イーサンは眩しさを感じ、意識を浮上させる。
窓から鳥がさえずる音が聞こえてくる。朝が来たのだ。起きなければならない。
イーサンは体に力を入れようとしても泥を纏っているように重く、頭の働きはさらに鈍い。瞼を開けるのも億劫であった。
(久しぶりに体が言うことを聞かない)
イーサンは眉を顰め、己の弱さを呪う。アナベル誘拐事件の疲れが、ここにきて顕著に現れてしまった。自分が動いたのは夜だけであったのに、情けない。起きなければ、アナベルや両親たち皆んなが気を揉んでしまう。
ふと、何かが髪を撫でている感覚に気がついた。手足に入れていた力を、瞼に集中する。開けると、すぐ隣でアナベルが本を読む姿があった。彼女は片方の手で本を支え、また片方でイーサンの髪を撫でている。
(……ゆめ?)
または幻か。窓から差し込む光は丁度、アナベルに影を落としている。寝ぼけ頭では理解が追いつかない。瞬きを繰り返していると、彼女と目があった、ような気がした。落ちる影の中で少し驚いた表情を浮かべたようで、イーサンに優しく声をかける。
「イーサン、起きる?」
影は本を閉じると、イーサンに顔を近づけた。想い人の顔が身近にあるのは心臓に悪い。おかげで眠気はすっかり吹き飛んだが。
イーサンは1つ頷くと、ゆっくりと体を起こすとベッドの上で姿勢を正した。
そうすればよく顔がわかる。目の前にいる女性は、間違いなく想い人アナベルだ。
「おはようイーサン」
「……おはようアナベル」
なんでこの部屋に? 疑問を解消したいが、初めての事で言い方が分からない。イーサンは言葉を揉む。そわそわと体を揺らし、悩む彼の姿にアナベルは合点がいったようだ。彼女自ら説明を始めてくれた。
「貴方がなかなか起きないと聞いたから、どんな様子か気になったのよ」
誘拐され屋敷に戻ってからの一日間、アナベルたちは屋敷でゆったりと休息をとっていた。
アナベルは料理を堪能した後、一日たっぷり寝て過ごせば、すばらしく元気を取り戻した。
溜めていた課題と向き合い、使用人たちの仕事に混ぜてもらっていた。そうするとキャンベル家のことがより分かり、新しく色んなことを教えてもらっていた。いや本当に、見習いたいほど元気な娘である。
イーサンも無理のない範囲で、混ぜてもらっていた。年々体は頑丈となってはいるが、五日間の気が張った状態に短時間でも体をこき使ったのが、じっくりと疲労へと変わった。
そして今朝、ベットから微動だにしない、とアイザックから話があったのだ。
様子が気になったアナベルは、イーサンの部屋に向かった。開いたままの扉から、彼の部屋を覗けば報告どおり。寝巻き姿のままベッドの端に座り、全く動こうとしないイーサン。顔も下を向き、髪は乱れたままであった。
アナベルは不安になって、彼に近づいた。初めて入る彼の部屋から、すっと心落ち着くハーブの香りがした。
気配に気づいたのか、彼は顔をアナベルに向けた。いつもの澄ました顔はどこかにいき、目はつぶったまま、整った眉が潜められ、口はモニョモニョと動いている。まだ眠いと訴えてくるような顔を見て、アナベルは思わずくすりと笑ってしまった。
ひどく顔色を悪くしていたらどうしようかと思っていたので、彼女は少し安心した。
「……あな、べる?」
「ええ、イーサン。私よ」
アナベルはそばに寄る。すると彼はアナベルに手を伸ばしてきた。彼女は何も考えずに、彼の手をとった。
「おきるよ、おきる……」
イーサンは手をそっと包み込むと、そのまま眠ってしまったのだ。
