入部から十一日目の昼休み、私はスマホを握りしめながら、柊と椿と三人で旧校舎に向かった。
昼休みが始まって、すぐに教室を出た。廊下にはまだ生徒が残っていて、弁当を食べている人もいれば、友達と談笑している人もいる。でも私たちは誰とも話さず、ただ旧校舎に向かう。
渡り廊下に入る。窓から見える中庭には、何人かの生徒が座っている。昼休みの光が差し込んでいて、普通の昼下がりの光景だ。
でも、渡り廊下の途中——いつもは何もない壁の前で、私たちは足を止める。
「ここ」
椿が地図を確認しながら言う。アプリの地図に表示された場所は、ここだ。渡り廊下の途中、旧校舎と現校舎の間にある、ただの壁。
私たちは壁を見つめる。白いペンキが塗られた、普通の壁だ。窓もない。ドアもない。何もない。
でも——。
「時刻は?」
柊が壁から視線を外さずに聞く。椿がスマホを確認する。
「12時29分」
あと一分。
私たちは黙って壁の前に立つ。三人とも、何も言わない。ただ、時間が来るのを待つ。
渡り廊下を歩く生徒が、私たちの前を通り過ぎる。壁の前に立っている三人を不思議そうに見ていくが、誰も声をかけてこない。
12時30分。
スマホが三つ、同時に振動する。
画面を見ると、通知が表示されている。
《集合時刻になりました》
《入室してください》
入室——どこに。
顔を上げた瞬間、息が止まった。
壁に、扉がある。
さっきまで何もなかった場所に、古い木の扉がある。ペンキが剥がれていて、ドアノブが少し錆びている。扉の上に、小さな木の板が掛かっている。そこに、手書きで文字が書かれている。
「帰宅部」
三人は黙って扉を見つめる。誰も動かない。誰も扉に触れない。
さっき通り過ぎた生徒が、また戻ってくる。私たちの前を通り過ぎる。でも、扉を見ていない。壁を見ている。その生徒には、扉が見えていない。
「入るぞ」
柊が先に手を伸ばす。ドアノブを握る。ゆっくりと回す。
軋む音がする。
扉が開く。
中に入る。
異様に「普通」な部屋だった。
古い長机が二つ、L字型に配置されている。表面に細かい傷がたくさん入っていて、何年も使われてきたような古さだ。パイプ椅子が四つ、机の周りに置かれている。座面の布が少し破れている椅子もある。
ロッカーが壁際に五つ並んでいる。古い金属製のロッカーで、表面に錆が浮いている。それぞれのロッカーに小さな名札を入れるスリットがあるが、名札は入っていない。
黒板が正面の壁に掛かっている。普通の教室にあるような黒板だが、端が少し欠けている。
でも、細部がおかしい。
窓の外が、今の時刻と合わない夕方の景色になっている。オレンジ色の光が差し込んでいて、長い影が床に伸びている。でも今は昼休みだ。外は明るい昼の光のはずだ。渡り廊下の窓から見た中庭は、昼の光に照らされていた。
時計が壁に掛かっている。17時12分で止まっている。秒針が動いていない。完全に止まっている。
黒板の横に紙が貼ってある。「速やかに帰宅すること」と書かれている。文字が少し震えている。急いで書いたような文字だ。何かに怯えながら書いたような——。
突然、後ろで扉が閉まった。重い音を立てて。三人とも振り返る。でも、扉はただ閉まっているだけだ。取っ手はある。開けようと思えば開けられる。でも、なぜか誰も手を伸ばさなかった。
部屋の空気が、外と違う。少し冷たい。埃っぽい匂いがする。長い間、誰も換気していないような匂いだ。
「これ」
椿が黒板の横を指差す。出席簿が吊るされている。古い、ボロボロの出席簿だ。表紙が色褪せていて、角が破れている。
椿が出席簿を手に取って開く。私と柊は自然と引き寄せられるように覗き込んだ。
開いたページには、年度ごとに名前が並んでいた。最初のページは平成十五年度。そこから毎年、ページが続いている。
毎年、四人か五人の名前が書かれている。名前の横に、日付がある。入部日と思われる日付だ。4月10日、4月12日、4月15日——春の日付だ。
でも、多くの名前に赤い線が引かれている。斜めに、太く。その横に「未帰宅」という赤いスタンプが押されている。スタンプの文字が少し滲んでいる。何度も何度も押されたような滲み方だ。
一部だけ、「帰宅完了」という青いスタンプが押されている名前もある。でも少ない。一ページに一人か、多くても二人。ほとんどが「未帰宅」だ。
「こんなにたくさん……」
私は小さく呟く。ページをめくる。平成十六年度。また四人の名前。そのうち三人に赤い線。平成十七年度。五人の名前。全員に赤い線。平成十八年度——。
ページをめくるたびに、赤い線が増えていく。「未帰宅」のスタンプが増えていく。
最後のページ——今年度のページを開く。
五つの名前が書かれている。
伊藤由依。田村楓。柊壮介。山田椿。佐藤良樹。
伊藤由依の名前の横に、赤い線が引かれている。「未帰宅」のスタンプ。インクがまだ新しい。最近押されたスタンプだ。
佐藤良樹の名前の横にも、赤い線。「未帰宅」のスタンプ。こちらもインクが新しい。
田村楓、柊壮介、山田椿——この三つの名前には、まだ何も書かれていない。線も引かれていない。スタンプも押されていない。ただ、名前だけがある。入部日だけが書かれている。
「この出席簿、誰がつけてるんだろう」
思わず口から出た言葉だった。誰も答えられない。
毎年、春に誰かが名前を書き込む。毎年、何人かに赤い線を引く。毎年、「未帰宅」のスタンプを押す。誰が。なぜ。
柊が机の上に目を向ける。何かが置いてある。古いノート。茶色く変色していて、表紙が少し波打っている。
柊がノートを手に取って開く。手書きのメモが書かれている。
