帰宅部は存在しない

 入部から十二日目の昼休み——私は美咲と一緒に廊下に立っていた。
 柊と椿も一緒だ。四人で、何も言わずに立っている。昨日の部室のことを、まだ誰も言葉にできないでいる。渡り廊下の壁は、今は何もない。ただの白い壁に戻っている。でも私には、そこに扉があったことが、まだ体の奥に残っている。冷たい空気の感触。止まった時計。赤い線だらけの出席簿。机に刻まれた文字——「帰りたい」「助けて」「誰か」。
 美咲が先に口を開く。
「何が起きてるの」
 その声は少し震えている。いつもの明るい美咲じゃない。唇をきつく引き結んで、私をまっすぐ見ている。昨日、渡り廊下で私たちを見つけた時から、美咲の顔にはずっとこの表情が残っている。心配とも、怒りとも取れない、真剣な顔だ。
 私は美咲を見る。話すべきか、話さないべきか——迷う。美咲を巻き込みたくない。でも、美咲はもう巻き込まれている。「なんとなく」辿り着いた場所。時計を動かした声。美咲はすでに、この何かに触れている。これ以上隠しても、意味がない気がした。
「信じてもらえるかわからないけど、話してもいい?」
 声に出してみると、思ったより掠れていた。
 美咲は一瞬だけ目を細めて、それから頷く。その表情に、覚悟のようなものが見えた。美咲はもう、答えが簡単じゃないことを知っている。それでも聞くと言っている。
「話して。楓ちゃん、最近ずっとおかしかったから。何か隠してるのわかってた」
 美咲の声は、責めていない。ただ、知りたがっている。その声の柔らかさが、逆に胸に刺さった。
 私は深呼吸する。どこから話せばいいのか、何をどう説明すればいいのか、わからない。信じてもらえるかどうかもわからない。アプリの画面は美咲には見えない。証拠は何もない。それでも——話さないままでいる方が、もっと怖い気がした。
「帰宅部っていう部活があった」
 私は話し始める。柊と椿が私の少し後ろで黙って立っている。廊下を行き交う生徒たちの声が、遠く聞こえる。
「正式な部活じゃない。学校の記録にも残っていない。でも、入部した人にだけアプリが送られてくる」
 私はスマホを取り出す。帰宅部アプリを開いて、美咲に向ける。
「これ」
 美咲が画面を覗き込む。眉を寄せて、首を少し傾ける。その目が、困惑の色を帯びる。
「何も映ってないよ」
 美咲がそう言って、私の顔を見る。困惑しているが、嘘をついている様子はない。本当に見えていない、という顔だ。
 私は画面を見る。確かに、部員一覧が表示されている。田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前。でも美咲には見えていない。
「見えないの?」
「うん。ただの真っ白な画面」
 後ろで柊が一歩前に出る。
「証拠を外に持ち出せない」
 低くて静かな声だ。感情を押し殺しているような、そんな声。
「アプリの存在を、入部していない人間には証明できない」
 美咲は柊を見て、それから私を見る。困ったような顔をしているが、信じていないわけじゃない。ただ、理解できないだけだ。理解できないものを前にしても、美咲は逃げない。
「続けて」
 美咲が迷いなく言う。その一言に、覚悟が詰まっていた。
 私は話し続ける。消えた生徒たちのこと、伊藤由依のこと、佐藤良樹のこと、部室のこと、出席簿のこと、赤い線だらけのページのこと、止まった時計のこと、伊藤由依の声のこと——全部。話しながら、自分でも改めてその重さを感じる。これだけのことが、この約二週間で起きていた。
 美咲は途中で何度か「意味わからない」と言った。でも最後まで黙って聞いていた。最初は困惑で眉が寄っていたが、だんだんと唇が引き結ばれて、目が真剣になっていった。私の言葉を一つ一つ、確かめるように聞いていた。
 私が話し終わると、しばらく沈黙が続いた。廊下の向こうで誰かが笑っている声が聞こえた。美咲はその声が聞こえていないかのように、私だけを見つめていた。