アナベルとしては手を握ったままでも良かったのだが、隣に人がいてはゆっくり休めないだろう。どうにか解けないかと緩やかに力を入れてみるが、アナベルの手を握るイーサンの手は意外にもしっかりしている。なんとか解くも、次はスカートのリボンの端を掴んでしまった上に、身体を横にしてしまった。
どうしようかと考えあぐねていると、聞いているだけで心地良い寝息が聞こえてきて、アナベルは諦めることにした。空いているスペースに腰を下ろして、彼が起きるのを待つことにした。
結婚すればいくらでも記憶に残るに違いないが、アナベルは真剣に、じっとその寝顔を眺める。
(……ひげ)
イーサンの口元に、まばらに短く細い毛が生えていた。初めて見たイーサンの髭に、アナベルは指を伸ばす。指先にやわらかな肌と、なんとなく毛の感覚がある。
長くて細いまつ毛、筋の通った鼻。白い肌に、ほんのり桃色に染まっている頬。対比のように真っ黒な髪が引き立つ。
あどけなく眠る彼の顔をじっと眺めていると、ソフィアが膝掛けと読みかけの小説を持ってきてくれた。
本を読み、雑談を交わし、時々イーサンを愛でながら、起きるのをのんびりと待っていた。
話を聞き、イーサンは頭を抱える。己の所業に、俯く顔からは恥ずかしくて顔から火がでそうである。若干湯気が出ているように見えなくもない。
「起きたなら、もうリボンを離してあげなさいな」
アナベルに気を取られ、部屋にもう1人いると全く気づかなかった。声がした方を見れば、イーサンの母、レティシアがソファに座っていた。優雅にハーブティーを飲んでいる。料理人が調合した爽やかな香りが漂っているにも関わらず、アナベルに気を取られすぎて、気付かなかった。
「いたのですか」
「いましたわよ。息子が結婚前の娘をベットから離さないと聞いたから。一応監視役としてね」
レティシアは息子のことは信じているし、また交際について完全な潔癖症ではない。婚約者と仲を深めることは絶対であり、責任を果たすなら婚前交渉も「よし!」と考えている。
そう、あくまで、責任を果たす、が絶対前提の「よし!」だ。アナベルと息子は最近友人から婚約関係となったばかり。まだ気持ちも整っていない。万が一が起こらないよう彼女も部屋にいたのだ。大切で大事な娘に嫌な思いをさせたくない。無粋、過保護と言われようと過ちが防げるならそれが最高だ。
結果的に、久しぶりにアナベルとゆっくり話せ、息子を慈しむ彼女の姿を見れたのは大変幸せな時間を過ごせた。
「いいかた……」
母親の物言いに、イーサンは力なく項垂れた。
「ほら、シワがひどくなるから」
母親に言われて、ようやく手の中にあるリボンを認知した。アナベルに言われていたのに、この瞬間まで分かっていなかった。リボンには、シワがくっきりついていた。慌てて離すも、可愛そうなほどよれよれになっている。そんな情けない姿にしてしまったことに申し訳なく思い、イーサンは皺を伸ばす。
「ふ、ふふ」
そんな様子のイーサンの髪を、アナベルは撫でる。子供を撫でる優しい手つき。柔らかくかかる手の感覚に、イーサンは頬に熱が集まっていくのが自分でも分かった。
照れていると、扉がノックされる軽い音がする。アイザックだ。部屋から賑やかな声が聞こえ、主人が起床したのだと確信した。彼に起きるか確認され、起きて朝食を取るとイーサンは答えた。
ゆっくり休んだらどうかとアナベルに心配されるも、重なる衝撃で目はしっかりと覚めた。あとは眠くなったら寝るだけだ。
「疲れたら、休むことにするよ」
