入部から六日目の昼休み、私は柊と椿と三人で、1年D組の前を通った。
廊下を歩きながら、D組の教室を外から見る。窓越しに見える教室は、いつもと変わらない。生徒たちが談笑していて、弁当を食べていて、普通の昼休みの光景が広がっている。
でも三人にはわかる——どこかが一つ、詰まっている。
人数が一人分、減っている。佐藤良樹の分だ。でも、どこが欠けているのかがわからない。席順も変わっていない。空席もない。全員いる。でも、どこかが一つ、欠けている。
「行くぞ」
柊が小声で言う。私と椿は頷く。
柊がD組の教室に入っていく。私と椿は外で待つ。柊が窓際の席に座っている男子生徒に声をかけるのが見える。私は廊下に立ったまま、D組の教室を眺める。普通の昼休みの光景。弁当を食べている生徒、友達と話している生徒、スマホを見ている生徒——でもどこかが一つ、欠けている。その「どこか」がどこなのかが、私にはわからない。
しばらくして、柊が戻ってくる。無表情だが、目の奥に何かが宿っている。
「どうだった?」と私は声を落として聞いた。柊が小さく首を横に振る。
「『佐藤良樹って知ってる?』って聞いた」
「なんて言ってた?」
「『誰それ? 転入生?』って。同じクラスのはずなんだけど、って言ったら——『そんな人いないよ。名前聞いたこともない』って」
三人は廊下を歩きながら、小声で話を続ける。人がいない階段の踊り場まで来て、立ち止まる。
「完全に消えた」
椿が静かに言う。
「記録も、記憶も、全部」
三日前に椿と確認したことが、今また確かめられた。SNSのコメントだけが残っていて、本体は消えている。佐藤良樹という人間がここにいたという痕跡が、じわじわと消えていく。私はスマホを取り出して、もう一度佐藤のアカウントを検索する。やはり、存在しない。
「昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る前に、もう一つ確認したいことがある」
柊が私たちを見る。その目は真剣で、どこか緊張している。
「田中先生に直接話を聞く。もう迷っている時間はない」
私と椿は頷く。
◇
七日目の昼休み、三人は職員室に向かった。
廊下を歩きながら、柊が「田中先生に直接聞く」と改めて言う。私と椿は頷く。佐藤良樹が消えた。次は誰が消えるかわからない。田中先生は何か知っている。それは確かだ。あの日、職員室で感じたあの目——何かを確認しようとしていたような、あるいは何かを警告しようとしていたような目。あれは、確実に何かを知っている目だった。
職員室のドアを開ける。中には数人の先生がいるが、田中先生は自分の机で書類仕事をしている。私たちが入ってきたことに気づいて、顔を上げる。その目が、一瞬だけ細くなる。
「田中先生」
柊が声をかける。田中先生はペンを置いて、私たちを見る。
「なんだ」
「話があります」
「ここで話すのか?」
田中先生は周囲を見回す。他の先生たちは気にした様子もなく、仕事を続けている。
柊が一歩前に出る。
「佐藤良樹のことを知っていますか」
田中先生の手が止まる。ペンを持ったまま、動かなくなる。その手が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
「誰だ」
「昨日まで1年D組にいた生徒です。今日から記録に残っていない」
田中先生は私たちを見つめる。長い沈黙が流れる。周囲の先生たちは何も気づいていない。私たちと田中先生だけが、この沈黙の意味を理解している。
「そんな生徒は知らない」
田中先生は静かに、でも少し間を置いてから答えた。
「本当に?」
柊が目を細めて聞く。田中先生はもう一度、長い沈黙の後に答える。
「明日の昼休み、ここに来い。三人で」
田中先生は静かにそれだけ言って、視線を書類に戻した。会話は終わりだった。
私たちは職員室を出る。廊下に立って、お互いの顔を見合わせる。
「明日、聞けるかもしれない」
椿が呟く。
「田中先生は何か知ってる」
私はそれだけで十分だと思った。明日、少なくとも何かがわかるかもしれない。
◇
八日目の昼休み、私たちは職員室に向かった。
田中先生に呼ばれた時間——昼休みが始まって十分後。職員室に人が少なくなる時間だ。
ドアを開けると、田中先生が一人で机に座っていた。他の先生たちは食堂に行ったのか、誰もいない。部屋が静かだ。時計の音が聞こえる。
「来たか」
田中先生が椅子を三つ用意する。金属の脚が床に擦れる音が響いた。私たちは促されるように座る。
田中先生は長い沈黙の後、話し始めた。その声は低くて、重い。長い間溜め込んできたものが、少しずつ出てくるような声だ。
「少なくとも十年前から、桜ヶ丘高校では毎年春に生徒が消える」
その言葉が、職員室の空気を変えた。私たちは息を呑んで、田中先生の次の言葉を待った。
「表向きは行方不明・家出・個別案件として処理される。でも共通点がある。全員、部活に入っていない。全員、下校中に消える。全員、翌日には記録が変質している」
田中先生は机の引き出しから、古いノートを取り出す。手書きのメモがびっしりと書かれている。日付、名前、状況——全てが几帳面に記録されている。でも、多くの名前が黒く塗りつぶされている。読めないように、何度も何度も塗りつぶされている。一度だけじゃない。二度、三度——何度も重ねて。
「調べようとするたびに記録が消えた。気づいたら、自分の記憶からも薄れていく。でも——」
田中先生はノートを開く。
「唯一残った手書きのメモに『帰宅部は存在しない』と書かれていた。誰が書いたかわからない。自分が書いた可能性もある」
私は田中先生のノートを見る。ページをめくると、何年も前の記録が出てくる。名前、日付、消えた日——全てが記録されている。
「先生は、どうしてそれを覚えていられるんですか」
私は田中先生の目を見ながら聞いた。田中先生が少し間を置いてから、窓の外を見つめる。
「……記録をつけ続けているからだ。でも、なぜ記録をつけ始めたか、話す」
ゆっくりと、話し始める。
「十年前に初めて受け持ったクラスで生徒が消えた」
田中先生の声が、少しだけ震える。
「最初はただの行方不明だと思った。警察も動いた。でも見つからなかった。一週間経って、二週間経って——気づいたら、その生徒のことを思い出せなくなっていた」
「思い出せなくなった?」
「ああ。顔も、名前も、どんな生徒だったかも。ただ、『誰か消えた気がする』という違和感だけが残っていた」
椿がノートに何かを書き込む。ペンの音だけが静かな部屋に響く。田中先生は続ける。
