三日目の放課後、私は一人で帰り始めた。
校門を出ると、アプリが振動する。《本日の活動開始》という通知が表示される。私はアプリを開いて、帰宅経路を確認する。今日も昨日と違う道が指定されている。商店街を通る道だが、いつもとは違う入口から入るように示されている。地図の上の青い線が、いつも使わない角を指している。
私は従って、指定された道を歩き始める。
歩きながら、昼休みに椿と話したことを思い返す。佐藤良樹が、今日わざと経路を外れると言っていた。どうなるのだろう。本当にただのバグアプリなら、何も起きない。でも——昨日、私が細い道で立ち止まっただけで警告が出た。アプリは確実に、何かを監視している。何かを判定している。
私はコンビニの前で足を止める。少しだけ試してみたくなった。警告が出た時点で戻ることを前提にしている。危険はないはずだ。入口に向かって数歩進む。
スマホが振動する。
《警告:帰宅経路から逸脱しています》
《指定経路に戻ってください》
《制限時間:30秒》
画面にカウントダウンが表示される。赤い数字が、一秒ずつ減っていく。
30……29……28……
私は二十秒で戻る。足を速めて、元の道に戻る。すると、すぐに警告が消えた。
《帰宅経路に復帰しました》
ペナルティは出ない。私は続けて、次の角で少しだけ経路を外れる。また警告。今度は十五秒で戻る。ペナルティなし。制限時間内に戻れば、評価には影響しない。
では昨日の「不要な接触」は何によって発生したのか。経路から外れることと、何かと関わることは別のルール違反なのかもしれない。でも「何かと関わる」の「何か」が昨日の声だったとしたら——立ち止まっただけで接触と判定されたということになる。考えながら帰るが、答えは出ない。私はそれ以上実験するのをやめて、指定された経路を歩き続ける。
商店街を抜ける。八百屋の前でお客さんが値段を交渉している声が聞こえる。薬局の前では、学校帰りらしい小学生たちが並んでいる。普通の夕方の商店街。何も変わらない景色。私だけが、その景色から少しずれているような気がする。
家に着く。鍵を開ける。「ただいま」と言う。返事はない。いつも通りだ。
部屋に入って、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
「本日評価:B→B」と表示される。変化なし。
私はベッドに倒れ込んで、スマホをいじり始める。SNSを開く。タイムラインを眺める。美咲が部活の写真を投稿している。楽器の前で笑っている写真。「今日も楽しかった!」というコメント。その下にいくつかの「いいね」。その写真の中の美咲は、本当に楽しそうだ。先輩に囲まれて、フルートを持って、笑っている。私が知っている美咲と同じ顔なのに、どこか遠く感じられる。私はその写真を少し眺めて、また画面をスクロールする。
見慣れないアカウントが流れてくる。フォロワーでもない。おすすめに上がってきた投稿だ。制服を着た男子生徒の動画だ。桜ヶ丘高校の制服——見た瞬間に、そうだとわかった。
「帰宅部アプリ検証してみるw 今からわざと逆走」
動画が再生される。佐藤がスマホで自撮りしながら、笑っている。背景に学校の校門が映っている。その表情は軽薄で、何も怖がっていない様子だ。むしろ楽しんでいるような笑顔だ。「ただのバグアプリ」——椿にそう言ったという言葉が頭に浮かぶ。止めようとしたけど聞かなかった、と椿は言っていた。あの軽い笑顔を見ると、確かに止まらなそうだと思う。
「じゃあ行くわ。逆方向に——」
動画が途中で、音声だけになる。映像が乱れて、黒い画面に変わる。ノイズが走る。砂嵐のような画面が一瞬映って、それから完全に黒くなる。
音声も、数秒で途切れる。途切れる直前、何か声が聞こえた気がしたが、聞き取れなかった。
私は画面を見つめたまま、動けなかった。再生ボタンを押す。もう一度再生される。でも、途切れる場所は同じだ。「逆方向に——」のあと、映像が消える。音が消える。何も残らない。