「わかったわ。ところで…イーサンって寝る時も香水をつけているの?」
「いや、寝る前はつけないけど。染み付いてるのかな」
イーサンは思わず服の匂いを確認する。洗剤の匂いがするだけで、いつも身につけている香水の香りはしてこない。
「ううん。ただ少し、気になっただけ。……安心する香りだから」
ぐっ。
トキメキに心臓を鷲掴まれた。押さえると無駄に心配させてしまうと、伸びかかった腕に必死に力を込める。
「そう、か。よかった。なら今度プレゼントするよ」
「ありがとう。…けど、いいわ。それは貴方の香りだもの。私じゃ多分同じ感覚にはならないと思うから」
「そっか」
起きてから凄いことばかりが起きている。今抱く感覚は、正しいのだろうか。イーサンは浮かれてしまいそうな感情を必死に耐える。
視界の端で母親が必死に無表情でいようと耐えているのが分かったが、彼は気のせいだと見ないことにした。
「今日は温室をよく見せていただく予定なの」
「分かった。じゃあ着替えたらそっちに行くよ」
「ええ。後でねイーサン」
「待ってるわ〜。さ、いきましょアナベル」
アナベルがベッドから降りると、レティシアも立ち上がる。その時には元の表情に戻っていたのは流石の一言に尽きる。
母親と婚約者は仲良く、イーサンの部屋から出ていった。
扉が閉められ、改めてイーサンは顔を覆った。じくじくと全身が熱い。絶対顔が赤くなっている。今は確かめる術はないが、そう確信できる。
「ご結婚されたらどうするのです? 毎朝顔を真っ赤にする気ですか?」
「………まさかお部屋を分けられるのですか? まぁ……それも一つ、なのでしょうか?」
アイザックとレイモンドに揶揄されるどころか、真面目に心配されてしまった。今後もう少し平常心を保てるように訓練をしなければならないと、イーサンはひっそり心を決める。急に変わっても気持ち悪いかもしれないため、少しずつ。
シワのない肌こごち良いシャツとパンツに身を包み、身だしなみを整えた彼は温室へと向かう。
温室にはアナベルとレティシアが言っていた通りに、植物を前に色々と話していた。
サイドハウス・ノアに住んでいた頃はレティシアが植物を育て、中央へ移動してからはポーラが、また庭師たちが面倒を見ている。月に1度は必ずレティシアかイーサンが訪れている。
一年中葉をつける植物と、季節の花々が育っている。夏の光のように鮮やかな色で賑やかだ。本当は魔法系の植物も育ててみたいのだが、どうしてもうまくいかない。レティシアがため息をついた。
着替えたイーサンが、席につく。既に昼近いため、アナベルとレティシアもランチである。
アイザックたちは早速料理を並べ始める。メニューは卵黄をたっぷりつけたフレンチトーストに、フルーツ、トマトスープ、サラダだ。
良い香りに腹が鳴く。
姿が見当たらない父親の行方を聞けば、今はまだ寝ているのだとか。どうやら夜中にどこかへ出掛けていたらしい。
「どこかに釘でも刺しに行ったんでしょ」
メープルシロップをかけたトーストを、レティシアが口へ運ぶ。ふわりとバターの香りに、香ばしいシロップとのハーモニーに彼女は頬を緩ませる。
「昔から身内へ攻撃する人には容赦ないから。何を掴んだか知らないけどね。現状私たちには知らせないでしょうけど、言ってほしいわ!」
プスンプスン。彼女の頭上に湯気が見えるようだ。美味しいものを食べて若干勢いは削がれてしまっているが、その怒りは本物のようだ。
レティシアの怒りに、アナベルも少し悩み、賛同する。
