溺れるほど、きみが好き~国民的アイドルと初恋の幼馴染に奪い合われて、困ってます~

 隣をそっと見やると、小森さんは険しい顔のまま俯いていた。

 ここは、彼女がいつも運転しているワゴン車の中。
 後部座席に腰を下ろした小森さんに手招きされ、私はそのまま従うように隣へ座った。

 どうしてこんなことに……?

 横目で小森さんを盗み見る。
 彼女から漂う空気が怖い。ピリピリと張り詰めていて、近づきがたい。

 怒っているのか、それとも悲しんでいるのか。どちらにしても、良い話でないことは確かだった。

 車内の空気はどんよりと重く、息苦しい。

「ねえ、星ちゃん」

 不意に名前を呼ばれ、私は反射的に顔を向けた。
 その瞳に射抜かれ、背筋が強張る。

 何を言われるの?

 固唾を呑んで待つ私に、冷たく残酷な言葉が告げられた。

「あきらと、別れてくれない?」

「え……」

 驚きで目を見開く。
 彼女の瞳は冷たく、刺すようだった。

 ほんの数秒の沈黙。けれど永遠のように長く感じられる。

 何も言えずにいると、小森さんはふっとため息をついた。

「前にも言ったと思うけど……あなた、あきらのためにならないのよ。
 あの子、星ちゃんのせいでぼろぼろなの」

 耳に引っかかる言葉。
 どういうこと? あきらが?

 小森さんは疲れたように大きくため息を吐いた。

「あなたと喧嘩してから、仕事がうまくいかなくなったの。
 たぶん、星ちゃんのことでいろいろ悩んでるからだと思う」

 そこで言葉を切り、ぎゅっと唇を結ぶ。
 悔しそうに顔を歪めながら、彼女は続けた。

「ほんと、見ていられないくらいにね……。
 あんなに楽しそうに仕事していたのに、今では抜け殻みたい。
 彼の様子がおかしいと気づいた周りの連中も、なにかあるんじゃないかって嗅ぎまわってる」

 小森さんは疲れ切った顔でうつむいた。
 あの、いつも自信満々な彼女が、こんなふうに落胆するなんて。

 言葉が見つからない。
 そんなことになっていたなんて。

 あきら、大丈夫なの?  仕事は順調だと思っていたのに。

「関係者の人たちも、このままじゃって、難色を示し始めてる。
 ――彼、業界から干されるかもしれない」

 彼女は苦しげに眉を寄せる。
 あきらのことを本気で心配しているのが痛いほど伝わってきた。

 そうだよね。
 小森さんは、あきらがまだ人気のない頃からずっと支えてきた。
 彼のことになると一生懸命になる姿を、何度も見てきた。

 小森さんが私に向き直る。

 真剣な眼差しで見つめ、私の手をぎゅっと握りしめてきた。

「こんなこと言いたくないけど……
 星ちゃん、お願い。あきらから離れて。
 このままじゃ、あの子、取り返しがつかなくなる」

 懇願するような瞳。
 彼女は重苦しい表情のまま、さらに言葉を重ねた。

「きっと、離れれば、あきらも落ち着きを取り戻すはずよ。
 お互い、少しずつ忘れていけると思うの。
 そうすれば、また元通りに戻れるんじゃないかって」

 何を、言っているの?

 声が遠ざかっていく。
 彼女の言葉が、だんだん聞き取りづらくなる。

「あとのことは私に任せて。あきらのことは、命に替えても支えていく。
 これからは私が隣で支え守るから。安心して」

 優しい顔で微笑む彼女を、私はただぼんやりと見つめ返す。
 全身の力が抜け、何も言い返せない。

「あなたは、遠くからあきらの幸せを祈っていてくれれば、それでいい」

 満足そうに笑うその姿に、はっと意識が戻ったように思考が動きだす。

「ま、待ってください! それは、あきらの意志なんですか?
 私と別れたいって……彼が言ったんですか?」

 願いを込め、縋るように尋ねる。

 どうか違うと言って。

 けれど、小森さんは困ったように眉をひそめ、また口を閉ざした。
 沈黙の中、鼓動だけがやけに大きく響く。

「……そうよ」

 その一言が、鋭く心を抉る。

 痛い。胸が痛い。
 世界が音を立てて崩れていくように感じる。

 嘘、信じられない。

 あのあきらが、そんなこと言うなんて。

 今までずっと「大好き」って、「愛してる」って言ってくれたのに。
 「ずっと一緒だよ」って、笑いかけてくれていたのに。
 それは、嘘じゃないはず。

 あきらがそんなこと言うはずない。

 必死にそう言い聞かせながら、痛みに抗った。

 そのとき、ふと守兄の顔が浮かぶ。

 そうか……
 あきらは守兄との一件で傷ついて、私に絶望したんだ。
 私と守兄がデキてるって。

 私の気持ちがもうあきらから離れてしまったって思って。それで?
 信用できなかった?
 もう、好きじゃなくなった?

 一緒にいると、あきらがダメになっちゃうの?
 傍にいるのは迷惑で、邪魔……?

 どうして……なんでっ。

 体が震え、涙が溢れ頬を伝っていく。

 私はまだ、あきらのことが、
 こんなにも好きなのに。

 いろいろあった。誤解もあった。傷つけてしまったことだってある。

 でも、それでも。

 私たちならきっと大丈夫だって、信じていたのに。

 視界が滲む。
 突きつけられた衝撃があまりに大きくて、心がぐちゃぐちゃになる。

 どうすればいいのかわからない。

 ただただ悲しくて、苦しくて。

 涙があふれて止まらない。
 声を押し殺し、泣き続ける私の背中を、小森さんはずっと優しく撫でてくれていた。



 そのあと、どうやって家へ帰ったのか記憶がない。
 きっと、小森さんが送り届けてくれたのだろう。

 何も考えられなかった。
 心が張り裂けそうで、息をするのさえつらい。

 あきら……あきら。
 あなたに会いたい。
 でも、あなたはもう会いたくないの?

 私はすべての感情に蓋をするように、そのまま深い眠りへと沈んでいった。