レディ・クロックの夏休み〜働き者の令嬢は、婚約破棄により「お休み」いたします?!〜

 闇がしんしんと深まり、墓地や路地裏では幽霊や妖怪などが活発になる時間。辛苦を舐めて「幽霊より人の方が怖い」など嘯く大人すら怖がらせる時間だ。
 しかし今最もおぞましいのは、王都にあるベルナルド家屋敷。
 その書斎で二人の侯爵が対峙していた。


 数十分前のことだ。
 ベルナルド家当主オーブリーは書斎のデスクに座り、資料を手に鋭い知性が隠しきれない面、その眉間を寄せていた。その理由は多々ある。
 手元の資料に示されているように、ここ最近の業績がささやかながら思わしくない。秘書や社員の不始末が多い。妻エヴァの機嫌が悪い。彼の子供で、ロベールの弟でもあるリュックが家を出た。ロベールとミシェルの関係についての不穏な話が出回っていること、などだ。夏の始まりから、大小のストレスが積み上がっている。
 機嫌悪そうに資料を置き、グラスに入ったウィスキーを一口舐める。
 扉をノックする音が鈍く響いた。開かれた扉の向こうから執事長が深く頭を下げる。落ち着いた物腰の老人に、少し緊張と不安が滲んでいることにオーブリーの不快感は刺激される。

「なんだ」

「お忙しいところ申し訳ございません旦那様。……お客様がいらっしゃいました」

 時計を確認すれば時計は午前一時を指している。人と会うには非常識な時間、そんな付き合い相手などいない。オーブリーは低い声で「追い返せ」と執事長に命令する。

「ごきげんようベルナルド侯爵」

 すると、心を逆なでするひどく落ち着いた男の声が聞こえてきた。
 狼狽える執事長の後ろから、暗闇からぬるりとキャンベル家の当主、デービッドが片手を挙げて部屋に入ってきた。相変わらず真っ黒なスーツに身を包み、シワのない真っ白なシャツが異様に目立つ。彼は執事長に「ここまでありがとう、下がっていていいよ」と告げて書斎の扉を閉めた。彼はオーブリーの許可もなくソファに座ると、持ち込んだ菓子箱を開けて勝手に食べ始めた。

「何だ貴様」

「お土産をお持ちしたのですが機嫌が悪そうなので不要かと思いましてね。勿体無いので頂こうかと。やはり一つ、いりますか」

 口をもごもごと動かすデービッド。口ひげがひょこひょこと動くのが腹ただしい。オーブリーは「そうではない!」と言葉を荒げた。
 影が落ち色がうかがえない瞳が、オーブリーをまっすぐ捉える。どこまでも深い穴がそこにあるようで、オーブリーは気味の悪さに思わず口元を歪ませる。
 デービッドは目の前の男が声を荒らげようとも、平然と口をもぐつかせ、ゆっくりとお菓子を飲み込む。

「アナベル誘拐の黒幕に、本件の真意を聞きに来ただけです」

 部屋の空気が変わった。
 ヘンリーによるアナベル誘拐。その協力者であった男、パトリック・ルロワ伯爵。土地を持たない、比較的歴史の浅いルロワ家。王都の郊外に屋敷を構え、飲食業や観光業を生業にしている。甘い顔に柔和な態度に、相手を煽てる言葉で貴族世界を軽い足取りであちらこちらと行き交う男。表立って知られていないが、パトリックは能力以上に事業を広げすぎ、負債を抱えている状況だ。
 そんな男が何故アナベルを欲したのか。誘拐なんて下作を取らせてまでのメリットとは。

「それも彼の目的がアナベルではなく、アナベルを得たことで懐に入る助成金目当てだったとしたら現実的です。貴方の横で働く姿も見ていれば、便利な道具が手に入ると思ったのでしょうね」

 実は先代のルロワ伯爵は、オーブリーの大学時代の後輩であり、何かとつるんでいた仲だった。ベルナルド家の言うことはよく聞く、深い付き合いがある一族。現在もベルナルド家との取引相手の一人。つまり、目の前でデービッドの腹を探ろうと目を細めるオーブリーと付き合いがあるのだ。

