今宵はサイドハウス・ノアで夜会が開かれる。
夏に姿を見せなくなるキャンベル侯爵とその家族が、真夏にパーティーを開くなど前代未聞。さらにはバーンズ伯爵家も揃う夜でもあるため、非常に貴重な日でもある。
サイドハウス・ノアでは朝から準備で人の動きはいつもよりはあったが、念入りに今夜のために準備していたのだ。速やかに、そして的確に会場は整っている。
そして家族内でのアナベルとイーサンの婚約指輪、結婚指輪の披露がある。
よって昼食後、小休憩を挟み、各々身支度へ取り掛かる。
暑さのピークは過ぎたとはいえ、日が沈んでもまだ蒸し暑さが残る。
先に準備を終えたのは男性陣だ。酒を、ではなくお茶を飲みながら書斎で女性たちを待っていた。
順々に女性たちも準備を終わらせ書斎に集まる。残りが二人となったところでレティシアが合流すれば、あとはアナベル1人を待つだけになった。
するとレティシアにアナベルを迎えにいくよう、イーサンは強制的に客間を追い出された。母親の妙に興奮した様子が気になったが、部屋にいてもイーサンがアナベルを待つことには変わりない。
(先に彼女のドレス姿を見れるのは婚約者特権……だよね)
などと不埒な期待を滲ませて、イーサンはアナベルの部屋へと向かう。
廊下にメイドたちの感嘆の声が聞こえてくる。アナベルに非常に好意を持っている彼女たちは夏休みからそれはもう熱烈に構い倒しているが、今日はいつにも増して賑やか。彼女たちの中の良さに、イーサンは微笑む。扉をノックすると途端に静かになった。「どうぞ」とアナベルの少し緊張した声が聞こえてくる。
なんだか不思議な感覚だ。イーサンは部屋に入り──。
そしてアナベルの姿を見て息を呑んだ。
チョコレート色の真っ直ぐな髪は高くゆわれ、真珠の髪飾りと共に輝いており、目元の赤いアイシャドウ。肩スカート部分に細やかな刺繍をあしらったAライン。爽やかなグリーンの生地で、そのドレスは。
(私の瞳のようだ)
今までの夜会のドレスでも、それは彼女を引き立たせて美しかったが、今夜はそれらの比ではない。
目を見開き、惚けるイーサン。頬を赤く染める、いつも優美で涼しい顔を浮かべる彼に、メイドたちは頬を緩むのを耐えている。これは良い場面に巡り合った。内心踊り明かしたいのを我慢して、若い二人の仲を見守る。
「美しいよアナベル。よく、似合ってる。本当に、ほんとうに……」
イーサンの賛辞を、アナベルは頬を染めて喜んだ。その姿はまるで女神が降りてきたようであった。
動きにぎこちなさが出ないよう徹底しながら、イーサンは手を差し出す。少し緊張で震えているその手に、アナベルは己の手を重ね、二人は家族の元へと向かった。
二人が書斎に入れば、真っ先に声を上げたのはアナベルの妹、ミラとエマだ。「きゃー」と甘いハートのマークが付いている、歓喜が上がる。「おぉ……!」とイーサンの従兄弟らの低音も加わり、アナベルとイーサンに絶賛の言葉を贈る。
大人たちはというと、アーニーとレティシア以外は驚きで言葉を失った。イーサンの瞳と同じ色に着飾ったアナベル。皆、アナベルとイーサンの仲はまだ友人から毛が生えた程度だと、認識していたのだ。
無理をしているのではないか。しかし目の前の彼女にはそんな気配はない。すこぶる華やかな笑顔で拍手を送っているアーニーとレティシアもである。
では? これは……つまり? 本当に ?いやいやいや。はしゃぎすぎてはいけない。よく見れば、二人の距離は若干ある。これは一歩進展しただけだ。はしゃぎすぎてはいけない。と思いつつ、徐々に熱は盛り上がっていく。よく似合っているとアナベルに言葉を贈り、顔を真っ赤にするイーサンには黙ってその背中を叩き、言葉にならない熱意を込める。
もうすぐにでもこの二人をお披露目したくてしょうがないが、まずは指輪のお披露目だ。
指輪の入った箱を開ければ、その美しさにため息をつく。イーサンの手の平にアナベルは左手を重ねると、彼は婚約指輪をはめた。アナベルもケースから指輪を取り、イーサンの指へと指輪を通す。美しい指輪がきらり輝く。約束の証。アナベルとイーサンのための、婚約指輪。
今度は大きな拍手の音が、屋敷中に響き渡る。
「おめでとう、イーサン、アナベル」
「おめでとう!」
もう結婚したように祝福の言葉が投げられる。
照れくさくなったイーサンは隣のアナベルに目を向ける。祝福を受けながら嬉しそうに微笑むアナベルに、イーサンの頬はますます赤くなった。