動画が終わる。私は急いでアカウントを確認しようとする。でも、アカウントページが「存在しないページです」に変わっている。再読み込みしても、同じ表示が出てくる。ページは存在しない。たった今まで存在していたのに。
私は息を呑む。
スマホが振動する。
《部員情報が更新されました》
私は慌てて帰宅部アプリを開く。部員一覧を確認しようとする。指が震えて、画面をうまくタップできなかった。
田村楓、柊壮介、山田椿。
三人になっている。
佐藤良樹の名前が、消えている。さっきまであった名前が、もうない。最初から三人だったような表示になっている。四人目がいたという痕跡すら、画面のどこにも残っていない。
私はスマホを握りしめる。手が震える。指先が冷たくなっていく。さっき笑っていた顔が頭の中に浮かぶ。「じゃあ行くわ」という声。あんなに軽い声で言っていたのに。あんなに笑っていたのに。
佐藤良樹が——消えた。ルールを破って、消えた。本当に、消えた。ただのバグアプリじゃなかった。
◇
私はすぐに柊に連絡した。
「佐藤、消えた」
送信して、数秒で返信が来る。
「知ってる」
「あの動画見た?」
「見た。途中で切れてた」
「どこで?」
「逆走し始めた直後」
短い会話。でも確かなことが一つ増えた。ルールを破ると消える。それは本当だ。アプリは本当に、人を消す力を持っている。
私はスマホを置く。部屋が静かだ。リビングからテレビの音が聞こえる。外では誰かが自転車で通り過ぎた音がして、それからまた静かになった。夜の住宅街の静けさが、部屋の中まで染み込んでくるような気がした。
入部から三日目が終わった。五人いた部員が、三人になった。二日で二人が消えた。このままのペースが続けば——私は考えることをやめる。考えてもしかたない。
私は部員一覧をもう一度開く。田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前が並んでいる。
私は自分の名前を見る。
薄い気がする。画面を閉じて、もう一度開いて、また見る。やっぱり薄い気がする。柊の名前、椿の名前と見比べると——少しだけ薄い。気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃないかもしれない。昨日より薄い気がする。昨日より、確実に。
私はアプリを閉じて、スマホを枕元に置く。目を閉じる。でも、眠れない。佐藤良樹の動画が頭から離れない。笑っていた顔。「じゃあ行くわ」という声。そして途切れた映像。あの映像の続きには、何があったのか。あの声の先には、何が——。
次は誰だろう、と思う自分がいる。その考えが浮かんだこと自体が、怖かった。
◇
入部から四日目の朝、美咲はいつも通り明るかった。
教室に入ってくるなりの笑顔で、吹奏楽部の話を始める。私はどこか上の空で相槌を打っている。昨夜、佐藤良樹のことを考えながら、ほとんど眠れなかった。笑っていた顔。途切れた映像。部員一覧から消えた名前。その繰り返しが、ずっと頭の中を巡っていた。
「それでね、先輩が『美咲ちゃん、すごく上達してるよ』って褒めてくれて! 嬉しかった!」
「そうなんだ、よかったね」
私は適当に返事をする。美咲の声は聞こえているが、内容が頭に入ってこない。本当に嬉しそうだ。目が輝いていて、頬が上気している。昨日の練習のことを思い出しているのか、話しながら少し体が前のめりになっている。
美咲は何も知らない。帰宅部のことも、消えた生徒たちのことも、アプリのことも。美咲は普通の高校生活を送っている。部活があって、友達がいて、褒めてくれる先輩がいて、楽しいことがたくさんある。昨日のSNSの写真の中の美咲と、今目の前にいる美咲は、同じように輝いていた。
私も、そうなりたかった。でも、もう遅い。私は帰宅部に入ってしまった。戻れない。
「楓ちゃん?」
