ガラガラ、と小気味いい音を立てて教室の木製の引き戸を開ける。
一瞬、それまでガヤガヤと騒がしかった空間の視線が一斉に私へと集まった。
(大丈夫。今の私は24歳の社会人。プレゼン前の緊張に比べれば、中一の教室なんて可愛いものよ!)
私は胸の中でそう強く自分に言い聞かせると、ぶかぶかのセーラー服の裾をキュッと握り締めクラス全体を見渡した。
「みんな、おはよう!」
教室の隅々まで行き渡るような、お腹から出たハキハキとした、そしてとびきり明るい声。仕事で鍛え上げた、口角の上がった完璧な笑顔。
かつての私なら、絶対にできなかった芸当だ。10年前の私は教室に入るなり誰とも目を合わせないように俯き、泥棒のようにコソコソと自分の席へ移動していた。
その暗いオーラが、周囲に「あいつ、話しかけづらいな」と思わせる原因だったのだ。
私の突然の元気な挨拶に、教室内は一瞬だけぽかんとした空気に包まれた。
まだ入学式の翌週。小学校ごとのグループはなんとなくあるものの、大半の生徒は新しい環境に緊張し、猫を被ってお互いの出方を伺っているような繊細な時期だ。
そこに飛び込んできた、一点の曇りもないポジティブなエネルギー。
「お、おはよう……!」
窓際の席にいた女の子が、釣られたように小さな声を返してくれた。
それを皮切りに、「おはよう」「おはよー」と、ぽつりぽつりと挨拶の輪が広がっていく。
(よしっ! 第一関門突破……!)
私は心の中でガッツポーズを決めた。
記憶が確かならば中学校生活の最初の最初、この一週間くらいは、まだ小学校からの悪い噂も完全に広まりきっていなくて、私の出方次第でどうにでもなる時期だったはずなのだ。
ここで「自分は陰キャです、嫌われ者です」という態度を崩さず、勝手に周囲を敵視して殻に閉じこもりさえしなければ、絶対に間違えない。ここで踏み止まれば、あの最悪な孤立ルートを回避できる。
私は自分の指定された席へと歩きながら、周囲のクラスメイトたちの様子を観察した。
(みんな、若い……っていうか、幼いなぁ)
中身が24歳の私から見れば、13歳の子供たちはまだ頬のラインも丸くて、体つきも小さくて、なんだか小動物の集まりを見ているような気分になる。
かつての私は、この幼い同級生たちのちょっとしたヒソヒソ話や冷たい目線に、まるで世界の終わりかのように絶望し、怯えていた。
けれど社会に出て、理不尽な大人のドロドロした人間関係や、無理難題を押し付ける取引先の相手をしてきた今の私からすれば、彼らの行動なんて「微笑ましい思春期の背伸び」にしか見えない。
「ねえねえ、莉愛ちゃんだっけ?すっごい元気だね!」
席にカバンを置いた瞬間、さっき挨拶を返してくれた窓際の女の子――確か名前は千夏(ちなつ)ちゃんが、目を輝かせて話しかけてきた。
「うん!今日から本格的に授業も始まるし、気合い入れなきゃと思って!よろしくね、千夏ちゃん」
「えっ、私の名前知っててくれたの!?」
「入学式の時、名簿で近くに可愛い子がいるなーってチェックしてたんだよね」
一気に距離が縮まった。
その様子を見ていた周りの席の子たちも、楽しそうな雰囲気に誘われるようにして、私の席の周りに集まり始める。
「莉愛ちゃん、どこの小学校だったの?」
「私はね、あっちの坂の上の……」
受け答えは完璧だった。相手の話を笑顔で頷きながら聞き、適度に質問を返し、自分のことも明るく開示する。社会人生活で叩き込まれた「傾聴の技術」と「雑談のスキル」があれば、中学生の会話を盛り上げるなど造作もないことだった。
クラスメイトたちは、私の物怖じしない堂々とした態度とそれでいて親しみやすい雰囲気に、すっかり和んでいるようだった。
「莉愛って、なんか喋りやすくて面白いね」
「しっかりしてるっていうか、お姉ちゃんみたい!」
そんな言葉をかけられるたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
過去の私が見たら嬉しくて泣き出してしまうかもしれない。あんなに怖かった教室が、あんなに冷たかった周囲の視線が、私の行動一つでこんなにも温かい場所に変わるなんて。
(過去と、違う……。ちゃんと、みんなの輪に入ることができてる……!)
小学校の頃からずっと、私は「集団の異物」だった。みんなが楽しそうに笑っている輪の外側で、爪を噛みながら床を見つめることしかできなかった。
だけど今、私は確かにクラスの中心にある温かい輪の、その一角に座っている。
間違えなかった。私は一歩目を正しく踏み出すことができたんだ。
「キーンコーンカーンコーン……」
予鈴のチャイムが響き、みんなが慌てて自分の席へと戻っていく。
私は自分の机に座り、まだ真っ白な教科書をカバンから取り出した。背筋をピンと伸ばし、前を見据える。
(さあ、ここまでは完璧。次はいよいよ――)
私の視線は自然と窓の外、北校舎の最上階へと向いていた。
クラスの人間関係という足場は固めた。これならあの暗黒時代のように不審な陰キャではなく、「勉強熱心で、ちょっと好奇心旺盛な明るい生徒」として、内山先生の元へ堂々と会いに行ける。
胸の高鳴りが止まらない。
10年越しの「はじめまして」に向けて、私の2度目の中学校生活は、最高のスタートを切った。
一瞬、それまでガヤガヤと騒がしかった空間の視線が一斉に私へと集まった。
(大丈夫。今の私は24歳の社会人。プレゼン前の緊張に比べれば、中一の教室なんて可愛いものよ!)