ナルシスがデービッドに目配せすれば、彼は頷いた。時刻はあと五分で十七時を迎える。
「さあ時間だ。皆にとって特別な夜にしようじゃないか」
✴︎
ゴーン、ゴーンとサイドハウス・ノアの大きな時計が十七時を告げる。
始まった始まった。サイドハウス・ノアでの夜会が、喜びの宴が幕が上がる。
楽器から奏でられる賑やかな曲に、多幸感に包まれる食事。目を楽しませる華やかな夜会服、見ていて気持ちよくなるほど乱れぬ使用人たちの動き。あぁ! 流石の侯爵家。急な催しであっても、全て完璧に行き届いた素晴らしい会場だ。
ひときわ人々を惹きつけたのは間違いなく、アナベルとイーサンだ。
婚約解消後数日で婚約を結んだ令嬢と、一生独身で終えると噂になっていた子息の突然の婚約。多くの人々の注目を集めた婚約は、邪な噂がついて回っていた。
実際はどうか。今宵は互いの色を、令嬢に至っては全身を相手に染め上げ、誰よりも楽しそうに過ごしている。普段顔色を変えないイーサン・キャンベルが、頬を赤く染めたままだ。彼らと共に訪れた家族たちも、実に晴れやかだ。
夜会参加者たちは、アナベルとイーサンの婚約は喜ばしいものなのだと認識を改めた。
「改めて。ご婚約おめでとうございます! アナベル先輩、イーサン先輩!」
「ご婚約おめでとう! まぁ素晴らしいいい夜だわ」
若い二人は、多くの人々から祝いの言葉を送られる。アナベルとイーサンの友人──もちろん夏休み中に会った若き画家や画廊の主人、指輪作りに精を出してくれた工房の人々。もちろんビジューとその家族もである──たち、学園の後輩やお世話になった先輩たち。家族の友人らに、会社で働く従業員たちや取引先の方々…実に多くの人々が急な催しにも関わらず今夜サイドハウス・ノアまでやって来た。
それほど多くの関心に、喜びを呼んでいたのだ。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます、本当に」
心からの言葉に、アナベルとイーサンは笑顔で受け取る。特にイーサンなどは頬が緩みっぱなしで、紳士の中の紳士像が破綻している。それをやゆられるのも、実に幸せそうだ。
演奏者の音楽が、舞踏用の曲へと切り替わった。もちろんダンスの時間だ。すると両親たちは2人を会場の中央を示される。
イーサンはアナベルに改めて手を差し出せば、アナベルはその手に己のを重ねる。二人は他の招待客と共に、その曲に体を委ねる。
くるり、くるり。
ようやく夏の間の練習が実を結んだ。一瞬足がもつれかけたが、すぐに姿勢を正す。澄ました顔で輪に戻るが、アナベルとイーサンは胸がくすぐられて、くすりと笑う。次第に我慢できずに漏れて、笑みを咲かせながら曲と、お互いに身を委ねて踊る、回る。
くるり、くるり。
くるり、くるり。
「やあ御機嫌よう。いい顔をしているね。二人とも」
二曲踊り終えたアナベルとイーサンは一度輪から外れた。まだ踊れるが、流石に喉が渇いた。
するとアナベルたちの元に、ドリンクの入ったグラスを持ってノエ男爵がやってきた。シンプルな黒のタキシードに、胸ポケットに刺さるデンファレの花が華やかだ。
アナベルとイーサンは渡されたものはハーブの香りに、細かな氷が浮かぶオリジナルドリンクだ。口に含めば少し塩みを感じた。
いつになく機嫌が良さそうな男爵とは、アナベルもイーサンも久しぶりに顔を合わせた。誘拐から帰宅したアナベルたちをノエは確認しにサイドハウス・ノア立ち寄ると、すぐに彼は帰宅してしまった。
妹の伝言を信じてくれた彼にはきちんと礼を伝えたかったのに。もう一度会えないかと相談すれば、長年彼と付き合いがあるデービッドとレティシアが困ったように、優しく笑う。
『少し気恥ずかしいんだよ。まずは手紙でも送ってあげてくれるかい? そうすれば次はガードが柔らかくなっているはずだからな』
『時間がもう少し経てば必ずお会いしてくれるわ。もう。あの方も、肝心な部分が変わってないわね。ほんと素直じゃない』
苦笑するイーサンにも心当たりがあるようだ。礼を伝えたいのに、不快にさせては本末転倒だ。そこで二人は彼らのアドバイス通りにお礼の手紙を送った。手紙にはイーサンや家族からの言葉も添えられていたため、かなり分厚いものになった。
後日男爵から、皆に八本のガーベラの花束が届いた。