「他の教師と同じように、しばらくして記憶が変質して忘れていた。でも翌年また消えた時、去年も似たことがあった気がするという違和感だけが残っていた」
田中先生はノートを閉じる。その手が、少し疲れているように見える。
「必死に自分のメモを探したら消えた生徒のことを書いた記録が出てきた。それで思い出した。『ああ、去年も誰か消えた』って。それからは記録をつけ続けることで記憶を保っている」
私は田中先生の顔を見る。疲れた顔をしている。目の下にクマができていて、髪も少し白くなっている。十年間、一人で記録をつけ続けて、誰にも相談できずに、ただ記憶を保ち続けている。
「最初の年、俺は必死に他の先生に話した。『生徒が消えた』『誰か忘れていないか』『記録を見てくれ』って。でも誰も信じなかった。『そんな生徒いなかった』『田中、疲れてるんじゃないか』って言われた」
私は息を呑む。誰も信じてくれない。一人で戦い続けるしかなかった。十年間、ずっと。
「なんで先生だけ帰宅部をアナウンスしてるんですか」
柊が聞く。田中先生が私たちを見る。
「止められないとわかったから」
田中先生の声が、低くなる。
「何度も止めようとした。部活希望調査票を回収しないようにした。帰宅部の選択肢を消した。でも——生徒は勝手に入部する。気づいたら、アプリが勝手にインストールされている。どんな手を使っても、止められない」
柊が「押し返されるんですね」と言う。田中先生が頷く。
「ああ。だから、せめて帰宅を意識させることが生き残る可能性を上げると思った。他の教師は忘れているから何も言えない。俺だけが覚えているから、俺のクラスの生徒にだけ伝えられる。それだけだ」
「でも柊も椿も佐藤も、先生のクラスじゃないですよね」
私は思わず口を開いた。田中先生は小さく頷く。
「わかってる。引き寄せられた生徒は、クラスに関係なく入部する。俺が何を言っても関係なく、気づいたら入っている」
田中先生はノートを再び開いて、あるページを見せる。そこには「引き寄せられる生徒の特徴」という見出しがある。
「俺が十年間観察してきた結果だ。帰宅部に入る生徒には、共通点がある」
私たちはノートを覗き込む。几帳面な字で、びっしりと書かれている。
「家庭に問題を抱えている。親がいない、親が忙しい、家族関係が希薄——何かしら、帰る場所に問題がある」
私は自分のことを思い出す。「ただいま」に返事がない家。母親はいるけど、私のことを気にかけてくれるわけじゃない。柊の母親は夜勤が多い。椿は家にいたくないと言った。佐藤は「どうせ家帰っても誰もいないし」と言っていた。
「止めようとしたが、どんな手を使っても押し返される。数年やってようやく、止められないとわかった」
誰も何も言えなかった。田中先生も口を閉じたまま、窓の外を見ている。静かな職員室に、時計の音だけが響いていた。
私は勇気を出して聞く。
「生き残った生徒はいるんですよね」
田中先生が頷く。
「いる」
「どうやって?」
「わからない。ただ——」
田中先生はノートをめくって、別のページを見せる。そこには「帰宅成功者の特徴」という見出しがある。
「帰れた生徒には、必ず誰かがいた」
「誰かって?」
「家族とは限らない。友人でも、ほんの少し気にかけてくれる人間でも。とにかく、その生徒のことを覚えていてくれる誰かがいた。毎日、待っていてくれる誰かが」
私は美咲のことを思い出す。『また明日ね』と手を振ってくれる美咲。心配そうに私の顔を覗き込む美咲。私がそこにいることを、喜んでくれている。
椿がぽつりと言う。
「帰宅に失敗した生徒が消えて、記録も変質する。つまり——帰宅部は、失敗した人間をいなかったことにする仕組みなのかもしれない」
私と柊は黙って聞いている。椿も確信があるわけではない。でも今まで集めた情報が、その方向を指している。
田中先生は何も言わない。否定もしない。肯定もしない。ただ、ノートを閉じて、引き出しにしまう。
「田村、柊、山田。お前たちは——」
田中先生が言いかけて、やめる。何かを言いたそうだが、言葉にできない。長い沈黙の後、田中先生はため息をつく。それは十年分の重さを持ったため息だった。
「俺は、お前たちを助けられない。ただ——ちゃんと帰れ。それだけでいい」
田中先生はそれだけ言って、立ち上がる。会話は終わりだった。
私たちは職員室を出る。廊下に立って、お互いの顔を見合わせる。
「田中先生は黒幕じゃない」
柊が静かに、でも確信を持った声で言う。
「止めようとして、止められなかった大人だ」
私は頷く代わりに、田中先生が戻っていった職員室のドアを見つめた。田中先生は十年間、一人で戦ってきた。でも、止められなかった。生徒が消えるのを、ただ見ているしかできなかった。記録をつけて、記憶を保って、それでも何もできなかった。
「私たちは、どうすればいい」
私は小さく呟く。誰も答えられない。廊下に昼休みの声が流れてくる。でもそれが、今は遠い。
◇
その日の放課後、いつもと違うことが起きた。
私が一人で帰宅しようとしていると、美咲が走ってきた。
「楓ちゃん!」
美咲が息を切らしながら、私に追いついてくる。髪が少し乱れていて、頬が赤い。
「今日、部活休みになったの。先生が急に用事で」
「そうなんだ」
「一緒に帰ろう!」
美咲が笑顔で言う。私は一瞬迷う。アプリは一人で帰ることを前提にしている。美咲と一緒に帰ったら、何が起きるかわからない。それに——美咲を巻き込みたくない。
「うん」
断る理由を見つけられなかった。美咲は何も知らない。帰宅部のことも、消えた生徒たちのことも、アプリのことも。普通に友達として声をかけてくれている。それを断ったら、美咲は傷つく。
二人で校門を出る。
スマホが振動する。ポケットの中で、スマホが震えている。私は慌ててスマホを取り出す。アプリを確認すると、《本日の活動開始》という通知が表示されている。でも、いつもと少し違う。
《警告:同行者を検知しました》
《速やかに一人になってください》
私は息を呑む。美咲が隣にいることを、アプリが検知している。「速やかに一人になれ」——そう命令している。
「楓ちゃん、どうしたの? 顔色悪いよ」
美咲が心配そうに聞いてくる。私は慌ててスマホをポケットに入れる。
「なんでもない。ちょっと寝不足で」
「大丈夫? 最近ずっと疲れてる感じだよね」
美咲が私の顔を覗き込む。優しい目をしている。心配してくれている。その優しさが、今は少しだけ胸に刺さる。
「大丈夫。本当に」