 やがて、美咲が小さく息を吐く。
「伊藤さんって、どんな子だったの」
 その質問が予想外で、私は一瞬止まった。責めるわけでも、確かめるわけでもない。ただ、知りたがっている。消えた人間のことを、覚えようとしている。
「メガネをかけてた。丸顔で、少し恥ずかしそうに笑ってた。それしか知らない」
 私は答えながら、伊藤由依の顔を思い出そうとする。でも、もう思い出せない。ぼんやりとした輪郭だけ。最初はもっと覚えていた。でも、少しずつ薄れている。私自身の記憶からも、消えていく。
「覚えておく」
 美咲が短く、でも揺るがない声で言う。
「え?」
「私が覚えておく。佐藤くんも。名前だけでも」
 美咲が真剣な顔で続ける。眉が少し下がっていて、でも目には力がある。
「楓ちゃんが覚えてるなら、私も覚えておく。誰かが覚えていれば、消えないんでしょ」
 私は美咲の顔を見つめる。美咲は優しい。本当に、優しい。こんな突拍子もない話を信じてくれる——いや、信じられなくても、私のために覚えておくと言ってくれる。その優しさが、今は少しだけ痛かった。こんなに優しい人を、巻き込んでしまった。
「ありがとう」
 声が出た。思ったより小さくて、少し震えていた。喉の奥が、詰まる感じがした。
 美咲が私の手を握る。温かい。その温かさが、確かに存在している。でも今は、その温かさがどこか遠い場所のもののように感じられた。私の手が、その温かさをうまく受け取れていない気がした。
「なんで帰宅部にしたの」
 美咲が首を少し傾けながら聞いた。責めるような口調じゃない。ただ、知りたいという顔だ。私の答えを、静かに待っている。
「部活、面倒くさかったから」
 私は正直に答える。美咲の顔に、ふっと力が抜けて、小さな笑みが浮かぶ。
「そっか。楓ちゃんらしい」
 それだけだ。美咲はそれ以上聞かない。責めない。ただ、受け入れてくれる。どんな理由でも、私が選んだことを受け入れてくれる。その受け入れ方が、美咲らしかった。
「でも、これからは気をつけてね。ちゃんと帰ってきてね」
 美咲が私の手を強く握る。握り返す力が、少し増した。
「消えないでね」
 その言葉が、胸の奥に刺さる。美咲は笑っていない。真剣な顔のまま、私を見ている。冗談じゃない。本当に、消えてほしくないと思っている顔だ。
「うん」
 頷きながら、その「うん」がどこまで届いているのかわからないと思った。消えたくない。ここにいたい。美咲と話していたい。
 チャイムが鳴り始める。授業の開始を告げる音だ。美咲が手を離す。温かさが、消える。四人はそれぞれの教室に戻った。
 私は廊下を歩きながら、美咲の言葉を思い出す。「消えないでね」。その言葉が、まだ胸に残っている。それは、私が消えない理由になるのか——足りないのか。
 ◇
 翌日——入部から十三日目。田中先生が私を廊下で呼び止めた。
 昼休みが終わって、午後の授業が始まる前の短い時間。廊下を歩いていると、田中先生が職員室から出てきて、私に声をかけた。
「田村」
 私は立ち止まる。周りに生徒が数人いる。田中先生はその生徒たちが通り過ぎるのを待った。その間、田中先生は私を見ていない。廊下の壁を見ている。いつもより顔色が悪い。目の下のクマが、さらに濃くなっている気がする。
「部室に入ったな」
 田中先生が小声で言う。誰にも聞こえないように、でも確認するように。
「はい」
 短く答えると、田中先生の目が初めて私に向いた。
「何を見た」
「出席簿を見ました。赤い線だらけのページ、数が合わない集合写真、17時12分で止まったままの時計——全部、確認しました」
 田中先生は黙って聞いている。目を逸らさずに、私を見ている。その目に、驚きはない。全部、知っていた表情だ。それが逆に怖かった。
「伊藤さんのロッカーも。空のロッカーが三つありました。机に刻まれた文字も——『帰りたい』『家に帰れない』『助けて』『誰か』。消えた生徒たちが残した言葉だと思います」