「何を根拠にデタラメを言っている」

「言っておきますが彼は何も話しておりませんよ。ただ管理が甘い。帳簿に残ってました」

 ルロワを捉えた憲兵の中にレティシアの2番目の兄がいた。彼は可愛い妹の夫であるデービッドに、何も見ていない体で、押収した品物を見せた。
 甥が叶えた初恋の邪魔をし、アナベルの人生を狂わそうとした存在に憤りを感じていた彼の配慮のおかげで、デービッドは帳簿に気になる名前を見つけた。
 夏の初めと二週間目に、とある企業から負債を返金できるほどの入金があった。その企業は、背後にベルナルド家が裏で糸を引いていることは大貴族の間では有名な話だ。薄暗いことを行なっていることも。

 ベルナルド家と関わりのある一族の男が、ベルナルド家の裏企業から金をもらっていた。それもアナベルと婚約を解消した夏から。他にも、最近金羽振りの良くなったと友人らに聞かれた際、『やはり精霊の助言者の言うことは聞くべきだな。便利な道具も手に入り、彼の方も満足するなら泥水も啜れる』と笑っていたと証言が取れている。
 これで何も関わりがないのなら、本当の黒幕は相当頭の切れる者である。ベルナルド家は上手く利用されたと主張して良い。怒って然るべきだ。
荒唐無稽だと、デービッドを追い返そうと口を開こうとしたオーブリーであったが、続けたデービッドの言葉に飲み込まざる得なかった。

「ご心配しなくとも誘拐事件の件で貴方を捕らえる気はないですよ。王様まで捕まえてもらうことになりますからね」

 キャンベル家、と言うよりもイーサンを特に気にかけている王の使者ー登城証が無いイーサンを屋敷に返した男で、あの日に騒ぎがあったことも知っているが王の命令で口外無用の命令を受けたーがひっそりと、ここ最近ベルナルド侯爵と王がよく対面していると教えてくれた。王を追求しても良いが、今王室も微妙な緊張が張っている。イタズラに刺激するのは得策ではない。彼に恩を売ったと思うしかない。しかるべき時に返済してもらう心積もりだ。
 そもそも誘拐事件は無かったことになるに違いない。誘拐したヘンリーは消え、伯爵も重罪になりたくないから余計なことは話さない。この件に王が関わっており、あの日の騒動は泥棒騒ぎだと騎士団にも御触れが出る。アナベルを絶望に追い詰め、イーサンが撃たれるかもしれなかった事件は闇へと葬られるのだ。
いささか業腹であるが、デービッドの落ち着き払った態度は変わらない。相変わらずもそもそと菓子を食べている。そのお菓子こそ、ベルナルド家が裏で糸を引いている会社が、数日後に発売する予定の品だ。
 デービッドは把握できない何かを握っている。
 オーブリーはおもむろに口を開いた。

「あの娘では使えきれんからだ」

 デービッドはお菓子の紙包みを剥がしながら、オーブリーの方に体を向ける。あの娘、とはロベールの新たな結婚相手であるミシェル・ラッセルのこと。義理の娘になると言うのに、なんの親しみも温かみもない。

「ラッセル家とのつながり、その権利、金の力は十分旨みがある。しかしミシェル嬢が私に与えるものは何もない。だがアレは違う。確かに頭は弱いが、補おうと噛み付く。気力、胆力がある。ロベールめ、あんな娘が好みだったとは……」

 最後の言葉は忌々しげに呟かれる。全ての不満が詰まったような重く、呆れが滲んでいる。
 オーブリー・ベルナルドは常に自分を律して、大貴族の誇りを持って生きてきた。幼少期から王を支え、民を導く1人であると勉学に励んだ。尊敬できる人間から学び、相応しい人間と付き合ってきた。足らない者たちは機会を与え、その中で耐え生き残れば相応しい席を与えた。それが持ち得る上位者の責務であると考えてきた。
 オーブリーにとって、アナベルは相応しい席を与える1人だった。
 成り上がり貴族の弱い子供であったが、その気力と努力を突き抜ける力は惜しく思えるほどの鈍い輝きに、オーブリーは彼女に価値を見出した。オーブリーの優れた見識は正しかった。幼くともアナベルは必死にベルナルド家の一員になろうと耐えて、結果を残してきた。貴重な人材になっていた。だから愛人の1人や2人で目くじらを立てるなと言いたかったが、ロベールとの仲で相談された時には、息子に助言したと言うのに。
 子供の世話を妻に任せすぎた。貴族の権利ばかりを主張し、愛人を生涯の相手としてしまった。宰相の愛娘相手では責任を取らなければならない。
 せっかく時間と金を掛けたアナベルを手放す羽目になったのだ。
 後でロベールではなく、アナベルを慕っている三男のリュクとの縁談を持ちかければと思ったのだが、アナベルと一方的に婚約解消をしたと怒りの頂点を迎えた幼い子供は、ベルナルド家とは縁を切ると出て行った。
 手段がなくなったところで、元バーンズ伯爵が現れた。金に困るルロワにも機会を与えた。
 結果は、失敗しただけでなく不快な来客を呼ぶ羽目になった。
 全く、自分の周りには碌な人材がない。運すら薄くなっている。堪らずといった風に、オーブリーの薄い唇から大きなため息が吐き出される。