「そう、ですね。私も言って欲しいです」
「ほぉら! 気遣いは嬉しいけど、巻き込んで欲しいわよねぇ。イーサン気をつけなさいよ。私は後で詰めましょ」
「き、気をつけます」
レティシアは宣言通り、午後に起きたデービッドに何をしといたのか話してくれるまで、レティシアはひっついていたのだとか。
詰めるなど話していたが、ただいちゃついているだけだ。イーサンは両親の仲の良さに眩暈がした。だいぶ慣れてきたアナベルも直視するのは憚られて、おしどり夫婦を横目に二人は課題の最終確認をしていた。
全て終わっているのを確認できた。手を合わせて喜び合う。
明日から課題の心配がない。対して重みを感じていなかったが、解放された気分になる。
「レポートのテーマは何にしたんだい?」
「この土地の歴史と建築構造の因果」
ギャラリーと今回の誘拐で、非常に役に立った知識。もっと深く知りたいと興味を持ったのは必然と言える。キャンベル家や図書館にもたくさん資料があり、レポートに纏めるには苦労がなかった。
実はもう一つテーマを考えていたのだが、図面や挿絵も用意したりとより時間がかかるため夏の提出は断念した。最後まで仕上げるとは決めたため、出来上がったら読んでくれるかとイーサンに願えば、彼は笑顔で快諾した。
アナベルはイーサンを誘い、温室から馬小屋へと移動した。
サイドハウス・ノアで今飼育されているのは4匹。アナベルを認めると、彼らは一斉に嬉しそうに嘶いた。アナベルが動物園以降、足を運んでいる場所だ。ここ数日は毎日顔を出しており、機嫌も良いのだと馬の世話をしているローガンは笑っている。
イーサンも訪れると、少し落ち着きを取り戻すのが不思議である。アナベルは額を撫でてやれば、興奮は戻るのだが。
一匹に顔を近づけられ、イーサンも撫でてやる。きっちり手入れの行き届いた毛はつるりと気持ちがいい。
「ねぇ、イーサン。明日……よりも明後日がいいかしらね。朝、よかったら一緒に散歩に行かない?その、彼らに乗って」
「……! もちろんだよ!折角なら、やっぱり明日がいいな。どうかな」
初めてのアナベルからの誘いだ。
不安げな表情を浮かべるアナベルに、イーサンは前のめりに誘いに乗る。
「少しでも具合悪かったら延期にしてもらうから。きちんと言うよ」
「えぇ。絶対に、ね」
絶対に、と念押するアナベルに、イーサンはしっかりと頷いた。
明日はよろしくと、馬四匹を撫でて、二人は屋敷へと戻る。
すると夫から何か引き出したのか、それとも引っ付いて満足したのか、満足したレティシアが出迎えた。
「二人に話したいことがあるのだけど」
改めて温室へと戻り、レティシアとデービッドからの相談された内容は、驚くものであった。それに呼応するように、空に浮かぶ一番星がキラリと瞬いた。
窓から鳥がさえずる音が聞こえてくる。朝が来たのだ。起きなければならない。
イーサンは体に力を入れようとしても泥を纏っているように重く、頭の働きはさらに鈍い。瞼を開けるのも億劫であった。
(久しぶりに体が言うことを聞かない)
イーサンは眉を顰め、己の弱さを呪う。アナベル誘拐事件の疲れが、ここにきて顕著に現れてしまった。自分が動いたのは夜だけであったのに、情けない。起きなければ、アナベルや両親たち皆んなが気を揉んでしまう。
ふと、何かが髪を撫でている感覚に気がついた。手足に入れていた力を、瞼に集中する。開けると、すぐ隣でアナベルが本を読む姿があった。彼女は片方の手で本を支え、また片方でイーサンの髪を撫でている。
(……ゆめ?)