美咲が不安そうな顔で私を見つめている。眉が少し下がっていて、目に心配の色がある。話の途中で私の顔を見て、何かに気づいたらしい。
「最近元気ない気がするけど、大丈夫?」
私は慌てて笑顔を作る。頬の筋肉が重い。うまく笑えている自信がない。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
「そう? なんか心配」
美咲は少し眉を寄せる。でもそれ以上は聞いてこない。美咲はいつもそうだ。心配してくれるけど、深く追及しない。それが美咲の優しさだとわかっている。でも今は、その優しさが少しだけ遠く感じられた。もし話せたら、と思う気持ちと、話しても仕方ないという気持ちが、胸の中で混ざり合っている。
「本当に大丈夫だから」
私はもう一度笑顔を作る。美咲は少し心配そうな顔のまま、自分の席に座って教科書を取り出す。その横顔を見ながら、私は思う。美咲に話したら、どうなるだろう。でも——アプリの画面は美咲には見えない。証拠は何もない。話しても、信じてもらえるかどうかわからない。
私は黙って教科書を開く。授業が始まる。先生の声が聞こえてくるが、内容が頭に入ってこない。ただ、ノートに文字を書き写すだけの作業を続ける。時計を見ると、まだ一時間目だった。昼休みまで、まだ長い。
◇
四日目の昼休み、三人で図書室の奥に集まった。昨夜、椿が柊にも連絡を入れていたらしく、三人で話す場を設けることになっていた。先に着いていた二人は、特に何も言わずに私を待っていたようだった。椿はいつものようにノートを広げていて、柊は腕を組んで壁に寄りかかっている。
「佐藤のSNS、今朝また確認した」
柊が口を開く。その声には感情がない。ただ、事実を確認している声だ。
「動画は完全に消えた。でもコメントだけ残ってる」
柊がスマホを取り出して、画面を見せる。確かにコメントだけが宙に浮いている。「この人誰?」「制服どこの?」「なんの動画?」——コメントしている人たちは、何にコメントしているのかもわからなくなっている。動画本体もアカウントも消えているのに、コメントだけが取り残されている。画面を見ていると、胸の奥に奇妙な感覚が湧いてくる。確かに存在していた誰かの痕跡が、こんな形で残っている。
「コメントしてる人たちは覚えていない。でもコメント自体は残ってる」
ノートにペンを走らせながら、椿が言う。
「消去が完全じゃないのかもしれない。端っこだけ残る」
「端っこ?」
「本体は消えても、周辺の痕跡は残る。コメントとか、SNSの『いいね』の数とか、そういう間接的な記録」
「伊藤由依のときも同じだった」
柊が続ける。
「ニュースサイトのコメント欄に、誰かが『同じ学校の子だったのに』って書いてた。そのコメントだけは残ってる。ニュース本体は消えても」
三人は黙る。消去が完全じゃない。本体は消えても、端っこだけ残る。それが何を意味するのか、まだわからない。でも——どこかに痕跡が残るということは、完全に消えているわけじゃないということだ。そのことが、少しだけ救いのような気がした。でも同時に、怖くもあった。自分が消えたとき、どんな端っこが残るのだろう、と思ってしまったから。
「今わかってることに、昨日の新しい情報を加えて整理しよう」
椿がノートに書き始める。
「昨日の実験で、制限時間内に経路に戻れば評価への影響はないことがわかった」と私は口を開いた。
「それと——」
椿がノートに視線を落としたまま続ける。
「名前が薄くなっているの、気づいてる? 評価とは別の軸で動いている気がする」
昨夜私が感じたことを、椿はすでに言葉にしていた。私がベッドで天井を見つめながら考えていたことを、椿は整然とノートにまとめている。
「なぜ俺だけAで、楓がBで、椿が判定中だったのか」
柊が言う。腕を組んだまま、少し眉間に皺を寄せている。
「楓は経路逸脱の実験をした。それでBになったのかもしれない」