 田中先生の表情が少しだけ変わる。眉間に皺が寄る。口元が微かに引き結ばれる。苦しそうな顔だ。でもそれだけで、声には出さない。十年間、一人で抱えてきた人の顔だった。
「そうか」
 田中先生が小さく呟く。その一言に、十年分が詰まっているような気がした。長い沈黙の後、田中先生は私を見る。その目は、疲れている。でも、諦めていない。
「田村、今日もちゃんと帰れ」
 それだけだ。アドバイスもない。励ましもない。ただ、「ちゃんと帰れ」。毎年、同じ言葉を言い続けている。それしか、できないのかもしれない。
 短く頷いてから、田中先生の背中を見送った。職員室のドアが閉まる。廊下に一人残されて、しばらくその場を動けなかった。一人で戦ってきた背中。止められなかった背中。でも諦めていない背中。それが今は、酷く疲れているように見えた。
 田中先生も、答えを知らない。記録をつけ続けて、「ちゃんと帰れ」と言い続けて、それでも毎年誰かが消えていく。来年も、また同じことが繰り返されるのかもしれない。
 私はゆっくりと教室へ向かった。
 ◇
 放課後、私は一人で帰った。
 美咲は部活があった。「気をつけてね」と言って、音楽室に向かっていった。心配そうな顔で、何度も振り返りながら。「また明日ね」と手を振って。その「また明日ね」が、少し遠く聞こえた。
 私は校門を出て、アプリの指示通りに歩く。今日の経路は昨日と同じだ。商店街を通る。
 歩きながら、考える。
 伊藤由依は家の前まで来て、鍵を開けようとして、でも開かなかった。中に誰かいるのに、返事がなかった。ドアを叩いても、開けてもらえなかった。
 だから、帰宅に失敗した。
 だから、消えた。
 私は——?
 商店街に入る。夕方の商店街。人が多い。でも、昨日より人の輪郭がぼんやりして見える気がする。声が遠い気がする。商店街の喧騒の中を歩いているのに、自分だけがガラス一枚隔てた向こう側にいるような感覚がある。昨日より確実に、その感覚が強い。
 八百屋の前を通る。「いらっしゃい」という元気な声が聞こえる。でも、その声が私に向けられることはない。私はその前に立ってみる。おじさんは私の方を向いたまま、何も言わない。私の向こう側を見ているような目で、次のお客さんを探している。私は、そこにいるのに、見えていない。あるいは——見えているけど、意識に入ってこない。薄いから。
 魚屋の前を通る。パン屋の前を通る。子ども連れの母親が「どれがいい?」と聞いている。子どもが「メロンパン!」と答えている。母親が笑っている。普通の夕方の声。普通の夕方の景色。でも私は、その普通の中に入っていけない。昨日より、確実に。ガラスの向こうから眺めているだけだ。
 商店街を抜ける。足が少し速くなる。
 誰かと誰かが一緒にいる音が、あちこちから聞こえてくる。誰かの帰りを待っている人がいる音が。
 私の家には、そういう音がない。「ただいま」に返事がない。
 家が見えてくる。門の前の花が、今日も咲いている。誰も手入れしていないのに、誰も見ていないのに。私みたいだ、と思う。でも花は咲き続けている。私は——咲き続けていられるのか。
 門を開ける。軋む音がする。玄関に向かう。三歩、四歩——。
 鍵を取り出す。ポケットから取り出す手が、少しだけ重い。差し込む。回す。開く。
 いつも通り、開く。伊藤由依と違って、私の鍵は開く。物理的には、開く。
「ただいま」
 返事はない。いつも通りだ。
 靴を脱ぐ。廊下を歩く。床がきしむ音がする。リビングのドアを開ける。
 母親がソファに座っている。テレビを見ている。ニュース番組。アナウンサーが淡々と何かを読み上げている。その声が、部屋の空気を埋めている。
「ただいま」
 もう一度言う。少し大きな声で。今日は、もう一度言ってみたかった。
 母親が少しだけ顔を向ける。私の方を——いや、私の方向を見る。商店街のおじさんと同じ目だった。私の向こう側を見ているような目。
「おかえり」
 小さな声。それだけ。すぐにテレビに視線を戻す。