「ところでアレをどうするつもりだ。最後まで走り抜けることに価値があるだというのに、残りない長所を潰してどうなる。呆れたぞ、ずいぶん腑抜けた有様になったものだ。初恋だと?息子可愛さによくもまあ人を殺す」

 オーブリーが国に果たしてきた貢献も、家の歴史に恥じない実績も、成績を残してきた。そしてこれからも、そのつもりである。彼は正しく、貴族そのもの。自分が正しいと信じて止まない。

 故に。
 突然の来訪者の表情が消えていることにも、部屋の気温が著しく下がっていることにも気づけない短慮があるとも言える。

「アナベル嬢、だ」

「なに?」

 底知れぬ冷たさを孕む台詞に、己を捉える真っ黒な瞳…いや。いつの間にか部屋の明かりのいくつかが消え、影となった男がある。オーブリーは息をのむ。

「アナベル嬢。またはアナベル様。そう呼びたまえよ。
呼び捨ても、ましては物扱いは絶対に許さん。
彼女はアナベル・バーンズ。
世界でただ1人、この大陸に生きる娘である」

 影に溶け込む男の、その背景。
 虚弱体質で生まれた息子。彼が生まれてから、己の無力さに打ちひしがれ続けていた。なかなか子供に恵まれなかったデービッドとレティシアにとって、イーサンはようやく授かることができた。
しかし生まれてから息しない赤子を、産婆や医者らの懸命な処置でなんとか命はつながった儚い生き物であった。
 気を抜けば一瞬で消えてしまう宝。決まった場所しか外界を知らず、部屋の天井と布の柔らかさが何よりの友人。痛みに苦しみ、こぼす呻きは呪詛のよう。あらゆる手を借りて、ようやく、歳をとっていく。丈夫な体で産ませられなかったと自分を責め続け、毎日屋敷にこもり泣く妻の支えにもなりきれない自分に腹がった。

『神よ。
お前を堕ろせば、
息子が生きる道を用意できるのではないか』

 いっそ世界の通りごと変えてしまおうかとも考えたが、そばにいて欲しいと啜り泣くレティシアを残すなど出来ず、馬鹿な真似はしなかった。
 何が出来るか。まだやっていないことは。医者に、研究者に、学者に、会社の従業員に、海外の貴族や王族、メイド、そして若き料理人など。金で解決できることは、非人道的なこと以外はなんでも行った。
 持ち得る全てを賭けて、愛しい我が子を生かすために尽くした。本人の意思を無視したに違いないが、生まれてきた子に楽しさも、美しさも知らずに死に絶えて欲しくなかった。
 あの子は、痛みに苦しんでいた。
 あの子は、死神の手を取ったこともあった。
 あの子は、生きることを、手放そうとしていた。

 そんな子が、今は十七歳になった。
 片腕で抱えれる程度だった赤子が、自分の背を超えている。
 笑って、一日何があったか話してくれる。
 翌朝も、元気な姿を見せてくれる。
 明日のためにと、よく食べるようになった息子。
 そして。
 時に喜びで涙を流しながら、息子に起こった出来事を話すようになった妻。
 外出も出来るようになり、出会った頃以上によく笑うようになった。
 長く辛い時期も乗り越えてくれた使用人たちにも明るさが戻り、活動的になった。
 なんて、何よりも、掛け替えのない素晴らしい毎日か。
 多くの人の尽力があった。感謝しきれないほどだ。
 しかし。イーサンが未来を考えたのは、まさか恋という不確定な感情がきっかけで、切り開かれるなど想像もしてもいなかった。