この木は逃せないと、アナベルとイーサンはまず改めて感謝を伝える。彼は肩を竦めてみせた。
「なんともないさ。ほとんど何もしていないし、君がご両親に隠し事せず思い出を共有したおかげで、賢い妹君がチャンスを掴んだんだ」
私は偶然そこにいただけ、と笑う彼に、アナベルは真剣に言葉を返す。
「妹の笑顔が早くに戻ったのは、その言葉を信じてくださり、保養地区まで駆けつけてくださったノエ様のおかげでもあるのです。早くに妹たちもキャンベル家に匿われました。感謝しても仕切れません」
すると彼は逃げるように目線を上に移す。気まずいのか口角の片側が不自然に上がっている。なんとも居心地の悪そうな父親の悪友に、イーサンがふわり笑顔を見せれば、男爵にその頬を摘まれた。
「ノエさん、すなおなきもちなんです。ふへとっていただけないと、こまっちゃいいますよ」
唇を尖られると、彼は胃住まいを正して恭しく、しかし変に目立たぬように頭を少し下げた。
「ならばその感謝、受け取ろう。こちらこそ、この老体が皆様の幸せに役立ったのなら嬉しいものだよ」
そして、アナベルに手を差し出した。「一曲踊っていただけますか?」との誘い文句に、アナベルはイーサンを見れば、彼は笑顔のまま頷いた。パートナーの了承を得たアナベルは、男爵の手を取り、再び踊りの輪に加わった。年の功というべきか、彼との踊りは実に踊りやすく、静かなものだ。
「正直、イーサンと君が婚約したと聞いた時にはらしくなく歓喜したよ。ようやく、とこれで、とね」
その眼差しはアナベルに向けられているのに、だいぶ遠いところを見ている感覚だ。ほの暗さがにじむその瞳は、覚えがある。どこか冷たくも、その奥に燻る何かをたぎらせている強さ。
そうだ、祖父・ヘンリーに似ているのだ。
(ああ、そうか。この人も、なのか)
家族に縁を切られた青年が、何をバネに生きてきたのか。そもそも何が原因で勘当されたのか。独身を貫くと宣言する、その真意は。様々な憶測が飛び回るだけで、はっきりとしないノエ・クメール。この男の本心に触れた、一瞬であっても。アナベルは、ようやく共に踊る人間を知れた気がした。
「おじいさまも、貴方も、私に何を期待されていたのか存じませんが」
男爵は笑みを深めた。目を細め、三日月のよう。邪悪さが混じる笑みは、彼の本心を物語っている。それでもアナベルにとって、男爵はデービッドの親友であり、イーサンの大切な人。祖父を探すことにしたのだ。こうなれば全てを飲み込む覚悟だ。
「彼と一緒になっても、アナベル・バーンズは変わりません。時には脇道に逸れながらも、我が道を進むことになって、あなた方の望みに指がかかろうとも。それは結果でしかありません。それでも良いのであれば、どうぞこれからも、彼とよろしくお願いいたします」
アナベルの揺るぎない瞳に、ノエは瞼を閉じる。
「あぁやはり。君たちはお似合いだよ。ベルナルドなんかに嫁がなくて正解さ」
くるりと回るときに、こちらを見ながら、楽しそうに手を振るイーサンが見えた。
男爵はこの日、最も優しい表情を浮かべる。この未来が見たかった。どうか幸せに、我が悪友の息子よ。そして。
「どうか幸せに。レディ・クロック」
呟かれた祈りの言葉は、若芽を慈しむ春の風の暖かさのようであった。
踊り終え、ノエはアナベルをイーサンの元に送り届ける。ニコニコと機嫌の良いイーサンの頬をもう一度摘むと満足したのか、「ご家族に挨拶をしてくるよ」と言って立ち去った。
痛みの無い、摘まれた頬をさするイーサン。その手を取り、アナベルはバルコニーに誘う。
「ねえイーサン。少し夜風に当たらない?」
✴︎
風は意外にも涼しく感じられた。ベルコニーから見える、まんまるに輝く明かり。
そのベールのように薄く、長く幾重にも重なった光に照らされたアナベルが、一層輝いて見えて、イーサンは目を細めた。
「……アナベル」
「なに?」
月明かりが背中にあたり、振り返る彼女に少し影が落ちる。それでも彼にははっきりと分かる。幾年も焦がれてきた相手なのだから。その控えみに笑う口元も、伏せる目元も。これは紳士的でないか。目を逸らしたくとも、1秒でも離せば後悔するとまっすぐその姿を見つめる。
「今までのもだけど今夜のドレス、本当に似合ってる。さっきはきちんと伝えれなくてすまない」
イーサンは心からの賛辞を贈るも、胸に抱くこの気持ちを全て、きちんと伝える単語を知らない。なんと言っていいか、どう表現すべきか。もっと本や辞書、いや友人たちから学ぶべきであった。