 私は——その瞬間、何かが胸の奥で決まった気がした。今日は、このままにしない。このまま部屋に戻って、また一人で天井を見つめて、また名前が薄くなっていくのを眺めるだけの夜にしない。
「お母さん」
 声に出してみると、母親の肩がわずかに動いた。
「話してもいい?」
 母親が顔を向ける。今度は、少しだけ違う角度で。いつものイライラした目じゃない。何か、困惑したような目で私を見ている。
「何?」
「……最近、ちゃんと話したことなかったから」
 私は続ける。声が震えそうになるのを、なんとか堪えながら。
「話したいことがあるわけじゃないんだけど、ただ……話したくて」
 母親はしばらく私を見ていた。テレビの音が、部屋の中を流れていく。でも母親は、今はテレビを見ていない。私を見ている。何かを、確かめるように。
「……そこ、座りなさい」
 母親が、ソファの隣を指差す。いつもとは違う声だった。命令でも、拒絶でもない。ただ、穏やかな声。
 私は慌てて、ソファに腰を下ろす。母親との距離が、こんなに近いのはいつぶりだろう。母親の顔を横から見る。疲れている。目の下にクマができていて、肌の色も悪い。こんなに近くで見たのは、いつぶりだろう。
 母親がリモコンに手を伸ばして、テレビを消した。
 部屋が、静かになる。
「……最近、元気なかったわね」
 母親が静かに言う。
 私は驚いて、母親を見る。気づいていたのか。気づいていないと思っていた。毎日、私のことを見ていないと思っていた。
「気づいてたの?」
「気づいてたわよ」
 母親の声が、少しだけ揺れる。
「気づいてたけど……何て声をかければいいか、わからなかった。声をかけようとするたびに、もう遅いかなって、楓に嫌がられるかなって……そのうち、かけそびれてしまって」
 その言葉が、胸に刺さる。
「お母さんも、怖かったの?」
「怖かったわよ」
 母親の目が、潤んでいる。
「楓は、私に似てるの」
 母親が、小さく笑う。泣きそうな顔で。
「感情を言葉にするのが苦手で、困ったことがあっても一人で抱え込んで……楓が黙って部屋に戻っていくたびに、私と同じだって思ってた。だから余計に、どう声をかければいいかわからなかった。声をかけて、嫌な顔をされたら——それが怖かった」
「嫌な顔なんて、しない」
 思わず口から出ていた。声が少し掠れた。
「するわよ。子どもってそういうものよ」
 母親が、また笑う。でも目には涙が光っている。
「でも……声をかけてほしかったわよね。待ってたわよね、ずっと」
 その言葉が、喉の奥に刺さった。
「うん」
 私は小さく答える。
「ごめんなさい、楓」
 母親の声が、震えた。
「ちゃんとおかえりって言えなかった。ちゃんと顔を見てあげられなかった。毎日帰ってくるのを、ちゃんとわかってたのに——それを伝えることすら、できなかった」
 母親の目から、涙がこぼれた。
 私は、息を呑む。お母さんが泣いている。こんな顔を見たのは、いつぶりだろう。小さい頃に見た気がする。でも、それがいつだったか、もう思い出せない。
「お母さんが無関心なんだと思ってた」
 私は、やっと声を出す。
「私がいてもいなくても、同じなんだと思ってた」
「そんなこと——」
 母親が首を横に振る。激しく。
「そんなことない。楓の足音がするだけで、ああ帰ってきたって、安心してた。玄関のドアが開く音がするたびに、それだけで、胸が軽くなってた。毎日、ちゃんと聞いてた。ちゃんと、感じてた」
「じゃあ、なんで——」
「言葉にできなかったから」
 母親が、自分に言い聞かせるように言う。
「言葉にしなければ、伝わらないのに。わかってたのに。でも、どうしても……言葉が出てこなかった。楓に、ちゃんと向き合うのが、怖かったのかもしれない。向き合ったら、自分がどれだけ駄目な母親だったかを、認めなきゃいけないから」
 涙がこぼれた。止めようとしたけど、止まらなかった。
「駄目じゃない」
「駄目よ」
「駄目じゃない」
 私はもう一度言う。