または幻か。窓から差し込む光は丁度、アナベルに影を落としている。寝ぼけ頭では理解が追いつかない。瞬きを繰り返していると、彼女と目があった、ような気がした。落ちる影の中で少し驚いた表情を浮かべたようで、イーサンに優しく声をかける。
「イーサン、起きる?」
影は本を閉じると、イーサンに顔を近づけた。想い人の顔が身近にあるのは心臓に悪い。おかげで眠気はすっかり吹き飛んだが。
イーサンは1つ頷くと、ゆっくりと体を起こすとベッドの上で姿勢を正した。
そうすればよく顔がわかる。目の前にいる女性は、間違いなく想い人アナベルだ。
「おはようイーサン」
「……おはようアナベル」
なんでこの部屋に? 疑問を解消したいが、初めての事で言い方が分からない。イーサンは言葉を揉む。そわそわと体を揺らし、悩む彼の姿にアナベルは合点がいったようだ。彼女自ら説明を始めてくれた。
「貴方がなかなか起きないと聞いたから、どんな様子か気になったのよ」
誘拐され屋敷に戻ってからの一日間、アナベルたちは屋敷でゆったりと休息をとっていた。
アナベルは料理を堪能した後、一日たっぷり寝て過ごせば、すばらしく元気を取り戻した。
溜めていた課題と向き合い、使用人たちの仕事に混ぜてもらっていた。そうするとキャンベル家のことがより分かり、新しく色んなことを教えてもらっていた。いや本当に、見習いたいほど元気な娘である。
イーサンも無理のない範囲で、混ぜてもらっていた。年々体は頑丈となってはいるが、五日間の気が張った状態に短時間でも体をこき使ったのが、じっくりと疲労へと変わった。
そして今朝、ベットから微動だにしない、とアイザックから話があったのだ。
様子が気になったアナベルは、イーサンの部屋に向かった。開いたままの扉から、彼の部屋を覗けば報告どおり。寝巻き姿のままベッドの端に座り、全く動こうとしないイーサン。顔も下を向き、髪は乱れたままであった。
アナベルは不安になって、彼に近づいた。初めて入る彼の部屋から、すっと心落ち着くハーブの香りがした。
気配に気づいたのか、彼は顔をアナベルに向けた。いつもの澄ました顔はどこかにいき、目はつぶったまま、整った眉が潜められ、口はモニョモニョと動いている。まだ眠いと訴えてくるような顔を見て、アナベルは思わずくすりと笑ってしまった。
ひどく顔色を悪くしていたらどうしようかと思っていたので、彼女は少し安心した。
「……あな、べる?」
「ええ、イーサン。私よ」
アナベルはそばに寄る。すると彼はアナベルに手を伸ばしてきた。彼女は何も考えずに、彼の手をとった。
「おきるよ、おきる……」
イーサンは手をそっと包み込むと、そのまま眠ってしまったのだ。
アナベルとしては手を握ったままでも良かったのだが、隣に人がいてはゆっくり休めないだろう。どうにか解けないかと緩やかに力を入れてみるが、アナベルの手を握るイーサンの手は意外にもしっかりしている。なんとか解くも、次はスカートのリボンの端を掴んでしまった上に、身体を横にしてしまった。
どうしようかと考えあぐねていると、聞いているだけで心地良い寝息が聞こえてきて、アナベルは諦めることにした。空いているスペースに腰を下ろして、彼が起きるのを待つことにした。
結婚すればいくらでも記憶に残るに違いないが、アナベルは真剣に、じっとその寝顔を眺める。
(……ひげ)
イーサンの口元に、まばらに短く細い毛が生えていた。初めて見たイーサンの髭に、アナベルは指を伸ばす。指先にやわらかな肌と、なんとなく毛の感覚がある。
長くて細いまつ毛、筋の通った鼻。白い肌に、ほんのり桃色に染まっている頬。対比のように真っ黒な髪が引き立つ。
あどけなく眠る彼の顔をじっと眺めていると、ソフィアが膝掛けと読みかけの小説を持ってきてくれた。
本を読み、雑談を交わし、時々イーサンを愛でながら、起きるのをのんびりと待っていた。
話を聞き、イーサンは頭を抱える。己の所業に、俯く顔からは恥ずかしくて顔から火がでそうである。若干湯気が出ているように見えなくもない。
「起きたなら、もうリボンを離してあげなさいな」