「そんな、きちんと伝えてくれていたわよ。けど、ありがとう」
アナベルは回ってみせた。ふわりとスカートが舞い、彼女の美しい髪やアクセサリーが光を反射させる。イーサンは息を飲んだ。
「今夜のために、急いで仕上げてもらったの。お母様と仕立屋さん様には相当無理をさせてしまったけど……このドレスでよかった」
「仕上げてもらった?」
元々は春用の薄緑のドレスだったのだが、薄紫やピンクを基調にする元婚約・ロベールとは相性が難しかったためになかなか着る機会がなく、押入れに飾るままになっていた一着。機会を見て、いつかは着たいと捨てられずにいたお気に入り。
イーサンとの1着を用意したいが、一からドレスを作るのは時間がかかる。そこでアナベルはこのお気に入りドレスをリメイクしてもらうことにした。母親に手紙を送り、今までアナベルの夜会服を担当してくれた仕立て屋へ、希望書のように仕立て直してもらったのだ。
・あしらいを薄手のものに。
・刺繍には夏の草花を
・何より大切なのは、ドレスの色を”ミントグリーン”に染めること。
イーサン・キャンベルの瞳のような。
それをアーニーに持ってきてもらった。生まれ変わり、より素晴らしくなったドレス。それを着て、アナベルは彼や参加する全ての人間に伝えたかったのだ。時間をかけて、ようやくつかめた答えを。
「これが今の私から伝えられる、貴方への気持ち」
夕闇会でのイーサンとの対話から。そして連れ去られて、彼の元から離れた時間を経て、ずっと考えていた。
家族以外で自身を深く想ってくれる彼に、友達や婚約者といった役割でなく、きちんとアナベルとして気持ちを見つけたいと。
離れていた時間。未来に絶望する中、彼が助けに来てくれると分かった時、イーサンがとても頼もしかった。そのライトグリーンの瞳と、ハーブの爽やかな香りに心の底から安堵した。そして彼が死ぬかもしれないと分かった時、無意識に動いた体。
アナベルにとって、なによりも分かりやすい発見だった。イーサン・キャンベルが、自分にとってどれほど大切な存在か。
そこで踏み込んで確かめたいと思った。かつて、ロベールにしてみたように。彼の色のドレスを見て、どう思うのかと。我ながら卑屈な方法だと思ったが、妙な確信があった。だから急いでドレスを仕立て直してもらった。生まれ変わったドレスを見て、確かなものだと。
彼の瞳と同じ、このドレスを着れる。
それを嬉しいと思う、自分の気持ち。
気持ち悪いとも、不快とも思わない。
間違いなく本心である。
「けど、この気持ちがまだ友愛か、家族愛の果てか。その正体はわかってないの。ごめんなさい」
あまりにもずるいと思うが、アナベルは早急に答えを出したくなかった。
一つずつ確かめて、きちんとひとつずつに彼への気持ちを伝えたいから。
だから今、判明している事を伝える。
「私は貴方の事が、貴方の色に染まってもいいと思えるほど、貴方を好意的に思っているわ。イーサン」
アナベルはゆっくりと歩み寄り、そして、イーサンの手をしっかりと握りしめた。
「謝らないで。気づけたことが素晴らしいんだ」
イーサンはアナベルの告白に、心はふわつき、身体が熱くなっていく。彼は頭を回転させ、落ち着きを払おうとした。これだから父親の友人らに揶揄われ、ビジューからウブすぎると呆れられるのだ。
だが、手を握る温もりはなんだ。彼女の告白には、嘘はなかったように感じた。この熱は、この香りはここに存在する。
だからこれは夢ではない。
好きな人から自分を思う言葉が贈られること。それだけで天にも上がる嬉しさだ。こんなに嬉しいなんて、考えてもなかった。
「嬉しいよ、アナベル。本当に、嬉しくて、幸せだ」
イーサンは手の重ねを変え、彼女のを包み込むと力を込める。手袋越しに感じる愛おしい存在に、嬉しくて涙が溢れそうだ。
「これからもっと好きを見つけていきたい。それに私だけでなく、貴方にも、家族みんなにもっと幸福だと思ってもらいたいわ。義務ではなく、これも心から思ってる」
歓喜で胸がいっぱいになり、言葉に詰まってしまう。イーサンは小刻みに頷くことで、賛同を示す。
「これからも、よろしくねイーサン」
「こ、ちらこそ。よろしくねアナベル。これからも」
鐘の音が聞こえた。二十時を告げるその音は、この先、共に生きてゆく二人にとって、忘れられない時を刻んだ。