「これ、部活動記録みたいなもの?」
椿が柊の手元を覗き込む。私も隣から顔を寄せた。
最初のページに、タイトルが書かれている。「帰宅部 活動記録」。
ページをめくると、年度ごとの記録が続いていた。入部人数、帰宅成功者数、未帰宅者数——数字だけが、淡々と並んでいる。平成十五年度から始まって、毎年欠かさず。
数字を見ていると、吐き気がする。「未帰宅」という言葉の重さが、胸に圧し掛かってくる。
「帰宅成功した人は、どうなったの?」
気づいたら口に出していた。椿が無言でノートをめくる。
「帰宅成功者の記録」というページがある。そこに、いくつかの名前が書かれている。
「平成十五年度 帰宅成功 ○○○○(一年A組) 特記事項:友人が毎日校門で待っていた。下校時刻になると必ず校門に立っていた。一緒に帰宅していた」
「平成十六年度 帰宅成功 △△△△(一年C組) 特記事項:母親が毎日電話をかけてきた。放課後になると必ず『今日は何時に帰るの』と確認していた」
「平成十六年度 帰宅成功 □□□□(一年B組) 特記事項:姉が毎日メッセージを送っていた。『ご飯何食べたい』『今日何があった』と毎日」
「平成十九年度 帰宅成功 ◇◇◇◇(一年B組) 特記事項:担任が毎日声をかけていた。『ちゃんと帰れよ』『また明日な』と毎日」
田中先生が職員室で言っていた通りだ——帰れた生徒には、必ず誰かがいた。でもこのノートを見ると、その「誰か」の具体的な姿が見えてくる。毎日、声をかけていた。毎日、待っていた。毎日、メッセージを送っていた。ただ「いる」だけじゃない。能動的に、その生徒のことを思い続けている。
私は美咲のことを思い出す。教室で心配そうに私を見つめてきた目。でも美咲は毎日校門で待っているわけじゃない。電話をかけてくるわけでもない。それは——足りないのか。
「筆跡が一人じゃない」
柊がページを見比べながら言う。椿が少し考えてから、首を横に振る。
「田中先生だけが書いたわけじゃない。何種類もある。いろんな人が書いてる」
ページをめくると、確かに筆跡が変わる。最初のページは丁寧な字で書かれているが、途中から雑な字になり、また別の丁寧な字になり——何人もの人間が、このノートに記録を残している。
「帰宅部のことを知っている人が、何人もいたってこと?」
頭の中で疑問が広がっていくのを感じながら、私は呟いた。
「でも、みんな忘れる。だから、記録だけが残る」
椿がノートに視線を落としたまま答える。
柊がノートの別のページを開く。「未帰宅者の記録」というページがある。
そこには、消えた生徒たちの名前が並んでいる。出席簿の赤い線の名前と同じだ。でも、ここには詳細が書かれている。
「平成十五年度 未帰宅 ××××(一年D組) 最終確認時刻:17時05分 校門付近 その後行方不明 翌日記録消失」
「平成十六年度 未帰宅 ▽▽▽▽(一年A組) 最終確認時刻:17時20分 商店街 その後行方不明 翌日記録消失」
「平成十七年度 未帰宅 ◆◆◆◆(一年C組) 最終確認時刻:17時15分 住宅街 その後行方不明 翌日記録消失」
全員、17時台に消えている。全員、下校中に消えている。そして全員、翌日には記録が消えている。
私たちは部屋の中を見回す。古い机、古い椅子、古いロッカー、古いノート——全てが古い。全てが、何年も前からここにあったような古さだ。
でも、この部屋は昨日まで存在しなかった。渡り廊下の壁は、ただの壁だった。今日、12時30分になって、急に扉が現れた。
「ここは、いつからあるんだろう」
言葉が口から零れた。誰も答えない。
柊がロッカーに近づく。五つのロッカーが並んでいる。一つ目のロッカーに手をかける。
「待って」
椿が柊の腕を掴む。
「何か、嫌な予感がする」
柊は椿の手を静かに外して、ゆっくりと、慎重にロッカーを開ける。
中に、何かが入っている。
メガネケース。
柊がそっと取り出す。小さな名札が貼り付けられていた。マスキングテープに、手書きで名前が書かれている。
「伊藤由依」
私の心臓が大きく跳ねる。伊藤由依のメガネケース。消えた生徒の持ち物。
柊が次のロッカーを開ける。中に、スマホの充電器が入っている。白い充電器で、コードが少し絡まっている。名前は書いていないが、おそらく佐藤良樹のものだろう。
三つ目、四つ目、五つ目のロッカーを開ける。全部空だ。三つの空のロッカーが並んでいる。でも——いつか、ここに私たちの持ち物が入るのかもしれない。
私のスマホだけが振動する。
アプリを開く。音声が再生され始める。
断片的な声。女の子の声。途切れ途切れの声。
「道、間違えたわけじゃないのに」
伊藤由依の声だ。少し震えている。
「経路通りに歩いてたのに」
「アプリの指示通りだったのに」
「家の前まで来たのに」
「鍵を開けようとしたのに」
「開かなくて」
「何度やっても開かなくて」
声が少し大きくなる。
「中から物音がしてたのに」
「テレビの音が聞こえたのに」
「誰かいるのに」
「返事がない」
「ドアを叩いても」
「何度叩いても」
「開けてくれない」
声が震える。
「お母さん、私だよ」
「開けてよ」
「なんで開けてくれないの」
「だから…………」
長い沈黙。
「だから、まだここにいる」
声が途切れる。
私はスマホを握りしめる。手が震えている。伊藤由依の最後の声。家の前で、ドアを叩きながら、母親に呼びかけながら——でも、開けてもらえなかった。
三人は黙っている。誰も何も言わない。静かな部屋に、何の音もしない。時計は止まっている。窓の外の景色も止まっている。この部屋全体が、ある時刻で止まっている。