二人で歩き始める。いつもの道を歩く。商店街に向かう。
歩きながら、美咲が話しかけてくる。部活の話、先輩の話、学校の話——美咲はいつも通り明るく話している。昨日の練習で失敗した話、でも先輩が優しくフォローしてくれた話、次の演奏会に向けて新しい曲を練習し始めた話——美咲は楽しそうに話し続けている。
でも私は、スマホのことが気になって、上の空で相槌を打っている。ポケットの中で、スマホが何度も振動している。アプリが警告を出し続けているのがわかる。
商店街を通る。住宅街に入る。美咲の家は私の家とは反対方向だ。ここで別れることになる。T字路に差し掛かる。
「じゃあ、また明日ね!」
美咲が手を振って、別の道に入っていく。私も手を振り返す。美咲の後ろ姿が、角を曲がって見えなくなる。
美咲の姿が完全に見えなくなってから、私はスマホを取り出してアプリを開く。
《同行者が離れました》
《帰宅経路に復帰しました》
警告は消えている。私は安心して、スマホをポケットに戻す。でも——胸の奥に、不安が残る。美咲と一緒に帰っただけで、警告が出る。それは何を意味するのか。
私は家に向かって歩き始める。一人で。静かな住宅街を、ただ歩く。
◇
翌朝——入部から九日目。美咲が私に話しかけてきた。
教室に入ってすぐ、美咲が駆け寄ってくる。いつもより少し顔色が悪い気がする。
「ねえ、楓ちゃん。昨日、変な通知来たんだけど」
私の心臓が大きく跳ねる。
「どんな通知?」
「速やかに帰宅してください、って。アプリの通知みたいな感じで急に来て、すぐ消えた」
私は美咲の顔を見る。嘘をついている様子はない。本当に困惑している顔だ。
「どんなアプリ?」
「わかんない。見たことないアイコンで、青と白の家の形してた。通知が来てびっくりして、タップしようとしたらもう消えてた」
青と白の家——帰宅部アプリだ。美咲のスマホに、通知が届いた。
美咲は本当に心配そうな顔をしている。
「なんか怖くて。変なアプリがインストールされてるのかなって思って、スマホ確認したけど、そんなアプリなかった」
「そう……」
私は何と答えればいいのかわからない。美咲に全部話すべきなのか。それとも、何も言わない方がいいのか。
「楓ちゃん、何か知ってる?」
美咲が身を乗り出すようにして、私の目を見つめてくる。いつもの柔らかい目じゃない。何かを確かめようとしている目だ。
「知らない。でも——」
「でも?」
「気をつけた方がいいかも。変な通知が来たら、無視して」
「うん……」
美咲は少し不安そうな顔のまま、自分の席に座る。
美咲と話し終えてから、私はスマホを取り出して柊にメッセージを送った。
「美咲に帰宅部アプリの通知が届いたらしい」
すぐに返信が来る。
「証拠は?」
「ない。消えるのが早くて確認できなかったって」
「信じるか?」
「……わからない。でも、美咲は嘘をつくタイプじゃない」
柊からの返信が少し遅れる。考えているのだろう。
「ただ、関わりすぎると境界が薄れる可能性はある。昨日一緒に帰ったんだろ。一人になったタイミングで通知が来たなら、接触を検知されたことと無関係じゃないと思う」
「美咲が危ない?」
「すぐにどうかなるかはわからない。でも——楓が美咲に深く関わるほど、引き寄せてしまうかもしれない」
その言葉が胸に刺さった。美咲を突き放すべきなのか。でも、それも怖い。美咲は私の大切な友達だ。唯一の、普通の友達だ。
「どうすればいい」
メッセージを送って、画面を見つめる。でも、返信は来なかった。柊も答えられないのだろう。
◇
九日目の昼休み、椿が「古い資料を調べたい」と言った。
図書室の奥で三人で集まって、椿がノートを開く。
「旧校舎に美術部の倉庫として使われている一角がある。そこに学校の古い書類が残ってるはず」
「どうしてわかるの?」と私は聞いた。椿が答える。
「美術部の先輩に聞いた。『古い資料とか残ってますか?』って。そしたら『旧校舎の倉庫に昔の書類が山積みになってる』って教えてくれた」
「放課後は動けないから」
柊が続ける。
「昼休みを使って調べるしかない」
私は二人の顔を見て、頷いた。三人で図書室を出て、旧校舎に向かう。
旧校舎は普段あまり使われていない。美術部と演劇部が部室として使っているくらいで、他はほとんど空き教室だ。廊下を歩くと、少し埃っぽい匂いがする。床がきしむ音が響く。
美術部の部室の前を通る。中では美術部員が数人、作業をしている。キャンバスに絵を描いていて、異常な雰囲気はない。私たちが通り過ぎても、誰も気にしていない。
椿が目星をつけていた小部屋は、美術部の部室の奥にあった。古い木のドアに、鍵はかかっていない。ドアノブが少し錆びていて、開けるときに軋む音がする。
「ここ」
椿がドアを開ける。中に古い段ボール箱が積まれている。埃をかぶっていて、長い間誰も開けていないようだった。窓がないから暗くて、椿がスマホのライトをつける。
三人で箱の中を調べ始める。古い書類、古いファイル、古いノート——全てが黄ばんでいて、紙が脆くなっている。手に取ると、少しパリパリという音がする。
「これ」
柊が一冊のファイルを取り出す。「下校指導記録 平成○○年度」と表紙に書かれている。
ファイルを開く。毎日の下校確認記録が、几帳面に記録されている。日付、時刻、確認者——全てが書かれている。4月5日、4月6日、4月7日——日付が続いている。
でも、いくつかの日付に「確認不可」という印がある。赤いスタンプで、大きく押されている。
「これ、何?」
私は柊と椿にファイルを向けた。椿が覗き込んで答える。
「下校確認ができなかった日、ってことだと思う。生徒が帰宅したかどうか確認できなかった」
確認不可の日付の横に、名前が書かれている。でも——。
「黒く塗りつぶされてる」
思わず声が出た。名前の上に、黒いマーカーで塗りつぶされている。完全に読めないように、何度も何度も塗りつぶされている。一度だけじゃない。二度、三度、四度——何度も重ねて塗りつぶされている。
柊が別のページを開く。また「確認不可」のスタンプ。また黒く塗りつぶされた名前。
「毎年ある」
椿がファイルをめくりながら確認する。毎年、春に、何人か「確認不可」の日がある。全て、名前が黒く塗りつぶされている。
「これ、誰が塗りつぶしたんだろう」
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
椿がファイルをじっくりと確認する。インクを見比べながら、少し間を置いてから言う。