アナベルに気を取られ、部屋にもう1人いると全く気づかなかった。声がした方を見れば、イーサンの母、レティシアがソファに座っていた。優雅にハーブティーを飲んでいる。料理人が調合した爽やかな香りが漂っているにも関わらず、アナベルに気を取られすぎて、気付かなかった。
「いたのですか」
「いましたわよ。息子が結婚前の娘をベットから離さないと聞いたから。一応監視役としてね」
レティシアは息子のことは信じているし、また交際について完全な潔癖症ではない。婚約者と仲を深めることは絶対であり、責任を果たすなら婚前交渉も「よし!」と考えている。
そう、あくまで、責任を果たす、が絶対前提の「よし!」だ。アナベルと息子は最近友人から婚約関係となったばかり。まだ気持ちも整っていない。万が一が起こらないよう彼女も部屋にいたのだ。大切で大事な娘に嫌な思いをさせたくない。無粋、過保護と言われようと過ちが防げるならそれが最高だ。
結果的に、久しぶりにアナベルとゆっくり話せ、息子を慈しむ彼女の姿を見れたのは大変幸せな時間を過ごせた。
「いいかた……」
母親の物言いに、イーサンは力なく項垂れた。
「ほら、シワがひどくなるから」
母親に言われて、ようやく手の中にあるリボンを認知した。アナベルに言われていたのに、この瞬間まで分かっていなかった。リボンには、シワがくっきりついていた。慌てて離すも、可愛そうなほどよれよれになっている。そんな情けない姿にしてしまったことに申し訳なく思い、イーサンは皺を伸ばす。
「ふ、ふふ」
そんな様子のイーサンの髪を、アナベルは撫でる。子供を撫でる優しい手つき。柔らかくかかる手の感覚に、イーサンは頬に熱が集まっていくのが自分でも分かった。
照れていると、扉がノックされる軽い音がする。アイザックだ。部屋から賑やかな声が聞こえ、主人が起床したのだと確信した。彼に起きるか確認され、起きて朝食を取るとイーサンは答えた。
ゆっくり休んだらどうかとアナベルに心配されるも、重なる衝撃で目はしっかりと覚めた。あとは眠くなったら寝るだけだ。
「疲れたら、休むことにするよ」
「わかったわ。ところで…イーサンって寝る時も香水をつけているの?」
「いや、寝る前はつけないけど。染み付いてるのかな」
イーサンは思わず服の匂いを確認する。洗剤の匂いがするだけで、いつも身につけている香水の香りはしてこない。
「ううん。ただ少し、気になっただけ。……安心する香りだから」
ぐっ。
トキメキに心臓を鷲掴まれた。押さえると無駄に心配させてしまうと、伸びかかった腕に必死に力を込める。
「そう、か。よかった。なら今度プレゼントするよ」
「ありがとう。…けど、いいわ。それは貴方の香りだもの。私じゃ多分同じ感覚にはならないと思うから」
「そっか」
起きてから凄いことばかりが起きている。今抱く感覚は、正しいのだろうか。イーサンは浮かれてしまいそうな感情を必死に耐える。
視界の端で母親が必死に無表情でいようと耐えているのが分かったが、彼は気のせいだと見ないことにした。
「今日は温室をよく見せていただく予定なの」
「分かった。じゃあ着替えたらそっちに行くよ」
「ええ。後でねイーサン」
「待ってるわ〜。さ、いきましょアナベル」
アナベルがベッドから降りると、レティシアも立ち上がる。その時には元の表情に戻っていたのは流石の一言に尽きる。
母親と婚約者は仲良く、イーサンの部屋から出ていった。
扉が閉められ、改めてイーサンは顔を覆った。じくじくと全身が熱い。絶対顔が赤くなっている。今は確かめる術はないが、そう確信できる。
「ご結婚されたらどうするのです? 毎朝顔を真っ赤にする気ですか?」
「………まさかお部屋を分けられるのですか? まぁ……それも一つ、なのでしょうか?」
アイザックとレイモンドに揶揄されるどころか、真面目に心配されてしまった。今後もう少し平常心を保てるように訓練をしなければならないと、イーサンはひっそり心を決める。急に変わっても気持ち悪いかもしれないため、少しずつ。
シワのない肌こごち良いシャツとパンツに身を包み、身だしなみを整えた彼は温室へと向かう。
温室にはアナベルとレティシアが言っていた通りに、植物を前に色々と話していた。