「家に着いても、帰宅成功じゃないのか」
スマホの音声が途切れた後、柊が静かに呟いた。
「家に着くだけじゃ足りない。中に入れないと——」
椿が静かに続ける。
「鍵が開いて、中に入れて、それで初めて帰宅成功?」
私は二人の顔を交互に見ながら聞いた。でも、誰も答えられなかった。
でも、伊藤由依は家の前まで来た。経路通りに歩いた。アプリの指示通りだった。でも、鍵が開かなかった。中に誰かいるのに、返事がなかった。ドアを叩いても、開けてもらえなかった。
だから、帰宅に失敗した。
だから、消えた。
私は自分の家のことを思い出す。「ただいま」に返事がない家。でも、鍵は開く。中に入れる。それは帰宅成功なのか。それとも——。
椿が窓に近づいて、外を見た。
「この景色、動かない」
椿が窓ガラスに手を当てながら呟く。
「空の雲が、止まってる。木の枝も揺れてない」
私も窓に近づく。確かに、雲が止まっている。風に流されない。静止している。校庭の木の枝も、完全に止まっている。
「この部屋は、ある時刻で止まってる」
柊が時計を見ながら言う。
「17時12分。誰かが帰宅に失敗した時刻」
「伊藤さんが?」
「わからない。でも——この部屋はその時刻で止まってる」
私は黒板を見る。「速やかに帰宅すること」という文字。誰が書いたのか。いつ書いたのか。なぜこの部屋に残っているのか。
出席簿を見る。赤い線だらけのページ。「未帰宅」のスタンプだらけのページ。毎年、春に、何人かが消える。毎年、赤い線が増える。
窓を見る。止まった夕方の景色。17時12分で止まった時計。
この部屋は、帰宅に失敗した生徒たちの記録だ。消えた生徒たちの痕跡だ。誰も覚えていない生徒たちの、最後の居場所だ。
私はロッカーを見る。伊藤由依のメガネケース。佐藤良樹の充電器。そして、まだ何も入っていない空のロッカーが三つある。
「来年も誰かが入るんだと思う。帰宅部に」
椿が部屋の中を見渡しながら呟いた。
「そして消える」
柊が続ける。その声に感情はない。
私は何も言えなかった。
「毎年」
椿が最後にその一言を落とした。
しばらく誰も動かなかった。私はふと、長机の横のパイプ椅子を引いて腰を下ろした。机の表面を見ると、細かい傷がたくさん入っている。よく見ると、傷の中にうっすらと文字が刻まれている。
「帰りたい」
小さな文字だった。爪か何か尖ったもので、深く刻みつけたような跡。
別の場所にも文字がある。
「家に帰れない」
「助けて」
「誰か」
机の表面に、いくつもの文字が刻まれている。全部、帰宅に失敗した生徒たちが残した言葉だ。
私は指で文字をなぞる。机の表面が、冷たい。
その時、外からチャイムが聞こえてきた。昼休みの終わりを告げる音が、この部屋には酷くそぐわない。この部屋の中では時計が17時12分で止まったままだ。
◇
「楓ちゃん!」
突然、扉の向こうから声がした。私は反射的に振り向く。柊と椿も同時に振り向く。
美咲の声だ。
「楓ちゃん、出てきて!」
でも、美咲にこの部屋の場所を教えていない。どうしてここがわかったのか。美咲は帰宅部のことを知らない。アプリも持っていない。なのに、なぜ——。私はその疑問が浮かんで、でも答えられなくて、ただ扉を見つめる。
私は立ち上がろうとする。でも、椿が私の腕を掴む。
「待って。本当に美咲?」
「美咲の声だよ」
「でも——」
「楓ちゃん!」
その声で、止まっていた時計が一瞬だけ動く。カチッという音がする。17時12分から17時13分へ。針が動く。
窓の外の夕方の景色が揺れる。雲が少しだけ動く。木の枝が少し揺れる。
「時計が動いた」
柊が時計を指差しながら言う。
「美咲の声で」
私は立ち上がる。
「行こう」
「でも——」
椿が私の腕を掴む。
「美咲が呼んでる」
「本当に美咲か?」
柊が鋭い目で私を見る。
私は一瞬止まる。美咲に通知が来たと言っていた。証拠はない。でもこの声は扉の外にいる。美咲の声だ。私の友達の声だ。
「行く」
私は柊の目を見て言った。
三人で扉に向かう。扉を開けようとすると、重い。ドアノブが動かない。まるで、開けさせないように抵抗しているような重さだ。
思い切って体重をかけると、扉が開いた。昼の光が一気に差し込んでくる。
扉の前に美咲がいる。息を切らしていて、顔が赤い。髪が少し乱れている。
「なんでここにいるの!? 探したんだよ!?」
美咲が走ってくる。私の肩を掴む。その手が震えている。
「教室にいなくて、図書室にもいなくて、旧校舎かなって思って——なんでこんなところに!?」
私は美咲を見る。本当に心配そうな顔をしている。嘘をついている様子はない。本当に、私のことを探していた。
振り返ると、扉がない。
壁に戻っている。
さっきまで扉があった場所に、ただの白い壁がある。何もない。普通の渡り廊下の壁だ。
アプリが振動する。
《昼休み終了》
《放課後は速やかに帰宅すること》
画面を見てから、私は美咲に向き直った。
「なんでここがわかったの」
思わず聞いていた。美咲が少し困ったような顔をする。
「なんとなく、楓ちゃんがここにいる気がして。気づいたらここに来てた」
その『なんとなく』が何なのか、私にはわからない。美咲には扉が見えなかった。でも、私がここにいることはわかった。その声で時計が動いた。なぜここに辿り着けたのか——答えは出ない。
柊と椿が顔を見合わせる。二人とも、何かを考えている顔だ。
「美咲、ありがとう」
私は美咲の顔を見ながら言った。美咲が笑顔を浮かべる。
「何のお礼? でも、次は教室にいてよね。心配したんだから」