「足音を聞いてたんでしょ。ドアの音を聞いてたんでしょ。それで十分だよ。それだけで、ちゃんとそこにいてくれてたってわかる」
 母親の肩が、小さく震えた。声を殺して泣いているのが、横からでもわかった。
「楓……」
「私も、言葉にしなかった。ただいまって言って、返事がなくて、それで全部諦めてた。お母さんに聞いてほしいこと、たくさんあったのに。話しかけたら迷惑かなって、そう思って、全部飲み込んでた」
「迷惑なんかじゃない」
 母親が、私の方を向く。ちゃんと、私の目を見る。
「楓が話しかけてくれるのを、ずっと待ってた。話しかけてほしかった。でも、楓が話しかけてこないから……私が嫌われてるのかなって、そう思って、余計に声をかけられなくなって」
「嫌いじゃない」
「わかってる。でも、怖かった」
 二人とも、泣いていた。
 お互いに怖かった。お互いに待っていた。お互いに、言葉にしなかった。ただそれだけのことで、こんなに遠くなっていたのか。同じ家に住んでいるのに。毎日同じ屋根の下にいたのに。
「楓」
 母親が、私の名前を呼ぶ。
「おかえり」
 今度は、違った。
 同じ言葉なのに、全然違う。音に反応した機械みたいじゃない。私を見て、私の名前を呼んで、私に向かって言っている言葉だ。
「ただいま」
 声が震えていた。でも、これまでで一番ちゃんと言えた気がした。
 母親が、私を抱きしめた。
 突然のことで、一瞬だけ体が固まった。でも次の瞬間、母親の背中に腕を回していた。温かい。お母さんの体温が、肩から伝わってくる。こんなに近くにいたのに、こんなに遠かった。
「ごめんね、楓」
 母親の声が、耳のすぐそばで聞こえた。
「これから、ちゃんとする。毎日じゃなくてもいいから、ちゃんと話しましょう。楓のこと、もっと知りたい。もっと、ちゃんと見ていたい」
 涙が、止まらなかった。何かが、胸の奥でほどけていく感覚がある。固く結ばれていた何かが、少しずつほどけていく。ずっと、張り詰めていた何かが。
 この人は——私の帰りを待っていた。足音を聞くたびに、安心していた。それを、私は知らなかった。
 私は、帰れた気がした。
 初めて、本当の意味で。
 ◇
 その夜、私はベッドで横になっていた。
 天井を見つめる。いつもと同じ白い天井。でも今夜は、その白さが少しだけ違って見える気がした。
 母親と、長い時間話した。学校のことを話した。友達のことを話した。他愛ない話を、たくさん。母親も話してくれた。仕事のこと、疲れていること、私が小さかった頃のこと——私が知らなかった話を、たくさん。
 リビングの明かりは、まだついている。母親が、まだ起きている。「明日、一緒に朝ごはん食べましょう」と言っていた。
 私は目を閉じる。今夜は、眠れる気がした。胸の奥が、さっきよりずっと軽い。こんなに軽いのは、入部してから初めてかもしれない。いや、もっとずっと前から、ずっと重かったのかもしれない。
 スマホが振動する。
 時計を見ると、夜中の二時だった。
 帰宅部アプリからの通知だ。
《まだ帰れていない部員がいます》
 私は首を傾げた。今日は、ちゃんと帰れた。鍵が開いた。中に入れた。母親と話した。「おかえり」と目を見て言ってもらえた。抱きしめてもらえた。私は、帰れた。本当の意味で、帰れた気がした。なのに——。
 私はアプリの部員一覧を開く。
 田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前がある。
 でも——私の名前が、また薄くなっている。
 画面を閉じる。もう一度開く。薄い。確実に、薄い。今夜、母親と話した。「おかえり」と言ってもらえた。目を見て。抱きしめてもらえた。なのに——薄くなっている。昨日より、ずっと薄い。これまでで一番薄い。
 どうして。
 ちゃんと帰れたのに。今日こそ、本当に帰れたのに。
 私はスマホを置いて、天井を見つめた。