「塗りつぶしたのは学校側じゃないと思う。インクが違う。学校のスタンプとペンの色と、この黒が違うから」
確かに、学校の記録に使われている黒いペンと、名前を塗りつぶしている黒いマーカーは、色が少し違う。学校のペンは少し青みがかった黒だが、マーカーは真っ黒だ。
「じゃあ誰が?」
「わからない。でも——」
椿は次のページをめくる。また黒く塗りつぶされた名前。また違う年度のページ。
「全部、同じマーカーで塗りつぶされてる。同じ人が、毎年塗りつぶしてる」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。私たちは慌ててファイルを箱に戻す。
「また明日来よう」
椿が言葉少なに言った。私と柊は黙って頷く。小部屋を出て、旧校舎を出る。それぞれの教室に戻りながら、私は考え続ける。黒く塗りつぶされた名前。確認不可の日付。下校中に消えた生徒たち——。
◇
十日目の昼休み、三人で再び旧校舎の小部屋に向かった。
昨日見つけた箱の続きを調べるためだ。小部屋のドアを開けると、昨日と同じ空気が迎えた。椿がスマホのライトをつけて、段ボール箱の中を確認する。古い卒業アルバムが出てくる。私は一冊を手に取って、ページをめくる。重くて、紙が少し湿っぽい。
集合写真が並んでいる。各クラスの集合写真。生徒たちが笑顔で並んでいる。普通の卒業アルバムだ。
でも——。
「これ、おかしくない?」
私は椿と柊を呼ぶ。二人がアルバムを覗き込む。
「写真の下に名前が並んでるよね」
「うん」
「数を数えてみて」
椿が名前を数える。指で一つずつ確認しながら、小声で数えている。柊が写真に写っている人数を数える。写真の中の顔を、一人ずつ確認している。
しばらくして、二人が顔を上げる。
「名前が三十九人」
「写真に写ってるのが四十人」
二人の間に沈黙が落ちる。人数が合わない。名前のない人物が、写真の中にいる。
私はアルバムをめくる。別の年のページを開く。また集合写真。また名前が並んでいる。
「これも合わない」
椿が数える。
「名前が四十一人。写真が四十二人」
柊が別のアルバムを開く。また確認する。また人数が合わない。
「毎年ある」
椿が小さく呟く。
「消えた部員の分だけ、数が合わない」
柊が低く言う。写真の中には確かにいる。でも名前がない。名前が変質して消えた後でも、写真だけは残っている。端っこだけ残る——あの言葉を思い出す。
「でも誰がいないかはわからない」
私は写真を凝視する。一人ずつ顔を確認する。でも、どこに空白があるのかがわからない。全員、そこにいるように見える。誰も欠けていないように見える。でも、数が合わない。
誰も何も言えなかった。ただ、三人でアルバムを見つめていた。
私は別の箱を開ける。中に古い生徒会誌が入っている。ページをめくると、いくつかのページに不自然な空白がある。
「これ、何が書かれてたんだろう」
私は呟く。何かが書かれていた形跡——インクの滲み、罫線の乱れ——だけが残っていて、内容は完全に消えている。文字があった場所だけ、紙の色が少し違う。まるで、何かが抜き取られたように。
「これも同じだ」
柊が別の生徒会誌を開く。また不自然な空白。また消えた文章。
「何が書かれてたかわからない。でも何かがあったことだけわかる」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。三人は小部屋を出る。箱を元の場所に戻して、ドアを閉める。
廊下を歩きながら、私は考え続ける。塗りつぶされた名前たちが、毎年積み重なっている。この学校に来るたびに、誰かが消えていく。でも学校は続く。来年も新入生が来て、また誰かが——。
◇
その夜、私のスマホに通知が来た。
深夜、ベッドで横になっているとき、スマホが振動する。時計を見ると、夜中の二時だった。
私は慌ててスマホを取る。帰宅部アプリからの通知だ。
《本日12時30分、指定場所に集合してください》
私は画面を見つめる。指定場所——地図が表示される。
旧校舎と現校舎をつなぐ渡り廊下。その途中にある壁。
私はその場所を知っている。渡り廊下の途中、何もない場所だ。壁があるだけで、ドアもない。窓もない。ただの壁。でも、そこに何かがあるとは思っていなかった。
でも、アプリはそこに「集合しろ」と指示している。
私は柊と椿に連絡する。深夜だが、すぐに返信が来る。二人も眠れていないのだろう。
「同じ通知来た」
「俺も」
二人も同じ通知を受け取っていた。
翌朝、三人で集まって地図を確認する。
「ここ、何もない場所だよね」
私は三人の中で一番先に口を開いた。柊と椿が無言で頷く。
「でも、行かないといけない気がする」
椿が静かに、でも確信を持った口調で言う。
「行くな」
急に声がする。田中先生だ。廊下を歩いていた田中先生が、私たちのところに来る。いつもより顔色が悪い。目の下のクマが、昨日より濃い気がする。
「それ、見せてみろ」
柊がスマホを差し出す。田中先生が地図を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「そこに行くな」
「でも——」
「行かないといけない気がします」
私は田中先生の目を見て言った。田中先生が首を横に振る。
「気がするじゃない。行くなと言っている」
「でも、ここに答えがあるんじゃないですか」
椿が一歩前に出る。
「答えを知っても、消えた人間は戻らない」
「止めようとしても押し返されるんですよね」
柊が静かに、でも鋭く言う。田中先生は黙る。否定しない。長い沈黙の後、絞り出すように呟く。
「俺も——十年前、そこに行った」
私たちは息を呑む。
「何があったんですか」
「……部屋があった。帰宅部の部室が。出席簿があって、ロッカーがあって——」
田中先生は言葉を切る。顔が、少し青白くなっている。
「それ以上は、言えない」
田中先生が目を閉じる。
「先生」
柊が一歩前に出る。
「俺たちはどのみち行きます」
田中先生は長い沈黙の後、深くため息をついた。十年分の重さを持ったため息だった。目を開けて、私たちを見る。諦めと、それでも消えない何かが混ざった目だ。
「……行くなら、せめて気をつけろ」
十一日目の昼休み、12時30分——そこに行く。それしか選択肢はない気がした。
塗りつぶされた名前たちが、毎年積み重なっている。出席簿の赤い線が、毎年増えていく。消えた生徒たちの痕跡が、端っこだけ残りながら積み重なっていく。私たちも、このままでは——。
私は首を横に振る。考えても、答えは出ない。ただ、明日の昼休みを待つしかない。