夏に姿を見せなくなるキャンベル侯爵とその家族が、真夏にパーティーを開くなど前代未聞。さらにはバーンズ伯爵家も揃う夜でもあるため、非常に貴重な日でもある。
サイドハウス・ノアでは朝から準備で人の動きはいつもよりはあったが、念入りに今夜のために準備していたのだ。速やかに、そして的確に会場は整っている。
そして家族内でのアナベルとイーサンの婚約指輪、結婚指輪の披露がある。
よって昼食後、小休憩を挟み、各々身支度へ取り掛かる。
暑さのピークは過ぎたとはいえ、日が沈んでもまだ蒸し暑さが残る。
先に準備を終えたのは男性陣だ。酒を、ではなくお茶を飲みながら書斎で女性たちを待っていた。
順々に女性たちも準備を終わらせ書斎に集まる。残りが二人となったところでレティシアが合流すれば、あとはアナベル1人を待つだけになった。
するとレティシアにアナベルを迎えにいくよう、イーサンは強制的に客間を追い出された。母親の妙に興奮した様子が気になったが、部屋にいてもイーサンがアナベルを待つことには変わりない。
(先に彼女のドレス姿を見れるのは婚約者特権……だよね)
などと不埒な期待を滲ませて、イーサンはアナベルの部屋へと向かう。
廊下にメイドたちの感嘆の声が聞こえてくる。アナベルに非常に好意を持っている彼女たちは夏休みからそれはもう熱烈に構い倒しているが、今日はいつにも増して賑やか。彼女たちの中の良さに、イーサンは微笑む。扉をノックすると途端に静かになった。「どうぞ」とアナベルの少し緊張した声が聞こえてくる。
なんだか不思議な感覚だ。イーサンは部屋に入り──。
そしてアナベルの姿を見て息を呑んだ。
チョコレート色の真っ直ぐな髪は高くゆわれ、真珠の髪飾りと共に輝いており、目元の赤いアイシャドウ。肩スカート部分に細やかな刺繍をあしらったAライン。爽やかなグリーンの生地で、そのドレスは。
(私の瞳のようだ)
今までの夜会のドレスでも、それは彼女を引き立たせて美しかったが、今夜はそれらの比ではない。
目を見開き、惚けるイーサン。頬を赤く染める、いつも優美で涼しい顔を浮かべる彼に、メイドたちは頬を緩むのを耐えている。これは良い場面に巡り合った。内心踊り明かしたいのを我慢して、若い二人の仲を見守る。
「美しいよアナベル。よく、似合ってる。本当に、ほんとうに……」
イーサンの賛辞を、アナベルは頬を染めて喜んだ。その姿はまるで女神が降りてきたようであった。
動きにぎこちなさが出ないよう徹底しながら、イーサンは手を差し出す。少し緊張で震えているその手に、アナベルは己の手を重ね、二人は家族の元へと向かった。
二人が書斎に入れば、真っ先に声を上げたのはアナベルの妹、ミラとエマだ。「きゃー」と甘いハートのマークが付いている、歓喜が上がる。「おぉ……!」とイーサンの従兄弟らの低音も加わり、アナベルとイーサンに絶賛の言葉を贈る。
大人たちはというと、アーニーとレティシア以外は驚きで言葉を失った。イーサンの瞳と同じ色に着飾ったアナベル。皆、アナベルとイーサンの仲はまだ友人から毛が生えた程度だと、認識していたのだ。
無理をしているのではないか。しかし目の前の彼女にはそんな気配はない。すこぶる華やかな笑顔で拍手を送っているアーニーとレティシアもである。
では? これは……つまり? 本当に ?いやいやいや。はしゃぎすぎてはいけない。よく見れば、二人の距離は若干ある。これは一歩進展しただけだ。はしゃぎすぎてはいけない。と思いつつ、徐々に熱は盛り上がっていく。よく似合っているとアナベルに言葉を贈り、顔を真っ赤にするイーサンには黙ってその背中を叩き、言葉にならない熱意を込める。
もうすぐにでもこの二人をお披露目したくてしょうがないが、まずは指輪のお披露目だ。
指輪の入った箱を開ければ、その美しさにため息をつく。イーサンの手の平にアナベルは左手を重ねると、彼は婚約指輪をはめた。アナベルもケースから指輪を取り、イーサンの指へと指輪を通す。美しい指輪がきらり輝く。約束の証。アナベルとイーサンのための、婚約指輪。
今度は大きな拍手の音が、屋敷中に響き渡る。
「おめでとう、イーサン、アナベル」
「おめでとう!」
もう結婚したように祝福の言葉が投げられる。
照れくさくなったイーサンは隣のアナベルに目を向ける。祝福を受けながら嬉しそうに微笑むアナベルに、イーサンの頬はますます赤くなった。