 わからない。何が足りなかったのか。何が間違っていたのか。田中先生の記録ノートには「毎日、待っていてくれる誰かが」と書いてあった。今夜、母親は私を待っていてくれていた。言葉にしていなかっただけで、ずっと待っていてくれていたと、初めて知った。足音を聞くたびに安心していたと、言ってくれた。
 条件は、満たしたはずだ。
 でも——薄くなっている。
 答えが、出ない。スマホを握りしめる手が、震えていた。さっきまであんなに温かかったのに。お母さんと話して、泣いて、抱きしめてもらって——それでも、薄くなっている。
 どうして。どうして。
 ◇
 眠れないまま、朝になった。
 部屋が明るい。朝日が差し込んでいる。
 私はスマホを取り、アプリを開く。《まだ帰れていない部員がいます》という通知は消えていた。代わりに、いつもの文言だけが残っていた。
《本日の活動目標:無事に帰宅すること》
 私は部員一覧を開く。
 画面を見て、少し首を傾げた。何かが足りない気がする。でも、何が足りないのか、すぐには思い出せない。画面をスクロールしてみる。上に戻ってみる。もう一度、最初から確認する。
 柊壮介、山田椿。
 二人の名前が並んでいる。
 二人。最初から、二人だった気がする。でも——なんとなく、何かがそこにあった気もする。霧の中に手を伸ばしているような感覚で、それが何だったのかを掴もうとするが、指の間から砂がこぼれるように、形にならない。
 私は部屋を見回す。机の上に、教科書が積まれている。ノート、ペンケース、消しゴム。本棚に、本が並んでいる。クローゼットに、服が掛かっている。誰かの部屋だ。誰の部屋か、一瞬だけわからなくなった。視線を手のひらに落とす。自分の手だ、とわかる。でも、それが「私」の手だという実感が、どこかぼんやりしている。
 私は自分の名前を思い出そうとする。
 少し、時間がかかった。
 頭の中で、音として浮かんではくる。でもその音が自分のものだという確信が、なぜかうまく結びつかない。霧の中で、輪郭を探しているような感覚がある。輪郭は、ある。でも触れようとすると、少しずつ向こうへ後退していく。
「……楓、だっけ」
 声に出してみる。その名前は、確かに口から出た。でも、部屋の中に拡散して、どこかへ消えてしまった気がした。
 階下から、音がした。
 母親が朝食の準備をしている音だ。包丁がまな板を叩く音。フライパンが火にかかる音。昨夜、「明日、一緒に朝ごはん食べましょう」と言っていた。
 私はその音を聞きながら、もう一度スマホの画面に目を落とした。
 柊壮介、山田椿。
 二人の名前を見つめる。その二人の名前は、はっきりと読める。くっきりと、濃く、確かにそこにある。その画面の、どこかに、何かの痕跡があるような気がして、目を細めてみる。でも何もない。
 最初から、何もなかった。
 そう思おうとする。でも、思おうとしている自分に気づいて、少しだけ立ち止まる。なぜ、思おうとしているのか。その問いが、頭の中で形になりかけて、また霧の中に沈んでいく。沈んでいく。どこまでも、沈んでいく。
 階下から、母親の声がした。
「楓、ご飯できたわよ」
 その声が、聞こえた。確かに聞こえた。温かい声だった。昨夜と同じ声だった。でも——誰に向かって言っているのか、一瞬だけわからなかった。楓、という名前が、自分のことを指しているという実感が、どこかぼんやりしている。
 スマホを置いた。立ち上がろうとする。足が、少し重い。でも立ち上がれる。階段を降りれる。母親のところへ行ける。
「……うん」
 声が、どこかへ散っていく気がした。届いたかどうか、わからない。
《本日の活動目標:無事に帰宅すること》
 その文言が、頭の中に残っていた。それが誰に向けられた言葉なのか、なぜ自分がそれを知っているのか、すぐにはわからなかった。
 でも私は、立ち上がった。
 階段を降りた。
 リビングのドアを開けた。
 母親が、振り向く。
「おはよう、楓」
 その言葉が、届いた気がした。
 届いた——かどうか、もうわからなかった。