「私は——帰宅中にぼんやりしてた。気づいたら少し経路から外れてたかもしれない」
椿が答える。その声は平坦だが、少し間があった。自分の帰宅中の記憶を辿っているような間だ。
「だから判定中、か」
柊が低く呟く。三人は黙って考える。
「今日から、完璧に経路を守る」
私は口を開く。
「評価を上げれば、消えないかもしれない。根拠はないけど」
「他にできることもないしね」
椿がノートに目を落としたまま言う。その言葉の重さを、三人とも感じている。
しばらく沈黙が続く。窓の外では昼休みの生徒たちが話していて、その声がここまで届いてくる。笑い声、足音、誰かが呼ぶ声——普通の昼休みの音。でも静かな図書室の奥で、三人だけが別のことを考えている。
「俺の母親は夜勤が多い」
柊が唐突に言う。腕を組んだまま、窓の外に視線を向けている。
「家に帰っても誰もいないことが多い」
その言葉が、図書室の静寂に落ちる。柊は続けない。それだけ言って、また黙る。
椿が「私も家にいたくない」と小さく呟く。声が少し低い。
私は何も言えなかった。私もだ。「ただいま」と言っても返事がない家。母親はいるけど、私のことを気にかけてくれるわけじゃない。そしてそれは——佐藤が言っていた言葉と、重なる。「どうせ家帰っても誰もいないし、別にいいじゃん」。あの言葉は軽い口調だったけれど、その裏に何かがあった気がした。そして、三人とも——帰る場所に問題を抱えている。
「帰宅部に入った人間は、みんな——」
私は言いかけて、やめる。その先を言葉にするのが怖かった。「みんな、帰る場所を持っていない」。そう言ってしまったら、何かが確定してしまう気がした。
椿が私を見る。何を言いかけたかわかっているような目だ。でも何も言わない。ただ、ノートにペンを走らせる。何かを書き留めている。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。三人は立ち上がる。椿がノートを閉じる。柊が壁から背中を離す。
「今日も、アプリの指示通りに帰ろう」
柊が静かに言う。
「それしかできることはない」
私と椿は頷く。それぞれの教室に戻っていく。廊下に出ると、昼休みの喧騒が一気に戻ってくる。その中を歩きながら、私は三人それぞれが抱えている「帰る場所のなさ」のことを考えていた。それが全てに繋がっているような気がした。でも、どう繋がっているのかは、まだわからない。
◇
四日目の放課後、私は完璧に経路を守って帰った。
寄り道もしない。警告も出ない。ただ、指定された道を歩き続ける。商店街を通る。住宅街に入る。家に向かう。ただそれだけ。
歩きながら考える。評価をAにすれば、消えないのか。でも——本当にそれだけでいいのか。佐藤は評価を気にしていなかった。伊藤由依は、評価がどうだったかもわからない。評価とは別の何かが、消失に関係しているのかもしれない。でも今は、評価を上げること以外に試せることがない。
家に着いて、玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
返事はない。いつも通りだ。
私は部屋に入って、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
【評価】
田村楓:B→A
柊壮介:A
山田椿:B
私の評価が、Aになっていた。完璧に経路を守ったから、評価が上がった。椿もBになっている。判定中からようやく評価がついた。
私は少し安心する。でも、部員一覧を開いて、自分の名前を確かめずにはいられなかった。
やっぱり薄い。昨日より、少しだけ薄い。
評価を上げても、名前が薄くなるのは止まらない。私はその事実を、しばらく画面を見つめながら受け止める。評価はAになった。でも名前は薄くなっている。二つは連動していない。別のものだ。では、名前の濃さを決めているのは、何なのか。
