椅子の背にだらしなくもたれながら、彼は独り言のように言った。
「俺が10歳のときに亡くなったんだ、母親が」
私は物心つく前にお父さんがいなくなったけど、彼はお母さんを10歳で亡くした。それは親を亡くしたという点では同じでも、同じじゃない。彼には10年分の思い出がある。思い出には残酷な一面もあることを、私は知っている。
「お母さんは、病気で?」
彼が首を横に振る。
「仕事で海外に行くことが多くてさ。現地のデモに巻き込まれて、それで。当時のことはよく覚えてないんだ。母さんが死んで一番ショック受けてたのが親父だったから。親父の面倒見るのに精一杯で……まぁ、悲しむ暇がなかったのは、かえって良かったかも。悲しんだって母さんは帰って来ないし、生きることに必死になれた」
って、また俺が喋っちゃった。ごめんな。彼が明るく笑う。私は首を横に振る。彼がふっと微笑む。
「なんで矢野が泣くの」
言われて、自分の涙に初めて気付く。生温かい雫が頬を伝って、ぽたり、右手の甲に落ちた。
可哀想って同情されるのが苦手だったくせに、同情して泣くなんて滑稽すぎる。いや、これは同情なのか。色んな感情がぐちゃぐちゃに混じり合って、どんな感情が混じり合っているのかすらわからない。自分のことなのに、わからない。
「お兄さんのこと、思い出しちゃった?」
どうしてこの人は、私にもわからなかった私の感情をわかってしまうんだろう。自覚してしまったら、3年前のことが鮮明に脳裏に蘇ってしまって。あのときのようにお母さんが急にいなくなってしまったら、なんて考えてしまって。涙が止まらなくなった。寂しいとか、悲しいとか、悔しいとか、色んな感情はあるけど、一番大きいのは不安だったことを思い出してしまった。
「お母さんがいなくなったら、どうやって生きていけば……」
3年前も同じことを思った。彼が傍にいることが当たり前だったから。いなくなることなんて想像したことなかったから。想像できなかったから。私にとって彼が世界の中心で、彼にとって私が世界の中心だった。私は彼に支えられながら、彼にとっての支えだった。私たちは支え合って生きてきた。そんな彼を突然失って、この先どうやって生きていけばいいかわからなくなった。
「大丈夫じゃないときは、ちゃんと言いな」
骨ばった手が背中を撫でる。固いのに優しく、冷たいのに温かい。彼の手は、彼にそっくりで。やっぱり、と思った。
「恭介くん」
呟いた名前。3年前から呼んでも返事がなかった名前。この名前を聞いて、彼はどういう反応をするんだろう。顔を見ずにはいられなかった。どんな表情になるのか見逃したくなかった。欲求とはときに原動力になるもので、あんなに顔を見るのが怖くて避けていたのに、今は、真っ直ぐに彼の顔を見ることができた。目を見ることができた。視線がぶつかる。彼が「誰?」と首を傾げる。やっぱり、と思った。
「恭介くんは、私の、」
お兄ちゃん、
「もう死んじゃったけど」
彼の瞳に私が映る。あぁ、やっぱり。やっぱり、あなたは、
「恭介くんに、」
似てる。
「俺が?」
恭介くんが生きてたと思ったくらい、
「似てるって、顔?」
顔だけじゃない。背丈、仕草、声、何もかも。だけど、似ているけど、似ているだけ。会う度、思い知る。やっぱり、あなたは恭介くんじゃない。