ナルシスがデービッドに目配せすれば、彼は頷いた。時刻はあと五分で十七時を迎える。
「さあ時間だ。皆にとって特別な夜にしようじゃないか」
✴︎
ゴーン、ゴーンとサイドハウス・ノアの大きな時計が十七時を告げる。
始まった始まった。サイドハウス・ノアでの夜会が、喜びの宴が幕が上がる。
楽器から奏でられる賑やかな曲に、多幸感に包まれる食事。目を楽しませる華やかな夜会服、見ていて気持ちよくなるほど乱れぬ使用人たちの動き。あぁ! 流石の侯爵家。急な催しであっても、全て完璧に行き届いた素晴らしい会場だ。
ひときわ人々を惹きつけたのは間違いなく、アナベルとイーサンだ。
婚約解消後数日で婚約を結んだ令嬢と、一生独身で終えると噂になっていた子息の突然の婚約。多くの人々の注目を集めた婚約は、邪な噂がついて回っていた。
実際はどうか。今宵は互いの色を、令嬢に至っては全身を相手に染め上げ、誰よりも楽しそうに過ごしている。普段顔色を変えないイーサン・キャンベルが、頬を赤く染めたままだ。彼らと共に訪れた家族たちも、実に晴れやかだ。
夜会参加者たちは、アナベルとイーサンの婚約は喜ばしいものなのだと認識を改めた。
「改めて。ご婚約おめでとうございます! アナベル先輩、イーサン先輩!」
「ご婚約おめでとう! まぁ素晴らしいいい夜だわ」
若い二人は、多くの人々から祝いの言葉を送られる。アナベルとイーサンの友人──もちろん夏休み中に会った若き画家や画廊の主人、指輪作りに精を出してくれた工房の人々。もちろんビジューとその家族もである──たち、学園の後輩やお世話になった先輩たち。家族の友人らに、会社で働く従業員たちや取引先の方々…実に多くの人々が急な催しにも関わらず今夜サイドハウス・ノアまでやって来た。
それほど多くの関心に、喜びを呼んでいたのだ。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます、本当に」
心からの言葉に、アナベルとイーサンは笑顔で受け取る。特にイーサンなどは頬が緩みっぱなしで、紳士の中の紳士像が破綻している。それをやゆられるのも、実に幸せそうだ。
演奏者の音楽が、舞踏用の曲へと切り替わった。もちろんダンスの時間だ。すると両親たちは2人を会場の中央を示される。
イーサンはアナベルに改めて手を差し出せば、アナベルはその手に己のを重ねる。二人は他の招待客と共に、その曲に体を委ねる。
くるり、くるり。
ようやく夏の間の練習が実を結んだ。一瞬足がもつれかけたが、すぐに姿勢を正す。澄ました顔で輪に戻るが、アナベルとイーサンは胸がくすぐられて、くすりと笑う。次第に我慢できずに漏れて、笑みを咲かせながら曲と、お互いに身を委ねて踊る、回る。
くるり、くるり。
くるり、くるり。
「やあ御機嫌よう。いい顔をしているね。二人とも」
二曲踊り終えたアナベルとイーサンは一度輪から外れた。まだ踊れるが、流石に喉が渇いた。
するとアナベルたちの元に、ドリンクの入ったグラスを持ってノエ男爵がやってきた。シンプルな黒のタキシードに、胸ポケットに刺さるデンファレの花が華やかだ。
アナベルとイーサンは渡されたものはハーブの香りに、細かな氷が浮かぶオリジナルドリンクだ。口に含めば少し塩みを感じた。
いつになく機嫌が良さそうな男爵とは、アナベルもイーサンも久しぶりに顔を合わせた。誘拐から帰宅したアナベルたちをノエは確認しにサイドハウス・ノア立ち寄ると、すぐに彼は帰宅してしまった。
妹の伝言を信じてくれた彼にはきちんと礼を伝えたかったのに。もう一度会えないかと相談すれば、長年彼と付き合いがあるデービッドとレティシアが困ったように、優しく笑う。
『少し気恥ずかしいんだよ。まずは手紙でも送ってあげてくれるかい? そうすれば次はガードが柔らかくなっているはずだからな』
『時間がもう少し経てば必ずお会いしてくれるわ。もう。あの方も、肝心な部分が変わってないわね。ほんと素直じゃない』
苦笑するイーサンにも心当たりがあるようだ。礼を伝えたいのに、不快にさせては本末転倒だ。そこで二人は彼らのアドバイス通りにお礼の手紙を送った。手紙にはイーサンや家族からの言葉も添えられていたため、かなり分厚いものになった。
後日男爵から、皆に八本のガーベラの花束が届いた。
この木は逃せないと、アナベルとイーサンはまず改めて感謝を伝える。彼は肩を竦めてみせた。