私はスマホを置いて、ベッドに倒れ込む。天井を見つめる。どうすればいいのか。答えは、まだ見つからない。
◇
入部から五日目の朝、私は柊と椿に連絡した。
昨夜、深夜にアプリから通知が届いていた。時計を見ると夜中の二時で、振動で目が覚めた。暗い部屋の中で、スマホの画面だけが光っていた。
《部員各位へ:評価基準について》
《評価は帰宅成功率・経路遵守率・接触回避率により算出されます》
《評価がC以下になった場合、警告が発せられます》
《評価がD以下になった場合、帰宅失敗と判定される可能性があります》
眠れないまま朝を迎えて、二人に転送した。
昼休み、三人で図書室の奥に集まる。椿はすでにノートを開いていて、通知の内容を書き写していた。柊は画面を確認しながら、腕を組む。昨日と同じ場所、同じ並び方。三人でここに集まることが、もう習慣になりかけている。
「評価がD以下になったら、帰宅失敗と判定される」
私は通知の文面をそのまま読み上げた。
「つまり、消える」
椿が淡々と言う。その言葉が、静かな図書室に落ちる。誰も否定しない。
「私がA。柊もA。椿がB」
「評価は上がった。でも——」
椿がノートに視線を落とす。
「名前が薄くなるのは止まらない。評価と名前の濃さは、別の軸で動いてる」
その言葉が、三人の間に重く落ちる。評価を上げれば安全だと思っていた。でも違う。評価は帰宅の技術的な成否を示しているだけで、名前の濃さは——別の何かを示している。その「何か」が何なのか、まだわからない。
「楓の名前、昨日より薄い」
椿が私を見ながら言う。その目に感情はないが、事実を述べる声には少しだけ重みがある。
私は何も言えなかった。自分でも気づいていた。
三人の間に沈黙が落ちる。評価を上げても、名前が薄くなるのは止まらない。では、どうすればいいのか。椿のノートのペンが止まっている。柊は腕を組んだまま動かない。私も、何も言葉が出てこなかった。
答えは出ない。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。それを合図に、三人は立ち上がる。
「今日も、完璧に帰ろう」
柊が静かに言う。誰も何も返さなかった。それでも三人は頷き合って、それぞれの教室に戻っていく。廊下を歩きながら、私は思う。完璧に帰っても、名前が薄くなるのは止まらない。では、何が足りないのか。その問いだけが、頭の中に残る。
◇
五日目の放課後、私は完璧に経路を守って帰った。
寄り道もしない。警告も出ない。ただ、指定された道を歩き続ける。
歩きながら考える。評価はAになった。でも名前が薄くなるのは止まらない。何が足りないのか。何が、名前の濃さを決めているのか。
商店街を抜ける。住宅街に入る。夕方の光が街灯を照らしている。ある家の窓から、子どもの笑い声が聞こえる。「お母さん、今日ね、学校でね」という明るい声。「うん、うん」という母親の優しい声。「それでね、それでね」と続く子どもの声。母親が笑っている声。「そうなの。よかったね」という声。私は足を遅めて、その声を聞く。
別の家の窓から、テレビの音が聞こえる。「今日の夕飯、何にしようかしら」という声。「カレーでいいんじゃないか」という声。夫婦の会話。日常の声。また別の家から、料理をしている音が聞こえる。まな板の音。フライパンで何かを炒める音。醤油の匂いが漂ってくる。「いい匂い」という声。「今日はハンバーグよ」という声。「やった!」という声。
誰かと誰かが一緒にいる音が、あちこちから聞こえてくる。誰かの帰りを待っている人がいる音が。誰かのことを気にかけている人がいる音が。
私の家には、そういう音がない。「ただいま」に返事がない。母親はいるけど、私が帰ってきたことに気づかないこともある。気づいても、「おかえり」と言うだけで、また視線をテレビかスマホに戻す。私がそこにいることを、喜んでいない。