廊下を歩きながら、D組の教室を外から見る。窓越しに見える教室は、いつもと変わらない。生徒たちが談笑していて、弁当を食べていて、普通の昼休みの光景が広がっている。
でも三人にはわかる——どこかが一つ、詰まっている。
人数が一人分、減っている。佐藤良樹の分だ。でも、どこが欠けているのかがわからない。席順も変わっていない。空席もない。全員いる。でも、どこかが一つ、欠けている。
「行くぞ」
柊が小声で言う。私と椿は頷く。
柊がD組の教室に入っていく。私と椿は外で待つ。柊が窓際の席に座っている男子生徒に声をかけるのが見える。私は廊下に立ったまま、D組の教室を眺める。普通の昼休みの光景。弁当を食べている生徒、友達と話している生徒、スマホを見ている生徒——でもどこかが一つ、欠けている。その「どこか」がどこなのかが、私にはわからない。
しばらくして、柊が戻ってくる。無表情だが、目の奥に何かが宿っている。
「どうだった?」と私は声を落として聞いた。柊が小さく首を横に振る。
「『佐藤良樹って知ってる?』って聞いた」
「なんて言ってた?」
「『誰それ? 転入生?』って。同じクラスのはずなんだけど、って言ったら——『そんな人いないよ。名前聞いたこともない』って」
三人は廊下を歩きながら、小声で話を続ける。人がいない階段の踊り場まで来て、立ち止まる。
「完全に消えた」
椿が静かに言う。
「記録も、記憶も、全部」
三日前に椿と確認したことが、今また確かめられた。SNSのコメントだけが残っていて、本体は消えている。佐藤良樹という人間がここにいたという痕跡が、じわじわと消えていく。私はスマホを取り出して、もう一度佐藤のアカウントを検索する。やはり、存在しない。
「昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る前に、もう一つ確認したいことがある」
柊が私たちを見る。その目は真剣で、どこか緊張している。
「田中先生に直接話を聞く。もう迷っている時間はない」
私と椿は頷く。
◇
七日目の昼休み、三人は職員室に向かった。
廊下を歩きながら、柊が「田中先生に直接聞く」と改めて言う。私と椿は頷く。佐藤良樹が消えた。次は誰が消えるかわからない。田中先生は何か知っている。それは確かだ。あの日、職員室で感じたあの目——何かを確認しようとしていたような、あるいは何かを警告しようとしていたような目。あれは、確実に何かを知っている目だった。
職員室のドアを開ける。中には数人の先生がいるが、田中先生は自分の机で書類仕事をしている。私たちが入ってきたことに気づいて、顔を上げる。その目が、一瞬だけ細くなる。
「田中先生」
柊が声をかける。田中先生はペンを置いて、私たちを見る。
「なんだ」
「話があります」
「ここで話すのか?」
田中先生は周囲を見回す。他の先生たちは気にした様子もなく、仕事を続けている。
柊が一歩前に出る。
「佐藤良樹のことを知っていますか」
田中先生の手が止まる。ペンを持ったまま、動かなくなる。その手が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
「誰だ」
「昨日まで1年D組にいた生徒です。今日から記録に残っていない」
田中先生は私たちを見つめる。長い沈黙が流れる。周囲の先生たちは何も気づいていない。私たちと田中先生だけが、この沈黙の意味を理解している。
「そんな生徒は知らない」
田中先生は静かに、でも少し間を置いてから答えた。
「本当に?」
柊が目を細めて聞く。田中先生はもう一度、長い沈黙の後に答える。
「明日の昼休み、ここに来い。三人で」
田中先生は静かにそれだけ言って、視線を書類に戻した。会話は終わりだった。
私たちは職員室を出る。廊下に立って、お互いの顔を見合わせる。
「明日、聞けるかもしれない」
椿が呟く。
「田中先生は何か知ってる」
私はそれだけで十分だと思った。明日、少なくとも何かがわかるかもしれない。
◇
八日目の昼休み、私たちは職員室に向かった。
田中先生に呼ばれた時間——昼休みが始まって十分後。職員室に人が少なくなる時間だ。
ドアを開けると、田中先生が一人で机に座っていた。他の先生たちは食堂に行ったのか、誰もいない。部屋が静かだ。時計の音が聞こえる。
「来たか」
田中先生が椅子を三つ用意する。金属の脚が床に擦れる音が響いた。私たちは促されるように座る。
田中先生は長い沈黙の後、話し始めた。その声は低くて、重い。長い間溜め込んできたものが、少しずつ出てくるような声だ。
「少なくとも十年前から、桜ヶ丘高校では毎年春に生徒が消える」
その言葉が、職員室の空気を変えた。私たちは息を呑んで、田中先生の次の言葉を待った。
「表向きは行方不明・家出・個別案件として処理される。でも共通点がある。全員、部活に入っていない。全員、下校中に消える。全員、翌日には記録が変質している」
田中先生は机の引き出しから、古いノートを取り出す。手書きのメモがびっしりと書かれている。日付、名前、状況——全てが几帳面に記録されている。でも、多くの名前が黒く塗りつぶされている。読めないように、何度も何度も塗りつぶされている。一度だけじゃない。二度、三度——何度も重ねて。
「調べようとするたびに記録が消えた。気づいたら、自分の記憶からも薄れていく。でも——」
田中先生はノートを開く。
「唯一残った手書きのメモに『帰宅部は存在しない』と書かれていた。誰が書いたかわからない。自分が書いた可能性もある」
私は田中先生のノートを見る。ページをめくると、何年も前の記録が出てくる。名前、日付、消えた日——全てが記録されている。
「先生は、どうしてそれを覚えていられるんですか」
私は田中先生の目を見ながら聞いた。田中先生が少し間を置いてから、窓の外を見つめる。
「……記録をつけ続けているからだ。でも、なぜ記録をつけ始めたか、話す」
ゆっくりと、話し始める。
「十年前に初めて受け持ったクラスで生徒が消えた」
田中先生の声が、少しだけ震える。
「最初はただの行方不明だと思った。警察も動いた。でも見つからなかった。一週間経って、二週間経って——気づいたら、その生徒のことを思い出せなくなっていた」
「思い出せなくなった?」
「ああ。顔も、名前も、どんな生徒だったかも。ただ、『誰か消えた気がする』という違和感だけが残っていた」
椿がノートに何かを書き込む。ペンの音だけが静かな部屋に響く。田中先生は続ける。