美咲が私の手を引いた。柊と椿が無言で顔を見合わせてから、別の方向へ歩いていく。私は美咲に引かれるまま、教室へ向かった。
「楓ちゃん、大丈夫?」
廊下を歩きながら、美咲が私の顔を覗き込む。
「大丈夫。本当に」
「……わかった。でも、困ったことがあったら言ってね」
美咲は優しい。本当に、私のことを心配してくれている。
教室に戻って、それぞれの席に着いた。
私は考え続ける。美咲が呼んでくれた。その声で、時計が動いた。景色が揺れた。
伊藤由依は、呼んでくれる人間がいなかったのかもしれない。家の前まで来て、中に誰かいるのに、返事がなかった。ドアを叩いても、開けてもらえなかった。
でも私には美咲がいる。呼んでくれる人がいる。
それは、私が消えない理由になるのか。
私にはわからない。まだ、何かが足りない気がする。
◇
放課後、私は一人で帰った。
美咲は部活があった。「じゃあまた明日ね」と言って、音楽室に向かっていった。いつもの笑顔で、手を振って。
私は校門を出て、アプリの指示通りに歩く。今日の経路は昨日と同じだ。商店街を通る。
歩きながら、部室のことを考える。止まった時計。夕方の景色。出席簿。赤い線だらけのページ。伊藤由依の声。机に刻まれた文字——「帰りたい」「家に帰れない」「助けて」「誰か」。
消えた生徒たちが残した言葉。誰にも届かなかった言葉。
商店街を抜ける。住宅街に入る。夕方の光の中を歩く。あちこちの家から、誰かと誰かが一緒にいる音が聞こえてくる。私の家には、そういう音がない。「ただいま」に返事がない。
家が見えてくる。門の前の花が、今日も咲いている。誰も見ていないのに。
玄関の鍵を差し込んで、ドアを開けた。
「ただいま」
返事はない。いつも通りだ。
私は部屋に入って、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
でも部員一覧を開いて、自分の名前を見る。
やっぱり薄い。部室で見た出席簿の赤い線が頭に浮かぶ。いつか、私の名前にも赤い線が引かれるのか。
スマホを置いて、天井を見つめる。何が足りないのか。答えは、まだ見つからない。
◇
翌日——入部から十二日目の昼休み、三人は図書室の奥で集まった。
「昨日のこと、整理しよう」
椿がノートを開く。そこに、箇条書きでメモが書かれている。
「部室は12時30分に出現した。出席簿、ロッカー、記録ノートがあった。時計は17時12分で止まっていた。窓の外は夕方の景色で、雲が動いていなかった」
柊が続ける。
「伊藤由依の音声記録。家の前まで来たのに、鍵が開かなかった。中に誰かいるのに、開けてもらえなかった」
私が続ける。
「美咲が呼んでくれた。その声で、時計が動いた。17時12分から17時13分へ」
「美咲が扉の場所を知っていたこと」
椿が付け加える。
「帰宅部アプリが見えない美咲が、なぜ楓がそこにいるとわかったのか」
三人は黙る。その「なんとなく」の意味を、誰も説明できない。でも確かに起きたことだ。
「帰宅成功の条件って、何なんだろう」
私は小さく呟く。
「記録ノートには書いてあった」
柊がそう言いながら、椿のノートの該当箇所を指差す。
「毎日、待っていてくれる誰かが。毎日、声をかけてくれる誰かが」
「でも、楓の名前は薄くなってる」
椿がアプリの画面を見つめたまま言う。
「美咲がいる。俺たちがいる。なのに、薄くなってる」
私は頷いて、自分のスマホを取り出してアプリを開き、部員一覧を二人に見せる。田村楓の名前が、確かに薄くなっている。
「誰かがいるだけじゃ、足りないのかもしれない」
椿がペンを止めて、ノートを見つめながら続ける。
「美咲は楓を心配してくれてる。でも毎日校門で待っているわけじゃない。記録ノートの成功者たちは、全員毎日何かをしていた。毎日電話、毎日メッセージ、毎日校門——能動的に、継続的に」
「じゃあ、そういう人間がいることだけが条件なのか」
柊が腕を組んで言う。
「ただ——伊藤由依は、中に人がいたのに開けてもらえなかった。家族がいても、ダメだった」
三人はしばらく黙る。家族がいても帰れない。誰かが心配してくれていても足りないかもしれない。では——何が決定的に必要なのか。答えが出そうで出ない。霧の中に手を伸ばしているような感覚だ。
答えは出ないまま、チャイムが鳴った。三人は立ち上がる。
「今日も、完璧に帰ろう」
柊が前を向いたまま言う。誰も何も返さなかった。ただ頷いて、それぞれの教室に戻っていく。廊下を歩きながら、机に刻まれた文字が頭から離れない。「帰りたい」「家に帰れない」「助けて」「誰か」——あの言葉を刻んだ生徒たちは、何を求めていたのか。
◇
その夜、スマホに通知が来た。
深夜、ベッドで横になっているとき、スマホが振動する。時計を見ると、夜中の一時だった。
私は慌ててスマホを取る。帰宅部アプリからの通知だ。
《まだ帰れていない部員がいます》
以前にも届いた通知だ。でも今回は、あのときより重く感じられる。あのときはまだ、自分の名前がここまで薄くなっていなかった。
私はアプリの部員一覧を開く。
田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前がある。
でも——私の名前が、また薄くなっている。
画面を閉じる。もう一度開く。薄い。確実に、薄い。昼に部室で見た出席簿の赤い線が脳裏に浮かぶ。このまま薄くなり続けたら——。
まだ帰れていない部員——それは、私のことか。でも、今日ちゃんと帰れた。《本日の活動:成功》という通知も受け取った。なのに——まだ帰れていない?