家が見えてくる。門の前の花が咲いている。ピンク色の花。名前は知らない。誰も手入れしていないのに、咲いている。誰も見ていないのに、咲いている。私はその花を少しの間眺めて、それから玄関のドアを開ける。
「ただいま」
返事はない。いつも通りだ。
私は自分の部屋に向かう。階段を上りながら、リビングが少しだけ視界に入る。母親がソファに座ってテレビを見ていた。私が帰ってきたことに気づいているのかどうか、わからない。テレビから目を離さないまま、私の存在を認識していないようだった。
ベッドに倒れ込んで、スマホを取り出す。
《本日の活動:成功》
評価を確認する。
【評価】
田村楓:A
柊壮介:A
山田椿:B
変化なし。私はノートに記録を書き込む。部員一覧を開く。田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前が並んでいる。
私の名前を見る。
やっぱり薄い。昨日より、少しだけ薄い。気のせいじゃない。確実に薄くなっている。朝見たときより、学校で見たときより——確実に薄くなっている。柊の名前、椿の名前と並べると、明らかに違う。
私はスマホを置いて、天井を見つめる。どうすればいいのか。どうすれば消えないのか。
◇
その夜、深夜にスマホが振動した。
時計を見ると、夜中の二時だった。部屋は暗い。スマホの画面だけが、青白い光を放っている。私は慌ててスマホを取る。帰宅部アプリからの通知だ。
《まだ帰れていない部員がいます》
私は画面を見つめる。まだ帰れていない部員? 三人のはずだ。私、柊、椿。全員、今日帰宅成功の通知を受け取ったはずだ。でも、まだ帰れていない部員がいる。誰のことか。
私はアプリの部員一覧を開く。田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前がある。画面を閉じる。もう一度開く。薄い。確実に、薄い。寝る前に確認したときより、さらに薄くなっている。
まだ帰れていない部員——それは、私のことか。
でも、今日ちゃんと帰れた。家に着いた。鍵を開けた。中に入った。《本日の活動:成功》という通知も受け取った。アプリは「成功」と言った。なのに——まだ帰れていない?
私はベッドに座る。スマホを見つめる。暗い部屋の中で、画面の光だけが顔を照らしている。
考える。家に着いた。鍵は開いた。中に入れた。でも——誰も私の帰りを待っていなかった。誰も、私がそこにいることを喜んでいなかった。「ただいま」に返事がなかった。ただ物理的に家に入っただけで、本当の意味で「帰って」いないのかもしれない。住宅街で聞こえた声を思い出す。「やった!」と言う子どもの声。「うん、うん」と言う母親の声。誰かの帰りを喜ぶ声。誰かの話を聞く声。私の家には、そういう声がない。
答えは、まだわからない。でも——何かが足りない。決定的に、何かが。
私は部屋の電気を消す。暗い天井を見つめる。窓の外からは虫の鳴き声が聞こえてきて、遠くで車の音がする。普通の夜だ。何も変わらない、いつもと同じ夜。
翌朝、《まだ帰れていない部員がいます》という通知は消えていた。代わりに、いつもの文言だけが残っていた。
《本日の活動目標:無事に帰宅すること》
私の名前は、今日も、少しだけ薄かった。
校門を出ると、アプリが振動する。《本日の活動開始》という通知が表示される。私はアプリを開いて、帰宅経路を確認する。今日も昨日と違う道が指定されている。商店街を通る道だが、いつもとは違う入口から入るように示されている。地図の上の青い線が、いつも使わない角を指している。
私は従って、指定された道を歩き始める。
歩きながら、昼休みに椿と話したことを思い返す。佐藤良樹が、今日わざと経路を外れると言っていた。どうなるのだろう。本当にただのバグアプリなら、何も起きない。でも——昨日、私が細い道で立ち止まっただけで警告が出た。アプリは確実に、何かを監視している。何かを判定している。