私は胸の中でそう強く自分に言い聞かせると、ぶかぶかのセーラー服の裾をキュッと握り締めクラス全体を見渡した。
「みんな、おはよう!」
教室の隅々まで行き渡るような、お腹から出たハキハキとした、そしてとびきり明るい声。仕事で鍛え上げた、口角の上がった完璧な笑顔。
かつての私なら、絶対にできなかった芸当だ。10年前の私は教室に入るなり誰とも目を合わせないように俯き、泥棒のようにコソコソと自分の席へ移動していた。
その暗いオーラが、周囲に「あいつ、話しかけづらいな」と思わせる原因だったのだ。
私の突然の元気な挨拶に、教室内は一瞬だけぽかんとした空気に包まれた。
まだ入学式の翌週。小学校ごとのグループはなんとなくあるものの、大半の生徒は新しい環境に緊張し、猫を被ってお互いの出方を伺っているような繊細な時期だ。
そこに飛び込んできた、一点の曇りもないポジティブなエネルギー。
「お、おはよう……!」
窓際の席にいた女の子が、釣られたように小さな声を返してくれた。
それを皮切りに、「おはよう」「おはよー」と、ぽつりぽつりと挨拶の輪が広がっていく。
(よしっ! 第一関門突破……!)
私は心の中でガッツポーズを決めた。
記憶が確かならば中学校生活の最初の最初、この一週間くらいは、まだ小学校からの悪い噂も完全に広まりきっていなくて、私の出方次第でどうにでもなる時期だったはずなのだ。
ここで「自分は陰キャです、嫌われ者です」という態度を崩さず、勝手に周囲を敵視して殻に閉じこもりさえしなければ、絶対に間違えない。ここで踏み止まれば、あの最悪な孤立ルートを回避できる。
私は自分の指定された席へと歩きながら、周囲のクラスメイトたちの様子を観察した。
(みんな、若い……っていうか、幼いなぁ)
中身が24歳の私から見れば、13歳の子供たちはまだ頬のラインも丸くて、体つきも小さくて、なんだか小動物の集まりを見ているような気分になる。
かつての私は、この幼い同級生たちのちょっとしたヒソヒソ話や冷たい目線に、まるで世界の終わりかのように絶望し、怯えていた。
けれど社会に出て、理不尽な大人のドロドロした人間関係や、無理難題を押し付ける取引先の相手をしてきた今の私からすれば、彼らの行動なんて「微笑ましい思春期の背伸び」にしか見えない。
「ねえねえ、莉愛ちゃんだっけ?すっごい元気だね!」
席にカバンを置いた瞬間、さっき挨拶を返してくれた窓際の女の子――確か名前は千夏(ちなつ)ちゃんが、目を輝かせて話しかけてきた。
「うん!今日から本格的に授業も始まるし、気合い入れなきゃと思って!よろしくね、千夏ちゃん」
「えっ、私の名前知っててくれたの!?」
「入学式の時、名簿で近くに可愛い子がいるなーってチェックしてたんだよね」
一気に距離が縮まった。
その様子を見ていた周りの席の子たちも、楽しそうな雰囲気に誘われるようにして、私の席の周りに集まり始める。
「莉愛ちゃん、どこの小学校だったの?」
「私はね、あっちの坂の上の……」
受け答えは完璧だった。相手の話を笑顔で頷きながら聞き、適度に質問を返し、自分のことも明るく開示する。社会人生活で叩き込まれた「傾聴の技術」と「雑談のスキル」があれば、中学生の会話を盛り上げるなど造作もないことだった。
クラスメイトたちは、私の物怖じしない堂々とした態度とそれでいて親しみやすい雰囲気に、すっかり和んでいるようだった。
「莉愛って、なんか喋りやすくて面白いね」
「しっかりしてるっていうか、お姉ちゃんみたい!」
そんな言葉をかけられるたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
過去の私が見たら嬉しくて泣き出してしまうかもしれない。あんなに怖かった教室が、あんなに冷たかった周囲の視線が、私の行動一つでこんなにも温かい場所に変わるなんて。
(過去と、違う……。ちゃんと、みんなの輪に入ることができてる……!)
小学校の頃からずっと、私は「集団の異物」だった。みんなが楽しそうに笑っている輪の外側で、爪を噛みながら床を見つめることしかできなかった。
だけど今、私は確かにクラスの中心にある温かい輪の、その一角に座っている。
間違えなかった。私は一歩目を正しく踏み出すことができたんだ。
「キーンコーンカーンコーン……」
予鈴のチャイムが響き、みんなが慌てて自分の席へと戻っていく。
私は自分の机に座り、まだ真っ白な教科書をカバンから取り出した。背筋をピンと伸ばし、前を見据える。
(さあ、ここまでは完璧。次はいよいよ――)
私の視線は自然と窓の外、北校舎の最上階へと向いていた。
クラスの人間関係という足場は固めた。これならあの暗黒時代のように不審な陰キャではなく、「勉強熱心で、ちょっと好奇心旺盛な明るい生徒」として、内山先生の元へ堂々と会いに行ける。
胸の高鳴りが止まらない。
10年越しの「はじめまして」に向けて、私の2度目の中学校生活は、最高のスタートを切った。