私はベッドに座って、暗い部屋の中でスマホを見つめた。画面の光だけが、顔を照らしている。
考える。家に着いた。鍵は開いた。中に入れた。でも——誰も私の帰りを待っていなかった。誰も、私がそこにいることを喜んでいなかった。「ただいま」に返事がなかった。
住宅街で聞こえた声を思い出す。「やった!」と言う子どもの声。「うん、うん」と言う母親の声。誰かの帰りを喜ぶ声。誰かの話を聞く声。私の家には、そういう声がない。それが、帰宅成功と関係しているのか。
答えは、まだわからない。でも——何かが足りない。決定的に、何かが。
暗い天井を見つめる。窓の外からは虫の鳴き声が聞こえてきて、遠くで車の音がする。普通の夜だ。何も変わらない、いつもと同じ夜。
翌朝、《まだ帰れていない部員がいます》という通知は消えていた。代わりに、いつもの文言だけが残っていた。
《本日の活動目標:無事に帰宅すること》
私の名前は、今日も薄かった。昨日より、少しだけ。
昼休みが始まって、すぐに教室を出た。廊下にはまだ生徒が残っていて、弁当を食べている人もいれば、友達と談笑している人もいる。でも私たちは誰とも話さず、ただ旧校舎に向かう。
渡り廊下に入る。窓から見える中庭には、何人かの生徒が座っている。昼休みの光が差し込んでいて、普通の昼下がりの光景だ。
でも、渡り廊下の途中——いつもは何もない壁の前で、私たちは足を止める。
「ここ」
椿が地図を確認しながら言う。アプリの地図に表示された場所は、ここだ。渡り廊下の途中、旧校舎と現校舎の間にある、ただの壁。
私たちは壁を見つめる。白いペンキが塗られた、普通の壁だ。窓もない。ドアもない。何もない。
でも——。
「時刻は?」
柊が壁から視線を外さずに聞く。椿がスマホを確認する。
「12時29分」
あと一分。
私たちは黙って壁の前に立つ。三人とも、何も言わない。ただ、時間が来るのを待つ。
渡り廊下を歩く生徒が、私たちの前を通り過ぎる。壁の前に立っている三人を不思議そうに見ていくが、誰も声をかけてこない。
12時30分。
スマホが三つ、同時に振動する。
画面を見ると、通知が表示されている。
《集合時刻になりました》
《入室してください》
入室——どこに。
顔を上げた瞬間、息が止まった。
壁に、扉がある。
さっきまで何もなかった場所に、古い木の扉がある。ペンキが剥がれていて、ドアノブが少し錆びている。扉の上に、小さな木の板が掛かっている。そこに、手書きで文字が書かれている。
「帰宅部」
三人は黙って扉を見つめる。誰も動かない。誰も扉に触れない。
さっき通り過ぎた生徒が、また戻ってくる。私たちの前を通り過ぎる。でも、扉を見ていない。壁を見ている。その生徒には、扉が見えていない。
「入るぞ」
柊が先に手を伸ばす。ドアノブを握る。ゆっくりと回す。
軋む音がする。
扉が開く。
中に入る。
異様に「普通」な部屋だった。
古い長机が二つ、L字型に配置されている。表面に細かい傷がたくさん入っていて、何年も使われてきたような古さだ。パイプ椅子が四つ、机の周りに置かれている。座面の布が少し破れている椅子もある。
ロッカーが壁際に五つ並んでいる。古い金属製のロッカーで、表面に錆が浮いている。それぞれのロッカーに小さな名札を入れるスリットがあるが、名札は入っていない。
黒板が正面の壁に掛かっている。普通の教室にあるような黒板だが、端が少し欠けている。
でも、細部がおかしい。
窓の外が、今の時刻と合わない夕方の景色になっている。オレンジ色の光が差し込んでいて、長い影が床に伸びている。でも今は昼休みだ。外は明るい昼の光のはずだ。渡り廊下の窓から見た中庭は、昼の光に照らされていた。
時計が壁に掛かっている。17時12分で止まっている。秒針が動いていない。完全に止まっている。
黒板の横に紙が貼ってある。「速やかに帰宅すること」と書かれている。文字が少し震えている。急いで書いたような文字だ。何かに怯えながら書いたような——。
突然、後ろで扉が閉まった。重い音を立てて。三人とも振り返る。でも、扉はただ閉まっているだけだ。取っ手はある。開けようと思えば開けられる。でも、なぜか誰も手を伸ばさなかった。
部屋の空気が、外と違う。少し冷たい。埃っぽい匂いがする。長い間、誰も換気していないような匂いだ。
「これ」
椿が黒板の横を指差す。出席簿が吊るされている。古い、ボロボロの出席簿だ。表紙が色褪せていて、角が破れている。
椿が出席簿を手に取って開く。私と柊は自然と引き寄せられるように覗き込んだ。
開いたページには、年度ごとに名前が並んでいた。最初のページは平成十五年度。そこから毎年、ページが続いている。
毎年、四人か五人の名前が書かれている。名前の横に、日付がある。入部日と思われる日付だ。4月10日、4月12日、4月15日——春の日付だ。
でも、多くの名前に赤い線が引かれている。斜めに、太く。その横に「未帰宅」という赤いスタンプが押されている。スタンプの文字が少し滲んでいる。何度も何度も押されたような滲み方だ。
一部だけ、「帰宅完了」という青いスタンプが押されている名前もある。でも少ない。一ページに一人か、多くても二人。ほとんどが「未帰宅」だ。
「こんなにたくさん……」
私は小さく呟く。ページをめくる。平成十六年度。また四人の名前。そのうち三人に赤い線。平成十七年度。五人の名前。全員に赤い線。平成十八年度——。
ページをめくるたびに、赤い線が増えていく。「未帰宅」のスタンプが増えていく。
最後のページ——今年度のページを開く。
五つの名前が書かれている。
伊藤由依。田村楓。柊壮介。山田椿。佐藤良樹。
伊藤由依の名前の横に、赤い線が引かれている。「未帰宅」のスタンプ。インクがまだ新しい。最近押されたスタンプだ。
佐藤良樹の名前の横にも、赤い線。「未帰宅」のスタンプ。こちらもインクが新しい。
田村楓、柊壮介、山田椿——この三つの名前には、まだ何も書かれていない。線も引かれていない。スタンプも押されていない。ただ、名前だけがある。入部日だけが書かれている。