「他の教師と同じように、しばらくして記憶が変質して忘れていた。でも翌年また消えた時、去年も似たことがあった気がするという違和感だけが残っていた」
田中先生はノートを閉じる。その手が、少し疲れているように見える。
「必死に自分のメモを探したら消えた生徒のことを書いた記録が出てきた。それで思い出した。『ああ、去年も誰か消えた』って。それからは記録をつけ続けることで記憶を保っている」
私は田中先生の顔を見る。疲れた顔をしている。目の下にクマができていて、髪も少し白くなっている。十年間、一人で記録をつけ続けて、誰にも相談できずに、ただ記憶を保ち続けている。
「最初の年、俺は必死に他の先生に話した。『生徒が消えた』『誰か忘れていないか』『記録を見てくれ』って。でも誰も信じなかった。『そんな生徒いなかった』『田中、疲れてるんじゃないか』って言われた」
私は息を呑む。誰も信じてくれない。一人で戦い続けるしかなかった。十年間、ずっと。
「なんで先生だけ帰宅部をアナウンスしてるんですか」
柊が聞く。田中先生が私たちを見る。
「止められないとわかったから」
田中先生の声が、低くなる。
「何度も止めようとした。部活希望調査票を回収しないようにした。帰宅部の選択肢を消した。でも——生徒は勝手に入部する。気づいたら、アプリが勝手にインストールされている。どんな手を使っても、止められない」
柊が「押し返されるんですね」と言う。田中先生が頷く。
「ああ。だから、せめて帰宅を意識させることが生き残る可能性を上げると思った。他の教師は忘れているから何も言えない。俺だけが覚えているから、俺のクラスの生徒にだけ伝えられる。それだけだ」
「でも柊も椿も佐藤も、先生のクラスじゃないですよね」
私は思わず口を開いた。田中先生は小さく頷く。
「わかってる。引き寄せられた生徒は、クラスに関係なく入部する。俺が何を言っても関係なく、気づいたら入っている」
田中先生はノートを再び開いて、あるページを見せる。そこには「引き寄せられる生徒の特徴」という見出しがある。
「俺が十年間観察してきた結果だ。帰宅部に入る生徒には、共通点がある」
私たちはノートを覗き込む。几帳面な字で、びっしりと書かれている。
「家庭に問題を抱えている。親がいない、親が忙しい、家族関係が希薄——何かしら、帰る場所に問題がある」
私は自分のことを思い出す。「ただいま」に返事がない家。母親はいるけど、私のことを気にかけてくれるわけじゃない。柊の母親は夜勤が多い。椿は家にいたくないと言った。佐藤は「どうせ家帰っても誰もいないし」と言っていた。
「止めようとしたが、どんな手を使っても押し返される。数年やってようやく、止められないとわかった」
誰も何も言えなかった。田中先生も口を閉じたまま、窓の外を見ている。静かな職員室に、時計の音だけが響いていた。
私は勇気を出して聞く。
「生き残った生徒はいるんですよね」
田中先生が頷く。
「いる」
「どうやって?」
「わからない。ただ——」
田中先生はノートをめくって、別のページを見せる。そこには「帰宅成功者の特徴」という見出しがある。
「帰れた生徒には、必ず誰かがいた」
「誰かって?」
「家族とは限らない。友人でも、ほんの少し気にかけてくれる人間でも。とにかく、その生徒のことを覚えていてくれる誰かがいた。毎日、待っていてくれる誰かが」
私は美咲のことを思い出す。『また明日ね』と手を振ってくれる美咲。心配そうに私の顔を覗き込む美咲。私がそこにいることを、喜んでくれている。
椿がぽつりと言う。
「帰宅に失敗した生徒が消えて、記録も変質する。つまり——帰宅部は、失敗した人間をいなかったことにする仕組みなのかもしれない」
私と柊は黙って聞いている。椿も確信があるわけではない。でも今まで集めた情報が、その方向を指している。
田中先生は何も言わない。否定もしない。肯定もしない。ただ、ノートを閉じて、引き出しにしまう。
「田村、柊、山田。お前たちは——」
田中先生が言いかけて、やめる。何かを言いたそうだが、言葉にできない。長い沈黙の後、田中先生はため息をつく。それは十年分の重さを持ったため息だった。
「俺は、お前たちを助けられない。ただ——ちゃんと帰れ。それだけでいい」
田中先生はそれだけ言って、立ち上がる。会話は終わりだった。
私たちは職員室を出る。廊下に立って、お互いの顔を見合わせる。
「田中先生は黒幕じゃない」
柊が静かに、でも確信を持った声で言う。
「止めようとして、止められなかった大人だ」
私は頷く代わりに、田中先生が戻っていった職員室のドアを見つめた。田中先生は十年間、一人で戦ってきた。でも、止められなかった。生徒が消えるのを、ただ見ているしかできなかった。記録をつけて、記憶を保って、それでも何もできなかった。
「私たちは、どうすればいい」
私は小さく呟く。誰も答えられない。廊下に昼休みの声が流れてくる。でもそれが、今は遠い。
◇
その日の放課後、いつもと違うことが起きた。
私が一人で帰宅しようとしていると、美咲が走ってきた。
「楓ちゃん!」
美咲が息を切らしながら、私に追いついてくる。髪が少し乱れていて、頬が赤い。
「今日、部活休みになったの。先生が急に用事で」
「そうなんだ」
「一緒に帰ろう!」
美咲が笑顔で言う。私は一瞬迷う。アプリは一人で帰ることを前提にしている。美咲と一緒に帰ったら、何が起きるかわからない。それに——美咲を巻き込みたくない。
「うん」
断る理由を見つけられなかった。美咲は何も知らない。帰宅部のことも、消えた生徒たちのことも、アプリのことも。普通に友達として声をかけてくれている。それを断ったら、美咲は傷つく。
二人で校門を出る。
スマホが振動する。ポケットの中で、スマホが震えている。私は慌ててスマホを取り出す。アプリを確認すると、《本日の活動開始》という通知が表示されている。でも、いつもと少し違う。
《警告:同行者を検知しました》
《速やかに一人になってください》
私は息を呑む。美咲が隣にいることを、アプリが検知している。「速やかに一人になれ」——そう命令している。
「楓ちゃん、どうしたの? 顔色悪いよ」
美咲が心配そうに聞いてくる。私は慌ててスマホをポケットに入れる。
「なんでもない。ちょっと寝不足で」
「大丈夫? 最近ずっと疲れてる感じだよね」
美咲が私の顔を覗き込む。優しい目をしている。心配してくれている。その優しさが、今は少しだけ胸に刺さる。
「大丈夫。本当に」
二人で歩き始める。いつもの道を歩く。商店街に向かう。