「なんともないさ。ほとんど何もしていないし、君がご両親に隠し事せず思い出を共有したおかげで、賢い妹君がチャンスを掴んだんだ」
私は偶然そこにいただけ、と笑う彼に、アナベルは真剣に言葉を返す。
「妹の笑顔が早くに戻ったのは、その言葉を信じてくださり、保養地区まで駆けつけてくださったノエ様のおかげでもあるのです。早くに妹たちもキャンベル家に匿われました。感謝しても仕切れません」
すると彼は逃げるように目線を上に移す。気まずいのか口角の片側が不自然に上がっている。なんとも居心地の悪そうな父親の悪友に、イーサンがふわり笑顔を見せれば、男爵にその頬を摘まれた。
「ノエさん、すなおなきもちなんです。ふへとっていただけないと、こまっちゃいいますよ」
唇を尖られると、彼は胃住まいを正して恭しく、しかし変に目立たぬように頭を少し下げた。
「ならばその感謝、受け取ろう。こちらこそ、この老体が皆様の幸せに役立ったのなら嬉しいものだよ」
そして、アナベルに手を差し出した。「一曲踊っていただけますか?」との誘い文句に、アナベルはイーサンを見れば、彼は笑顔のまま頷いた。パートナーの了承を得たアナベルは、男爵の手を取り、再び踊りの輪に加わった。年の功というべきか、彼との踊りは実に踊りやすく、静かなものだ。
「正直、イーサンと君が婚約したと聞いた時にはらしくなく歓喜したよ。ようやく、とこれで、とね」
その眼差しはアナベルに向けられているのに、だいぶ遠いところを見ている感覚だ。ほの暗さがにじむその瞳は、覚えがある。どこか冷たくも、その奥に燻る何かをたぎらせている強さ。
そうだ、祖父・ヘンリーに似ているのだ。
(ああ、そうか。この人も、なのか)
家族に縁を切られた青年が、何をバネに生きてきたのか。そもそも何が原因で勘当されたのか。独身を貫くと宣言する、その真意は。様々な憶測が飛び回るだけで、はっきりとしないノエ・クメール。この男の本心に触れた、一瞬であっても。アナベルは、ようやく共に踊る人間を知れた気がした。
「おじいさまも、貴方も、私に何を期待されていたのか存じませんが」
男爵は笑みを深めた。目を細め、三日月のよう。邪悪さが混じる笑みは、彼の本心を物語っている。それでもアナベルにとって、男爵はデービッドの親友であり、イーサンの大切な人。祖父を探すことにしたのだ。こうなれば全てを飲み込む覚悟だ。
「彼と一緒になっても、アナベル・バーンズは変わりません。時には脇道に逸れながらも、我が道を進むことになって、あなた方の望みに指がかかろうとも。それは結果でしかありません。それでも良いのであれば、どうぞこれからも、彼とよろしくお願いいたします」
アナベルの揺るぎない瞳に、ノエは瞼を閉じる。
「あぁやはり。君たちはお似合いだよ。ベルナルドなんかに嫁がなくて正解さ」
くるりと回るときに、こちらを見ながら、楽しそうに手を振るイーサンが見えた。
男爵はこの日、最も優しい表情を浮かべる。この未来が見たかった。どうか幸せに、我が悪友の息子よ。そして。
「どうか幸せに。レディ・クロック」
呟かれた祈りの言葉は、若芽を慈しむ春の風の暖かさのようであった。
踊り終え、ノエはアナベルをイーサンの元に送り届ける。ニコニコと機嫌の良いイーサンの頬をもう一度摘むと満足したのか、「ご家族に挨拶をしてくるよ」と言って立ち去った。
痛みの無い、摘まれた頬をさするイーサン。その手を取り、アナベルはバルコニーに誘う。
「ねえイーサン。少し夜風に当たらない?」
✴︎
風は意外にも涼しく感じられた。ベルコニーから見える、まんまるに輝く明かり。
そのベールのように薄く、長く幾重にも重なった光に照らされたアナベルが、一層輝いて見えて、イーサンは目を細めた。
「……アナベル」
「なに?」
月明かりが背中にあたり、振り返る彼女に少し影が落ちる。それでも彼にははっきりと分かる。幾年も焦がれてきた相手なのだから。その控えみに笑う口元も、伏せる目元も。これは紳士的でないか。目を逸らしたくとも、1秒でも離せば後悔するとまっすぐその姿を見つめる。
「今までのもだけど今夜のドレス、本当に似合ってる。さっきはきちんと伝えれなくてすまない」
イーサンは心からの賛辞を贈るも、胸に抱くこの気持ちを全て、きちんと伝える単語を知らない。なんと言っていいか、どう表現すべきか。もっと本や辞書、いや友人たちから学ぶべきであった。