 アナベル・バーンズ。彼女との出会いが、より多くの人生に光を差してくれた。

 生真面目で溌剌、気が強く、頑固なところとのバランスが絶妙な娘。身体能力は高く、手先が不器用。お世辞にもすぐに頭が回るタイプではないが、じっとりと物事に取り組み、しがみつく忍耐力があり、必ず知恵も術も身につける。努力を怠らず、陰口を言われようと、汗水をかきながら己の道を進める、強さ。子供の時から責任を背負う覚悟を抱き、他人を慮り配慮ができる。
 だから、期待に応えようと自分を消費できてしまう。
 誰かに言われるままに、自分の気持ちに蓋を閉めることができる。
 誰かのために時間を費やせる。
 そう言うところを、オーブリーは評価していることを、デービッドはよく理解している。誘拐事件を計画するほど、たった八歳で次男の婚約者に定めるほど、成金貴族の令嬢を心底気に入っていた。その能力を求め、成長させる価値を見出した。
 しかしもう、全て変わった。自分の息子が、いや。自分自身で。

「潔く諦めたまえ。貴方は間違えた。やるべき事を、かけてやる言葉を。
渋る当時のバーンズ伯爵を説得してまで、相性の悪い次男の婚約者にしたと言うのに。
むざむざ手放して、今更手元に戻したいなどと。
傲慢を過ぎて哀れで、気持ちが悪いよ」

 淡々と語るデイビッドの声音に侮蔑が滲む。
 親しくない相手、それも深夜に訪ねてくる非常識人にズカズカと庭を踏み荒らされる屈辱に握った拳を震わせた。

「……お前こそ。もしや生き方を変えようとするつもりか。たかが義理家族が烏滸がましい」

「言っておきますが我々とてただの義理家族。彼女を変えようなんて思っていませんよ。
というかまだ檻の中。どこまで羽ばたくか、どこに留まるか。これからですよ。
それを変化と言うかは人次第ですが。
あーしかし。
ようやく、烏滸がましくも関わらせてもらう権利を得ましたからね。
これもイーサンがアナベルが婚約者になれたから。
彼女が嫌だといいなら身を置き方を考えます。きちんと対話をもって。
家族になるのだからね」

 嫌みたらしい言葉選びに、オーブリーは舌打ちする。普段の落ち着いた態度も剥がれ、「用が済んだならば帰れ」と声を荒げる。

「ベルナルド侯爵」

「しつこいぞ!」

 デービッドは立ち上がると、オーブリーの前に立った。灯りに背を向けたため、デービッドに影が落ちる。しかし、そのまっさらな瞳は、きらきらと反射して輝いて見える。

「本当に、これっきりで。
さらに手を出すなら、
もっと酷い目に遭わせます」

 そう言い放つと、書類の束を机の上に放った。
 菓子以外に何かを持っていると思っていたが、乱雑に投げられたことに腹が立つ。オーブリーはチラリと目を向けると、数分前に目を通していた報告書と同じデータが載っていた。束を捲り確認すれば、ベルナルド家の事業の報告書。

「どうやってこれを」

「これ以上、
眉間の皺を深く刻みたくは
ないでしょう?」

(まさか、こいつが)

 不遜にもオーブリーを見下ろす、デービッドの顔を睨みつけたが男はまるで気にしない。
 なぜか汗が流れる。うっすらと影が深く落ちる立ち姿が、デービッドである確信がなくなっていく。穴が、そう穴のようであったその両目。なぜか爛々と輝いているようで、オーブリーを見つめる。
 そういえば。どこの誰かが言っていた。デービッド・キャンベルは化け物だと。だがこんな化け物はいただろうか。先程から、いやアナベルの話をしていた時から感じていた。影の中でも、瞳は輝いてこちらを見ているのに、声も、表情も、何も感じない。愉悦に浸るわけでも、激昂に燃えるわけでもない。何かが向けられている。なにかが、こちらを攻めている。真っ暗な影こそ、デービッドの本当の姿のようで、気味が悪い。
 オーブリーは心の底から目の前にいる男と、これ以上話をしたくなくなった。
 デービッドも話すことはなくなったらしく、きた時同様勝手に踵を返し、扉に向かった。その背を見て、オーブリーはたまらず息を吐き出した。

「それではオーブリー・ベルナルド侯爵、お時間ありがとうございました」

「二度とくるな」と麗しき侯爵は釘を刺す。
 やはりデービッドは気にしておらず、まるで歌うように別れの言葉を紡いだ。

「また、会える日があれば。
さようなら。
オーブリー・ベルナルド。
さようなら」