BLUE YELL ―その声が届くまで―


 初めてのレッスンの日。

 指定されたスタジオへ向かう途中、何度もスマートフォンの画面を確認した。

 集合時間は午前十時。

 現在の時刻は、九時二十分。

 ――少し早すぎたかな。

 そう思いながらも、足は自然とスタジオへ向かっていた。

 競技チアをしていた頃から、私はいつも集合時間より早く着くようにしていた。

 早く着いて、身体をほぐして、心を整える。

 それが当たり前になっている。

 スタジオの前に立ち、深呼吸をひとつ。

 扉を開けた。

「おはようございます。」

 声をかけると、鏡の前でストレッチをしていた女性が振り返った。

「あっ!」

 ぱっと笑顔になる。

「オーディションのときの!」

 私が少し戸惑っていると、彼女は立ち上がってこちらへ歩いてきた。

「私、ひより。」

「よろしくね!」

「あ、朝比奈凪です。よろしくお願いします。」

「凪ちゃんって呼んでいい?」

「はい。」

 ひよりは嬉しそうに笑った。

「よかったー! 同期、仲良くなれたらいいなって思ってたの。」

 その明るさに、少しだけ緊張がほぐれる。

「ひよりさんは、早いですね。」

「私?」

 ひよりが時計を見る。

「いやいや、凪ちゃんが早すぎるんだよ!」

「え?」

「まだ四十分もあるよ?」

 思わず時計を見る。

 確かに。

「あ……。」

 ひよりが吹き出した。

「もしかして、めちゃくちゃ真面目?」

「……よく言われます。」

「ふふっ。なんか安心した。」

「安心?」

「うん。私、時間ギリギリになると焦っちゃうタイプだから。」

 そう言って笑うひよりに、私も小さく笑った。

「私、ダンスやってたから、身体を動かすのは慣れてるんだけど。」

 ひよりは少し照れたように髪を耳へかける。

「チアは初めてなの。」

「そうなんですね。」

「うん。芸能事務所にも所属してるんだけど……。」

 一瞬だけ言葉を止める。

「まだ、そんなに大きな仕事はしたことなくて。」

「だから、今回のオーディション……本当に受かりたかった。」

 さっきまで明るかった表情が、少しだけ真剣になる。

「ここで頑張って、いつかちゃんと名前を覚えてもらえるようになりたいんだ。」

「だから、絶対頑張る。」

 その言葉には、迷いがなかった。

「……私も頑張ります。」

 そう答えると、ひよりは嬉しそうに笑った。

「うん。一緒に頑張ろう!」

 その時。

 スタジオの扉が勢いよく開いた。

「おはようございまーす!」

 明るい声が響く。

 振り返ると、オーディションで見た顔が飛び込んできた。

「あっ!」

 ひよりが声を上げる。

「8番!」

「そう! 8番!」

 その子は笑いながらこちらへ駆け寄ってきた。

「改めまして、白石朱莉です!」

「朝比奈凪です。」

「ひよりです。」

「よろしくお願いします!」

 三人で頭を下げる。

 朱莉は顔を上げるなり、スタジオの壁に貼られたポスターへ視線を向けた。

 そこには、東京ノースレイヴンズの選手たちが並んでいた。

「……やっぱり、ここなんだ。」

 朱莉がぽつりと呟く。

「何が?」

 ひよりが尋ねる。

「私、ずっとこのチームのファンだったの。」

「えっ、本当に?」

「うん!」

 朱莉の顔が一気に明るくなる。

「小学生の頃からずっと!」

「試合もめちゃくちゃ観に行ってるし、選手のこともほとんど分かるよ!」

「え、すご……。」

 ひよりが目を丸くする。

「じゃあ、選手の名前とか全部言える?」

「もちろん!」

 朱莉は即答した。

 そしてポスターを指差していく。

「この人が――」

「この人は――」

「それから、この人は――」

 次々と名前が出てくる。

 私は思わずその様子を見つめた。

 私が知っているのは、たった一人。

 黒瀬湊。

 公開練習の日に、一番長くコートに残っていた選手。

 それ以外の選手の名前は、まだほとんど知らない。

「凪ちゃんは?」

「え?」

「ノースレイヴンズ、好き?」

 朱莉が無邪気に聞いてくる。

 私は答えに困った。

「……まだ、分からない。」

「まだ?」

「うん。」

「バスケ自体、あまり詳しくなくて。」

「ええっ!?」

 朱莉の目が大きく見開かれる。

「ルールも?」

「……ほとんど。」

「嘘でしょ!?」

 スタジオに朱莉の声が響いた。

 ひよりが笑いをこらえるように口元を押さえる。

「じゃあ、これから私が教えてあげる!」

「お願いします。」

「任せて!」

 朱莉は胸を張った。

「まずはノースレイヴンズのことからね!」

 その勢いに、思わず笑ってしまう。

 まだ、何も分からない。

 このチームのことも。

 バスケットボールのことも。

 ここで自分が何をできるのかも。

 だけど。

 この二人となら。

 少しずつ知っていける気がした。