サイドハウス・ノアに住んでいた頃はレティシアが植物を育て、中央へ移動してからはポーラが、また庭師たちが面倒を見ている。月に1度は必ずレティシアかイーサンが訪れている。
一年中葉をつける植物と、季節の花々が育っている。夏の光のように鮮やかな色で賑やかだ。本当は魔法系の植物も育ててみたいのだが、どうしてもうまくいかない。レティシアがため息をついた。
着替えたイーサンが、席につく。既に昼近いため、アナベルとレティシアもランチである。
アイザックたちは早速料理を並べ始める。メニューは卵黄をたっぷりつけたフレンチトーストに、フルーツ、トマトスープ、サラダだ。
良い香りに腹が鳴く。
姿が見当たらない父親の行方を聞けば、今はまだ寝ているのだとか。どうやら夜中にどこかへ出掛けていたらしい。
「どこかに釘でも刺しに行ったんでしょ」
メープルシロップをかけたトーストを、レティシアが口へ運ぶ。ふわりとバターの香りに、香ばしいシロップとのハーモニーに彼女は頬を緩ませる。
「昔から身内へ攻撃する人には容赦ないから。何を掴んだか知らないけどね。現状私たちには知らせないでしょうけど、言ってほしいわ!」
プスンプスン。彼女の頭上に湯気が見えるようだ。美味しいものを食べて若干勢いは削がれてしまっているが、その怒りは本物のようだ。
レティシアの怒りに、アナベルも少し悩み、賛同する。
「そう、ですね。私も言って欲しいです」
「ほぉら! 気遣いは嬉しいけど、巻き込んで欲しいわよねぇ。イーサン気をつけなさいよ。私は後で詰めましょ」
「き、気をつけます」
レティシアは宣言通り、午後に起きたデービッドに何をしといたのか話してくれるまで、レティシアはひっついていたのだとか。
詰めるなど話していたが、ただいちゃついているだけだ。イーサンは両親の仲の良さに眩暈がした。だいぶ慣れてきたアナベルも直視するのは憚られて、おしどり夫婦を横目に二人は課題の最終確認をしていた。
全て終わっているのを確認できた。手を合わせて喜び合う。
明日から課題の心配がない。対して重みを感じていなかったが、解放された気分になる。
「レポートのテーマは何にしたんだい?」
「この土地の歴史と建築構造の因果」
ギャラリーと今回の誘拐で、非常に役に立った知識。もっと深く知りたいと興味を持ったのは必然と言える。キャンベル家や図書館にもたくさん資料があり、レポートに纏めるには苦労がなかった。
実はもう一つテーマを考えていたのだが、図面や挿絵も用意したりとより時間がかかるため夏の提出は断念した。最後まで仕上げるとは決めたため、出来上がったら読んでくれるかとイーサンに願えば、彼は笑顔で快諾した。
アナベルはイーサンを誘い、温室から馬小屋へと移動した。
サイドハウス・ノアで今飼育されているのは4匹。アナベルを認めると、彼らは一斉に嬉しそうに嘶いた。アナベルが動物園以降、足を運んでいる場所だ。ここ数日は毎日顔を出しており、機嫌も良いのだと馬の世話をしているローガンは笑っている。
イーサンも訪れると、少し落ち着きを取り戻すのが不思議である。アナベルは額を撫でてやれば、興奮は戻るのだが。
一匹に顔を近づけられ、イーサンも撫でてやる。きっちり手入れの行き届いた毛はつるりと気持ちがいい。
「ねぇ、イーサン。明日……よりも明後日がいいかしらね。朝、よかったら一緒に散歩に行かない?その、彼らに乗って」
「……! もちろんだよ!折角なら、やっぱり明日がいいな。どうかな」
初めてのアナベルからの誘いだ。
不安げな表情を浮かべるアナベルに、イーサンは前のめりに誘いに乗る。
「少しでも具合悪かったら延期にしてもらうから。きちんと言うよ」
「えぇ。絶対に、ね」
絶対に、と念押するアナベルに、イーサンはしっかりと頷いた。
明日はよろしくと、馬四匹を撫でて、二人は屋敷へと戻る。
すると夫から何か引き出したのか、それとも引っ付いて満足したのか、満足したレティシアが出迎えた。
「二人に話したいことがあるのだけど」
改めて温室へと戻り、レティシアとデービッドからの相談された内容は、驚くものであった。それに呼応するように、空に浮かぶ一番星がキラリと瞬いた。