歩きながら、美咲が話しかけてくる。部活の話、先輩の話、学校の話——美咲はいつも通り明るく話している。昨日の練習で失敗した話、でも先輩が優しくフォローしてくれた話、次の演奏会に向けて新しい曲を練習し始めた話——美咲は楽しそうに話し続けている。
でも私は、スマホのことが気になって、上の空で相槌を打っている。ポケットの中で、スマホが何度も振動している。アプリが警告を出し続けているのがわかる。
商店街を通る。住宅街に入る。美咲の家は私の家とは反対方向だ。ここで別れることになる。T字路に差し掛かる。
「じゃあ、また明日ね!」
美咲が手を振って、別の道に入っていく。私も手を振り返す。美咲の後ろ姿が、角を曲がって見えなくなる。
美咲の姿が完全に見えなくなってから、私はスマホを取り出してアプリを開く。
《同行者が離れました》
《帰宅経路に復帰しました》
警告は消えている。私は安心して、スマホをポケットに戻す。でも——胸の奥に、不安が残る。美咲と一緒に帰っただけで、警告が出る。それは何を意味するのか。
私は家に向かって歩き始める。一人で。静かな住宅街を、ただ歩く。
◇
翌朝——入部から九日目。美咲が私に話しかけてきた。
教室に入ってすぐ、美咲が駆け寄ってくる。いつもより少し顔色が悪い気がする。
「ねえ、楓ちゃん。昨日、変な通知来たんだけど」
私の心臓が大きく跳ねる。
「どんな通知?」
「速やかに帰宅してください、って。アプリの通知みたいな感じで急に来て、すぐ消えた」
私は美咲の顔を見る。嘘をついている様子はない。本当に困惑している顔だ。
「どんなアプリ?」
「わかんない。見たことないアイコンで、青と白の家の形してた。通知が来てびっくりして、タップしようとしたらもう消えてた」
青と白の家——帰宅部アプリだ。美咲のスマホに、通知が届いた。
美咲は本当に心配そうな顔をしている。
「なんか怖くて。変なアプリがインストールされてるのかなって思って、スマホ確認したけど、そんなアプリなかった」
「そう……」
私は何と答えればいいのかわからない。美咲に全部話すべきなのか。それとも、何も言わない方がいいのか。
「楓ちゃん、何か知ってる?」
美咲が身を乗り出すようにして、私の目を見つめてくる。いつもの柔らかい目じゃない。何かを確かめようとしている目だ。
「知らない。でも——」
「でも?」
「気をつけた方がいいかも。変な通知が来たら、無視して」
「うん……」
美咲は少し不安そうな顔のまま、自分の席に座る。
美咲と話し終えてから、私はスマホを取り出して柊にメッセージを送った。
「美咲に帰宅部アプリの通知が届いたらしい」
すぐに返信が来る。
「証拠は?」
「ない。消えるのが早くて確認できなかったって」
「信じるか?」
「……わからない。でも、美咲は嘘をつくタイプじゃない」
柊からの返信が少し遅れる。考えているのだろう。
「ただ、関わりすぎると境界が薄れる可能性はある。昨日一緒に帰ったんだろ。一人になったタイミングで通知が来たなら、接触を検知されたことと無関係じゃないと思う」
「美咲が危ない?」
「すぐにどうかなるかはわからない。でも——楓が美咲に深く関わるほど、引き寄せてしまうかもしれない」
その言葉が胸に刺さった。美咲を突き放すべきなのか。でも、それも怖い。美咲は私の大切な友達だ。唯一の、普通の友達だ。
「どうすればいい」
メッセージを送って、画面を見つめる。でも、返信は来なかった。柊も答えられないのだろう。
◇
九日目の昼休み、椿が「古い資料を調べたい」と言った。
図書室の奥で三人で集まって、椿がノートを開く。
「旧校舎に美術部の倉庫として使われている一角がある。そこに学校の古い書類が残ってるはず」
「どうしてわかるの?」と私は聞いた。椿が答える。
「美術部の先輩に聞いた。『古い資料とか残ってますか?』って。そしたら『旧校舎の倉庫に昔の書類が山積みになってる』って教えてくれた」
「放課後は動けないから」
柊が続ける。
「昼休みを使って調べるしかない」
私は二人の顔を見て、頷いた。三人で図書室を出て、旧校舎に向かう。
旧校舎は普段あまり使われていない。美術部と演劇部が部室として使っているくらいで、他はほとんど空き教室だ。廊下を歩くと、少し埃っぽい匂いがする。床がきしむ音が響く。
美術部の部室の前を通る。中では美術部員が数人、作業をしている。キャンバスに絵を描いていて、異常な雰囲気はない。私たちが通り過ぎても、誰も気にしていない。
椿が目星をつけていた小部屋は、美術部の部室の奥にあった。古い木のドアに、鍵はかかっていない。ドアノブが少し錆びていて、開けるときに軋む音がする。
「ここ」
椿がドアを開ける。中に古い段ボール箱が積まれている。埃をかぶっていて、長い間誰も開けていないようだった。窓がないから暗くて、椿がスマホのライトをつける。
三人で箱の中を調べ始める。古い書類、古いファイル、古いノート——全てが黄ばんでいて、紙が脆くなっている。手に取ると、少しパリパリという音がする。
「これ」
柊が一冊のファイルを取り出す。「下校指導記録 平成○○年度」と表紙に書かれている。
ファイルを開く。毎日の下校確認記録が、几帳面に記録されている。日付、時刻、確認者——全てが書かれている。4月5日、4月6日、4月7日——日付が続いている。
でも、いくつかの日付に「確認不可」という印がある。赤いスタンプで、大きく押されている。
「これ、何?」
私は柊と椿にファイルを向けた。椿が覗き込んで答える。
「下校確認ができなかった日、ってことだと思う。生徒が帰宅したかどうか確認できなかった」
確認不可の日付の横に、名前が書かれている。でも——。
「黒く塗りつぶされてる」
思わず声が出た。名前の上に、黒いマーカーで塗りつぶされている。完全に読めないように、何度も何度も塗りつぶされている。一度だけじゃない。二度、三度、四度——何度も重ねて塗りつぶされている。
柊が別のページを開く。また「確認不可」のスタンプ。また黒く塗りつぶされた名前。
「毎年ある」
椿がファイルをめくりながら確認する。毎年、春に、何人か「確認不可」の日がある。全て、名前が黒く塗りつぶされている。
「これ、誰が塗りつぶしたんだろう」
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
椿がファイルをじっくりと確認する。インクを見比べながら、少し間を置いてから言う。
「塗りつぶしたのは学校側じゃないと思う。インクが違う。学校のスタンプとペンの色と、この黒が違うから」