「この出席簿、誰がつけてるんだろう」
思わず口から出た言葉だった。誰も答えられない。
毎年、春に誰かが名前を書き込む。毎年、何人かに赤い線を引く。毎年、「未帰宅」のスタンプを押す。誰が。なぜ。
柊が机の上に目を向ける。何かが置いてある。古いノート。茶色く変色していて、表紙が少し波打っている。
柊がノートを手に取って開く。手書きのメモが書かれている。
「これ、部活動記録みたいなもの?」
椿が柊の手元を覗き込む。私も隣から顔を寄せた。
最初のページに、タイトルが書かれている。「帰宅部 活動記録」。
ページをめくると、年度ごとの記録が続いていた。入部人数、帰宅成功者数、未帰宅者数——数字だけが、淡々と並んでいる。平成十五年度から始まって、毎年欠かさず。
数字を見ていると、吐き気がする。「未帰宅」という言葉の重さが、胸に圧し掛かってくる。
「帰宅成功した人は、どうなったの?」
気づいたら口に出していた。椿が無言でノートをめくる。
「帰宅成功者の記録」というページがある。そこに、いくつかの名前が書かれている。
「平成十五年度 帰宅成功 ○○○○(一年A組) 特記事項:友人が毎日校門で待っていた。下校時刻になると必ず校門に立っていた。一緒に帰宅していた」
「平成十六年度 帰宅成功 △△△△(一年C組) 特記事項:母親が毎日電話をかけてきた。放課後になると必ず『今日は何時に帰るの』と確認していた」
「平成十六年度 帰宅成功 □□□□(一年B組) 特記事項:姉が毎日メッセージを送っていた。『ご飯何食べたい』『今日何があった』と毎日」
「平成十九年度 帰宅成功 ◇◇◇◇(一年B組) 特記事項:担任が毎日声をかけていた。『ちゃんと帰れよ』『また明日な』と毎日」
田中先生が職員室で言っていた通りだ——帰れた生徒には、必ず誰かがいた。でもこのノートを見ると、その「誰か」の具体的な姿が見えてくる。毎日、声をかけていた。毎日、待っていた。毎日、メッセージを送っていた。ただ「いる」だけじゃない。能動的に、その生徒のことを思い続けている。
私は美咲のことを思い出す。教室で心配そうに私を見つめてきた目。でも美咲は毎日校門で待っているわけじゃない。電話をかけてくるわけでもない。それは——足りないのか。
「筆跡が一人じゃない」
柊がページを見比べながら言う。椿が少し考えてから、首を横に振る。
「田中先生だけが書いたわけじゃない。何種類もある。いろんな人が書いてる」
ページをめくると、確かに筆跡が変わる。最初のページは丁寧な字で書かれているが、途中から雑な字になり、また別の丁寧な字になり——何人もの人間が、このノートに記録を残している。
「帰宅部のことを知っている人が、何人もいたってこと?」
頭の中で疑問が広がっていくのを感じながら、私は呟いた。
「でも、みんな忘れる。だから、記録だけが残る」
椿がノートに視線を落としたまま答える。
柊がノートの別のページを開く。「未帰宅者の記録」というページがある。
そこには、消えた生徒たちの名前が並んでいる。出席簿の赤い線の名前と同じだ。でも、ここには詳細が書かれている。
「平成十五年度 未帰宅 ××××(一年D組) 最終確認時刻:17時05分 校門付近 その後行方不明 翌日記録消失」
「平成十六年度 未帰宅 ▽▽▽▽(一年A組) 最終確認時刻:17時20分 商店街 その後行方不明 翌日記録消失」
「平成十七年度 未帰宅 ◆◆◆◆(一年C組) 最終確認時刻:17時15分 住宅街 その後行方不明 翌日記録消失」
全員、17時台に消えている。全員、下校中に消えている。そして全員、翌日には記録が消えている。
私たちは部屋の中を見回す。古い机、古い椅子、古いロッカー、古いノート——全てが古い。全てが、何年も前からここにあったような古さだ。
でも、この部屋は昨日まで存在しなかった。渡り廊下の壁は、ただの壁だった。今日、12時30分になって、急に扉が現れた。
「ここは、いつからあるんだろう」
言葉が口から零れた。誰も答えない。
柊がロッカーに近づく。五つのロッカーが並んでいる。一つ目のロッカーに手をかける。
「待って」
椿が柊の腕を掴む。
「何か、嫌な予感がする」
柊は椿の手を静かに外して、ゆっくりと、慎重にロッカーを開ける。
中に、何かが入っている。
メガネケース。
柊がそっと取り出す。小さな名札が貼り付けられていた。マスキングテープに、手書きで名前が書かれている。
「伊藤由依」
私の心臓が大きく跳ねる。伊藤由依のメガネケース。消えた生徒の持ち物。
柊が次のロッカーを開ける。中に、スマホの充電器が入っている。白い充電器で、コードが少し絡まっている。名前は書いていないが、おそらく佐藤良樹のものだろう。
三つ目、四つ目、五つ目のロッカーを開ける。全部空だ。三つの空のロッカーが並んでいる。でも——いつか、ここに私たちの持ち物が入るのかもしれない。
私のスマホだけが振動する。
アプリを開く。音声が再生され始める。
断片的な声。女の子の声。途切れ途切れの声。
「道、間違えたわけじゃないのに」
伊藤由依の声だ。少し震えている。
「経路通りに歩いてたのに」
「アプリの指示通りだったのに」
「家の前まで来たのに」
「鍵を開けようとしたのに」
「開かなくて」
「何度やっても開かなくて」
声が少し大きくなる。
「中から物音がしてたのに」
「テレビの音が聞こえたのに」
「誰かいるのに」
「返事がない」
「ドアを叩いても」
「何度叩いても」
「開けてくれない」
声が震える。
「お母さん、私だよ」
「開けてよ」
「なんで開けてくれないの」
「だから…………」
長い沈黙。
「だから、まだここにいる」
声が途切れる。
私はスマホを握りしめる。手が震えている。伊藤由依の最後の声。家の前で、ドアを叩きながら、母親に呼びかけながら——でも、開けてもらえなかった。
三人は黙っている。誰も何も言わない。静かな部屋に、何の音もしない。時計は止まっている。窓の外の景色も止まっている。この部屋全体が、ある時刻で止まっている。
「家に着いても、帰宅成功じゃないのか」
