

 綺麗だなんて一言も言っていないのに、彼はそう言った。


「色はわからないけど、この時間は黄昏時って言うんだ」

 彼が腕時計を見下ろす。電車の出発時刻まであと15分。ここから駅まで徒歩10分。私は時計を見たくなくて、茜色と菫色の境界線にじっと目を凝らす。


「それから、逢魔が時とも言う」

「逢魔が時、」

「昼と夜が移り変わる時刻のこと。一般的には午後5時から7時を指す。昔から、逢魔が時には魔物に出会うなんて言われてる」

「魔物?」

「平安時代には、妖怪や魔物が百鬼夜行を始める時刻とされていたらしい」

「そういうの本当に、」

 いるの?


「怖い?」

 からかうように彼が笑う。時間を気にするように、腕時計を見る。


「おばけなら、」

 いてほしい、

 時計に向けられていた視線がこちらに向いた。見られている。息が詰まるのを感じたけど、ごくんと呑み込む。


「どうして?」

 両手の平をぎゅっと握り締める。勇気を振り絞る。

「だって、」

 言いながら、彼の目を見る準備をする。心臓の鼓動は加速する。突き刺さるような視線を真横から感じながら、ごくん、また唾を呑み込む。


「妖怪とか魔物は怖いけど、」

 お化けなら会ってみたい、


「どうして?」

「お化けはもともと生きていた人間だから」

「つまり?」

「もし死んじゃっても、お化けになって会えるなら、お化けはいてほしい」

 カチ、分針が時を刻む音が、狭い教室にやけに響いた。茜色と菫色の境界線は探しても見当たらない。昼と夜の境界線もわからない。夕日に照らされていたはずの教室は、いつの間にか薄暗くなっていた。タイムリミットだ。そう思ったら、急に現実に引き戻されたような感覚がした。胸いっぱいに膨れ上がっていた気持ちが、みるみる萎んでいく。情けない。やっぱり私は、彼の目を見つめ返す度胸をもち合わせていない。汗ばんだ手の平からそっと力を抜く。萎んだ勇気を静かに鞘に納める。


「明日は、」

 言いかけた私を、「ごめん、明日は用事がある」と彼が遮る。申し訳なさそうな声に、聞き分けよく頷く。困らせたくないから、大丈夫、と自分に嘘を吐く。

 あ、そうだ。教室を出ようとした私の背後で、彼が思い出したように呟いた。


「裁縫、得意?」

 え、何、急に。と思ったけど、言わなかった。ここにいられる時間が、この会話のおかげで少しだけど引き延ばせる。振り返り、でも、やっぱり顔は見られなくて、彼の第二ボタンに向かって、人並みには、と答える。


「お願いがあるんだけど」

 お願い?


「詳しいことは、また今度。あ、あと、明後日なら来られるけど、どう?」

 何気なく放たれたのは、次に会う約束。次がある。また会える。それだけで、別れ際の名残惜しさが吹き飛ぶ。口元が緩まないように唇を噛みしめる。こくり、頷く。


「じゃ、また明後日」

 彼が優しく微笑む。萎んだばかりの気持ちに、再び熱が灯る。


「また5時に、」

「うん。ここで待ってる」

 こくん、頷いて、壁掛け時計を見上げる。電車の出発まであと12分。急がなければ。


「帰り、気を付けて」

 ドアを開けながら、頷く。後ろを振り返る。顔を見ようとしたけど、やっぱりできなかった。彼の肩に向かって、また明後日、と告げ、ドアを閉める。パタン、音がして、空間が一枚のドアに隔てられる。蛍光灯の消えた廊下は、教室とは別世界みたいに静かで、暗い。逢魔が時。その名の通り、本当に魔物に逢ってしまいそうだ。だけど、今の私に怖いものなどない。だって、彼にまた会える。たったそれだけで、世界が明るく見える。人気のない廊下に響く足音は軽やかだった。