確かに、学校の記録に使われている黒いペンと、名前を塗りつぶしている黒いマーカーは、色が少し違う。学校のペンは少し青みがかった黒だが、マーカーは真っ黒だ。
「じゃあ誰が?」
「わからない。でも——」
椿は次のページをめくる。また黒く塗りつぶされた名前。また違う年度のページ。
「全部、同じマーカーで塗りつぶされてる。同じ人が、毎年塗りつぶしてる」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。私たちは慌ててファイルを箱に戻す。
「また明日来よう」
椿が言葉少なに言った。私と柊は黙って頷く。小部屋を出て、旧校舎を出る。それぞれの教室に戻りながら、私は考え続ける。黒く塗りつぶされた名前。確認不可の日付。下校中に消えた生徒たち——。
◇
十日目の昼休み、三人で再び旧校舎の小部屋に向かった。
昨日見つけた箱の続きを調べるためだ。小部屋のドアを開けると、昨日と同じ空気が迎えた。椿がスマホのライトをつけて、段ボール箱の中を確認する。古い卒業アルバムが出てくる。私は一冊を手に取って、ページをめくる。重くて、紙が少し湿っぽい。
集合写真が並んでいる。各クラスの集合写真。生徒たちが笑顔で並んでいる。普通の卒業アルバムだ。
でも——。
「これ、おかしくない?」
私は椿と柊を呼ぶ。二人がアルバムを覗き込む。
「写真の下に名前が並んでるよね」
「うん」
「数を数えてみて」
椿が名前を数える。指で一つずつ確認しながら、小声で数えている。柊が写真に写っている人数を数える。写真の中の顔を、一人ずつ確認している。
しばらくして、二人が顔を上げる。
「名前が三十九人」
「写真に写ってるのが四十人」
二人の間に沈黙が落ちる。人数が合わない。名前のない人物が、写真の中にいる。
私はアルバムをめくる。別の年のページを開く。また集合写真。また名前が並んでいる。
「これも合わない」
椿が数える。
「名前が四十一人。写真が四十二人」
柊が別のアルバムを開く。また確認する。また人数が合わない。
「毎年ある」
椿が小さく呟く。
「消えた部員の分だけ、数が合わない」
柊が低く言う。写真の中には確かにいる。でも名前がない。名前が変質して消えた後でも、写真だけは残っている。端っこだけ残る——あの言葉を思い出す。
「でも誰がいないかはわからない」
私は写真を凝視する。一人ずつ顔を確認する。でも、どこに空白があるのかがわからない。全員、そこにいるように見える。誰も欠けていないように見える。でも、数が合わない。
誰も何も言えなかった。ただ、三人でアルバムを見つめていた。
私は別の箱を開ける。中に古い生徒会誌が入っている。ページをめくると、いくつかのページに不自然な空白がある。
「これ、何が書かれてたんだろう」
私は呟く。何かが書かれていた形跡——インクの滲み、罫線の乱れ——だけが残っていて、内容は完全に消えている。文字があった場所だけ、紙の色が少し違う。まるで、何かが抜き取られたように。
「これも同じだ」
柊が別の生徒会誌を開く。また不自然な空白。また消えた文章。
「何が書かれてたかわからない。でも何かがあったことだけわかる」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。三人は小部屋を出る。箱を元の場所に戻して、ドアを閉める。
廊下を歩きながら、私は考え続ける。塗りつぶされた名前たちが、毎年積み重なっている。この学校に来るたびに、誰かが消えていく。でも学校は続く。来年も新入生が来て、また誰かが——。
◇
その夜、私のスマホに通知が来た。
深夜、ベッドで横になっているとき、スマホが振動する。時計を見ると、夜中の二時だった。
私は慌ててスマホを取る。帰宅部アプリからの通知だ。
《本日12時30分、指定場所に集合してください》
私は画面を見つめる。指定場所——地図が表示される。
旧校舎と現校舎をつなぐ渡り廊下。その途中にある壁。
私はその場所を知っている。渡り廊下の途中、何もない場所だ。壁があるだけで、ドアもない。窓もない。ただの壁。でも、そこに何かがあるとは思っていなかった。
でも、アプリはそこに「集合しろ」と指示している。
私は柊と椿に連絡する。深夜だが、すぐに返信が来る。二人も眠れていないのだろう。
「同じ通知来た」
「俺も」
二人も同じ通知を受け取っていた。
翌朝、三人で集まって地図を確認する。
「ここ、何もない場所だよね」
私は三人の中で一番先に口を開いた。柊と椿が無言で頷く。
「でも、行かないといけない気がする」
椿が静かに、でも確信を持った口調で言う。
「行くな」
急に声がする。田中先生だ。廊下を歩いていた田中先生が、私たちのところに来る。いつもより顔色が悪い。目の下のクマが、昨日より濃い気がする。
「それ、見せてみろ」
柊がスマホを差し出す。田中先生が地図を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「そこに行くな」
「でも——」
「行かないといけない気がします」
私は田中先生の目を見て言った。田中先生が首を横に振る。
「気がするじゃない。行くなと言っている」
「でも、ここに答えがあるんじゃないですか」
椿が一歩前に出る。
「答えを知っても、消えた人間は戻らない」
「止めようとしても押し返されるんですよね」
柊が静かに、でも鋭く言う。田中先生は黙る。否定しない。長い沈黙の後、絞り出すように呟く。
「俺も——十年前、そこに行った」
私たちは息を呑む。
「何があったんですか」
「……部屋があった。帰宅部の部室が。出席簿があって、ロッカーがあって——」
田中先生は言葉を切る。顔が、少し青白くなっている。
「それ以上は、言えない」
田中先生が目を閉じる。
「先生」
柊が一歩前に出る。
「俺たちはどのみち行きます」
田中先生は長い沈黙の後、深くため息をついた。十年分の重さを持ったため息だった。目を開けて、私たちを見る。諦めと、それでも消えない何かが混ざった目だ。
「……行くなら、せめて気をつけろ」
十一日目の昼休み、12時30分——そこに行く。それしか選択肢はない気がした。
塗りつぶされた名前たちが、毎年積み重なっている。出席簿の赤い線が、毎年増えていく。消えた生徒たちの痕跡が、端っこだけ残りながら積み重なっていく。私たちも、このままでは——。
私は首を横に振る。考えても、答えは出ない。ただ、明日の昼休みを待つしかない。