スマホの音声が途切れた後、柊が静かに呟いた。
「家に着くだけじゃ足りない。中に入れないと——」
椿が静かに続ける。
「鍵が開いて、中に入れて、それで初めて帰宅成功?」
私は二人の顔を交互に見ながら聞いた。でも、誰も答えられなかった。
でも、伊藤由依は家の前まで来た。経路通りに歩いた。アプリの指示通りだった。でも、鍵が開かなかった。中に誰かいるのに、返事がなかった。ドアを叩いても、開けてもらえなかった。
だから、帰宅に失敗した。
だから、消えた。
私は自分の家のことを思い出す。「ただいま」に返事がない家。でも、鍵は開く。中に入れる。それは帰宅成功なのか。それとも——。
椿が窓に近づいて、外を見た。
「この景色、動かない」
椿が窓ガラスに手を当てながら呟く。
「空の雲が、止まってる。木の枝も揺れてない」
私も窓に近づく。確かに、雲が止まっている。風に流されない。静止している。校庭の木の枝も、完全に止まっている。
「この部屋は、ある時刻で止まってる」
柊が時計を見ながら言う。
「17時12分。誰かが帰宅に失敗した時刻」
「伊藤さんが?」
「わからない。でも——この部屋はその時刻で止まってる」
私は黒板を見る。「速やかに帰宅すること」という文字。誰が書いたのか。いつ書いたのか。なぜこの部屋に残っているのか。
出席簿を見る。赤い線だらけのページ。「未帰宅」のスタンプだらけのページ。毎年、春に、何人かが消える。毎年、赤い線が増える。
窓を見る。止まった夕方の景色。17時12分で止まった時計。
この部屋は、帰宅に失敗した生徒たちの記録だ。消えた生徒たちの痕跡だ。誰も覚えていない生徒たちの、最後の居場所だ。
私はロッカーを見る。伊藤由依のメガネケース。佐藤良樹の充電器。そして、まだ何も入っていない空のロッカーが三つある。
「来年も誰かが入るんだと思う。帰宅部に」
椿が部屋の中を見渡しながら呟いた。
「そして消える」
柊が続ける。その声に感情はない。
私は何も言えなかった。
「毎年」
椿が最後にその一言を落とした。
しばらく誰も動かなかった。私はふと、長机の横のパイプ椅子を引いて腰を下ろした。机の表面を見ると、細かい傷がたくさん入っている。よく見ると、傷の中にうっすらと文字が刻まれている。
「帰りたい」
小さな文字だった。爪か何か尖ったもので、深く刻みつけたような跡。
別の場所にも文字がある。
「家に帰れない」
「助けて」
「誰か」
机の表面に、いくつもの文字が刻まれている。全部、帰宅に失敗した生徒たちが残した言葉だ。
私は指で文字をなぞる。机の表面が、冷たい。
その時、外からチャイムが聞こえてきた。昼休みの終わりを告げる音が、この部屋には酷くそぐわない。この部屋の中では時計が17時12分で止まったままだ。
◇
「楓ちゃん!」
突然、扉の向こうから声がした。私は反射的に振り向く。柊と椿も同時に振り向く。
美咲の声だ。
「楓ちゃん、出てきて!」
でも、美咲にこの部屋の場所を教えていない。どうしてここがわかったのか。美咲は帰宅部のことを知らない。アプリも持っていない。なのに、なぜ——。私はその疑問が浮かんで、でも答えられなくて、ただ扉を見つめる。
私は立ち上がろうとする。でも、椿が私の腕を掴む。
「待って。本当に美咲?」
「美咲の声だよ」
「でも——」
「楓ちゃん!」
その声で、止まっていた時計が一瞬だけ動く。カチッという音がする。17時12分から17時13分へ。針が動く。
窓の外の夕方の景色が揺れる。雲が少しだけ動く。木の枝が少し揺れる。
「時計が動いた」
柊が時計を指差しながら言う。
「美咲の声で」
私は立ち上がる。
「行こう」
「でも——」
椿が私の腕を掴む。
「美咲が呼んでる」
「本当に美咲か?」
柊が鋭い目で私を見る。
私は一瞬止まる。美咲に通知が来たと言っていた。証拠はない。でもこの声は扉の外にいる。美咲の声だ。私の友達の声だ。
「行く」
私は柊の目を見て言った。
三人で扉に向かう。扉を開けようとすると、重い。ドアノブが動かない。まるで、開けさせないように抵抗しているような重さだ。
思い切って体重をかけると、扉が開いた。昼の光が一気に差し込んでくる。
扉の前に美咲がいる。息を切らしていて、顔が赤い。髪が少し乱れている。
「なんでここにいるの!? 探したんだよ!?」
美咲が走ってくる。私の肩を掴む。その手が震えている。
「教室にいなくて、図書室にもいなくて、旧校舎かなって思って——なんでこんなところに!?」
私は美咲を見る。本当に心配そうな顔をしている。嘘をついている様子はない。本当に、私のことを探していた。
振り返ると、扉がない。
壁に戻っている。
さっきまで扉があった場所に、ただの白い壁がある。何もない。普通の渡り廊下の壁だ。
アプリが振動する。
《昼休み終了》
《放課後は速やかに帰宅すること》
画面を見てから、私は美咲に向き直った。
「なんでここがわかったの」
思わず聞いていた。美咲が少し困ったような顔をする。
「なんとなく、楓ちゃんがここにいる気がして。気づいたらここに来てた」
その『なんとなく』が何なのか、私にはわからない。美咲には扉が見えなかった。でも、私がここにいることはわかった。その声で時計が動いた。なぜここに辿り着けたのか——答えは出ない。
柊と椿が顔を見合わせる。二人とも、何かを考えている顔だ。
「美咲、ありがとう」
私は美咲の顔を見ながら言った。美咲が笑顔を浮かべる。
「何のお礼? でも、次は教室にいてよね。心配したんだから」
美咲が私の手を引いた。柊と椿が無言で顔を見合わせてから、別の方向へ歩いていく。私は美咲に引かれるまま、教室へ向かった。
「楓ちゃん、大丈夫?」
廊下を歩きながら、美咲が私の顔を覗き込む。
「大丈夫。本当に」
「……わかった。でも、困ったことがあったら言ってね」
美咲は優しい。本当に、私のことを心配してくれている。
教室に戻って、それぞれの席に着いた。
私は考え続ける。美咲が呼んでくれた。その声で、時計が動いた。景色が揺れた。