「そんな、きちんと伝えてくれていたわよ。けど、ありがとう」
アナベルは回ってみせた。ふわりとスカートが舞い、彼女の美しい髪やアクセサリーが光を反射させる。イーサンは息を飲んだ。
「今夜のために、急いで仕上げてもらったの。お母様と仕立屋さん様には相当無理をさせてしまったけど……このドレスでよかった」
「仕上げてもらった?」
元々は春用の薄緑のドレスだったのだが、薄紫やピンクを基調にする元婚約・ロベールとは相性が難しかったためになかなか着る機会がなく、押入れに飾るままになっていた一着。機会を見て、いつかは着たいと捨てられずにいたお気に入り。
イーサンとの1着を用意したいが、一からドレスを作るのは時間がかかる。そこでアナベルはこのお気に入りドレスをリメイクしてもらうことにした。母親に手紙を送り、今までアナベルの夜会服を担当してくれた仕立て屋へ、希望書のように仕立て直してもらったのだ。
・あしらいを薄手のものに。
・刺繍には夏の草花を
・何より大切なのは、ドレスの色を”ミントグリーン”に染めること。
イーサン・キャンベルの瞳のような。
それをアーニーに持ってきてもらった。生まれ変わり、より素晴らしくなったドレス。それを着て、アナベルは彼や参加する全ての人間に伝えたかったのだ。時間をかけて、ようやくつかめた答えを。
「これが今の私から伝えられる、貴方への気持ち」
夕闇会でのイーサンとの対話から。そして連れ去られて、彼の元から離れた時間を経て、ずっと考えていた。
家族以外で自身を深く想ってくれる彼に、友達や婚約者といった役割でなく、きちんとアナベルとして気持ちを見つけたいと。
離れていた時間。未来に絶望する中、彼が助けに来てくれると分かった時、イーサンがとても頼もしかった。そのライトグリーンの瞳と、ハーブの爽やかな香りに心の底から安堵した。そして彼が死ぬかもしれないと分かった時、無意識に動いた体。
アナベルにとって、なによりも分かりやすい発見だった。イーサン・キャンベルが、自分にとってどれほど大切な存在か。
そこで踏み込んで確かめたいと思った。かつて、ロベールにしてみたように。彼の色のドレスを見て、どう思うのかと。我ながら卑屈な方法だと思ったが、妙な確信があった。だから急いでドレスを仕立て直してもらった。生まれ変わったドレスを見て、確かなものだと。
彼の瞳と同じ、このドレスを着れる。
それを嬉しいと思う、自分の気持ち。
気持ち悪いとも、不快とも思わない。
間違いなく本心である。
「けど、この気持ちがまだ友愛か、家族愛の果てか。その正体はわかってないの。ごめんなさい」
あまりにもずるいと思うが、アナベルは早急に答えを出したくなかった。
一つずつ確かめて、きちんとひとつずつに彼への気持ちを伝えたいから。
だから今、判明している事を伝える。
「私は貴方の事が、貴方の色に染まってもいいと思えるほど、貴方を好意的に思っているわ。イーサン」
アナベルはゆっくりと歩み寄り、そして、イーサンの手をしっかりと握りしめた。
「謝らないで。気づけたことが素晴らしいんだ」
イーサンはアナベルの告白に、心はふわつき、身体が熱くなっていく。彼は頭を回転させ、落ち着きを払おうとした。これだから父親の友人らに揶揄われ、ビジューからウブすぎると呆れられるのだ。
だが、手を握る温もりはなんだ。彼女の告白には、嘘はなかったように感じた。この熱は、この香りはここに存在する。
だからこれは夢ではない。
好きな人から自分を思う言葉が贈られること。それだけで天にも上がる嬉しさだ。こんなに嬉しいなんて、考えてもなかった。
「嬉しいよ、アナベル。本当に、嬉しくて、幸せだ」
イーサンは手の重ねを変え、彼女のを包み込むと力を込める。手袋越しに感じる愛おしい存在に、嬉しくて涙が溢れそうだ。
「これからもっと好きを見つけていきたい。それに私だけでなく、貴方にも、家族みんなにもっと幸福だと思ってもらいたいわ。義務ではなく、これも心から思ってる」
歓喜で胸がいっぱいになり、言葉に詰まってしまう。イーサンは小刻みに頷くことで、賛同を示す。
「これからも、よろしくねイーサン」
「こ、ちらこそ。よろしくねアナベル。これからも」
鐘の音が聞こえた。二十時を告げるその音は、この先、共に生きてゆく二人にとって、忘れられない時を刻んだ。