伊藤由依は、呼んでくれる人間がいなかったのかもしれない。家の前まで来て、中に誰かいるのに、返事がなかった。ドアを叩いても、開けてもらえなかった。
でも私には美咲がいる。呼んでくれる人がいる。
それは、私が消えない理由になるのか。
私にはわからない。まだ、何かが足りない気がする。
◇
放課後、私は一人で帰った。
美咲は部活があった。「じゃあまた明日ね」と言って、音楽室に向かっていった。いつもの笑顔で、手を振って。
私は校門を出て、アプリの指示通りに歩く。今日の経路は昨日と同じだ。商店街を通る。
歩きながら、部室のことを考える。止まった時計。夕方の景色。出席簿。赤い線だらけのページ。伊藤由依の声。机に刻まれた文字——「帰りたい」「家に帰れない」「助けて」「誰か」。
消えた生徒たちが残した言葉。誰にも届かなかった言葉。
商店街を抜ける。住宅街に入る。夕方の光の中を歩く。あちこちの家から、誰かと誰かが一緒にいる音が聞こえてくる。私の家には、そういう音がない。「ただいま」に返事がない。
家が見えてくる。門の前の花が、今日も咲いている。誰も見ていないのに。
玄関の鍵を差し込んで、ドアを開けた。
「ただいま」
返事はない。いつも通りだ。
私は部屋に入って、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
でも部員一覧を開いて、自分の名前を見る。
やっぱり薄い。部室で見た出席簿の赤い線が頭に浮かぶ。いつか、私の名前にも赤い線が引かれるのか。
スマホを置いて、天井を見つめる。何が足りないのか。答えは、まだ見つからない。
◇
翌日——入部から十二日目の昼休み、三人は図書室の奥で集まった。
「昨日のこと、整理しよう」
椿がノートを開く。そこに、箇条書きでメモが書かれている。
「部室は12時30分に出現した。出席簿、ロッカー、記録ノートがあった。時計は17時12分で止まっていた。窓の外は夕方の景色で、雲が動いていなかった」
柊が続ける。
「伊藤由依の音声記録。家の前まで来たのに、鍵が開かなかった。中に誰かいるのに、開けてもらえなかった」
私が続ける。
「美咲が呼んでくれた。その声で、時計が動いた。17時12分から17時13分へ」
「美咲が扉の場所を知っていたこと」
椿が付け加える。
「帰宅部アプリが見えない美咲が、なぜ楓がそこにいるとわかったのか」
三人は黙る。その「なんとなく」の意味を、誰も説明できない。でも確かに起きたことだ。
「帰宅成功の条件って、何なんだろう」
私は小さく呟く。
「記録ノートには書いてあった」
柊がそう言いながら、椿のノートの該当箇所を指差す。
「毎日、待っていてくれる誰かが。毎日、声をかけてくれる誰かが」
「でも、楓の名前は薄くなってる」
椿がアプリの画面を見つめたまま言う。
「美咲がいる。俺たちがいる。なのに、薄くなってる」
私は頷いて、自分のスマホを取り出してアプリを開き、部員一覧を二人に見せる。田村楓の名前が、確かに薄くなっている。
「誰かがいるだけじゃ、足りないのかもしれない」
椿がペンを止めて、ノートを見つめながら続ける。
「美咲は楓を心配してくれてる。でも毎日校門で待っているわけじゃない。記録ノートの成功者たちは、全員毎日何かをしていた。毎日電話、毎日メッセージ、毎日校門——能動的に、継続的に」
「じゃあ、そういう人間がいることだけが条件なのか」
柊が腕を組んで言う。
「ただ——伊藤由依は、中に人がいたのに開けてもらえなかった。家族がいても、ダメだった」
三人はしばらく黙る。家族がいても帰れない。誰かが心配してくれていても足りないかもしれない。では——何が決定的に必要なのか。答えが出そうで出ない。霧の中に手を伸ばしているような感覚だ。
答えは出ないまま、チャイムが鳴った。三人は立ち上がる。
「今日も、完璧に帰ろう」
柊が前を向いたまま言う。誰も何も返さなかった。ただ頷いて、それぞれの教室に戻っていく。廊下を歩きながら、机に刻まれた文字が頭から離れない。「帰りたい」「家に帰れない」「助けて」「誰か」——あの言葉を刻んだ生徒たちは、何を求めていたのか。
◇
その夜、スマホに通知が来た。
深夜、ベッドで横になっているとき、スマホが振動する。時計を見ると、夜中の一時だった。
私は慌ててスマホを取る。帰宅部アプリからの通知だ。
《まだ帰れていない部員がいます》
以前にも届いた通知だ。でも今回は、あのときより重く感じられる。あのときはまだ、自分の名前がここまで薄くなっていなかった。
私はアプリの部員一覧を開く。
田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前がある。
でも——私の名前が、また薄くなっている。
画面を閉じる。もう一度開く。薄い。確実に、薄い。昼に部室で見た出席簿の赤い線が脳裏に浮かぶ。このまま薄くなり続けたら——。
まだ帰れていない部員——それは、私のことか。でも、今日ちゃんと帰れた。《本日の活動:成功》という通知も受け取った。なのに——まだ帰れていない?
私はベッドに座って、暗い部屋の中でスマホを見つめた。画面の光だけが、顔を照らしている。
考える。家に着いた。鍵は開いた。中に入れた。でも——誰も私の帰りを待っていなかった。誰も、私がそこにいることを喜んでいなかった。「ただいま」に返事がなかった。
住宅街で聞こえた声を思い出す。「やった!」と言う子どもの声。「うん、うん」と言う母親の声。誰かの帰りを喜ぶ声。誰かの話を聞く声。私の家には、そういう声がない。それが、帰宅成功と関係しているのか。
答えは、まだわからない。でも——何かが足りない。決定的に、何かが。
暗い天井を見つめる。窓の外からは虫の鳴き声が聞こえてきて、遠くで車の音がする。普通の夜だ。何も変わらない、いつもと同じ夜。
翌朝、《まだ帰れていない部員がいます》という通知は消えていた。代わりに、いつもの文言だけが残っていた。
《本日の活動目標:無事に帰宅すること》
私の名前は、今日も薄かった。昨日より、少しだけ。