私はコンビニの前で足を止める。少しだけ試してみたくなった。警告が出た時点で戻ることを前提にしている。危険はないはずだ。入口に向かって数歩進む。
スマホが振動する。
《警告:帰宅経路から逸脱しています》
《指定経路に戻ってください》
《制限時間:30秒》
画面にカウントダウンが表示される。赤い数字が、一秒ずつ減っていく。
30……29……28……
私は二十秒で戻る。足を速めて、元の道に戻る。すると、すぐに警告が消えた。
《帰宅経路に復帰しました》
ペナルティは出ない。私は続けて、次の角で少しだけ経路を外れる。また警告。今度は十五秒で戻る。ペナルティなし。制限時間内に戻れば、評価には影響しない。
では昨日の「不要な接触」は何によって発生したのか。経路から外れることと、何かと関わることは別のルール違反なのかもしれない。でも「何かと関わる」の「何か」が昨日の声だったとしたら——立ち止まっただけで接触と判定されたということになる。考えながら帰るが、答えは出ない。私はそれ以上実験するのをやめて、指定された経路を歩き続ける。
商店街を抜ける。八百屋の前でお客さんが値段を交渉している声が聞こえる。薬局の前では、学校帰りらしい小学生たちが並んでいる。普通の夕方の商店街。何も変わらない景色。私だけが、その景色から少しずれているような気がする。
家に着く。鍵を開ける。「ただいま」と言う。返事はない。いつも通りだ。
部屋に入って、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
「本日評価:B→B」と表示される。変化なし。
私はベッドに倒れ込んで、スマホをいじり始める。SNSを開く。タイムラインを眺める。美咲が部活の写真を投稿している。楽器の前で笑っている写真。「今日も楽しかった!」というコメント。その下にいくつかの「いいね」。その写真の中の美咲は、本当に楽しそうだ。先輩に囲まれて、フルートを持って、笑っている。私が知っている美咲と同じ顔なのに、どこか遠く感じられる。私はその写真を少し眺めて、また画面をスクロールする。
見慣れないアカウントが流れてくる。フォロワーでもない。おすすめに上がってきた投稿だ。制服を着た男子生徒の動画だ。桜ヶ丘高校の制服——見た瞬間に、そうだとわかった。
「帰宅部アプリ検証してみるw 今からわざと逆走」
動画が再生される。佐藤がスマホで自撮りしながら、笑っている。背景に学校の校門が映っている。その表情は軽薄で、何も怖がっていない様子だ。むしろ楽しんでいるような笑顔だ。「ただのバグアプリ」——椿にそう言ったという言葉が頭に浮かぶ。止めようとしたけど聞かなかった、と椿は言っていた。あの軽い笑顔を見ると、確かに止まらなそうだと思う。
「じゃあ行くわ。逆方向に——」
動画が途中で、音声だけになる。映像が乱れて、黒い画面に変わる。ノイズが走る。砂嵐のような画面が一瞬映って、それから完全に黒くなる。
音声も、数秒で途切れる。途切れる直前、何か声が聞こえた気がしたが、聞き取れなかった。
私は画面を見つめたまま、動けなかった。再生ボタンを押す。もう一度再生される。でも、途切れる場所は同じだ。「逆方向に——」のあと、映像が消える。音が消える。何も残らない。
動画が終わる。私は急いでアカウントを確認しようとする。でも、アカウントページが「存在しないページです」に変わっている。再読み込みしても、同じ表示が出てくる。ページは存在しない。たった今まで存在していたのに。
私は息を呑む。
スマホが振動する。
《部員情報が更新されました》
私は慌てて帰宅部アプリを開く。部員一覧を確認しようとする。指が震えて、画面をうまくタップできなかった。
田村楓、柊壮介、山田椿。
三人になっている。
佐藤良樹の名前が、消えている。さっきまであった名前が、もうない。最初から三人だったような表示になっている。四人目がいたという痕跡すら、画面のどこにも残っていない。
私はスマホを握りしめる。手が震える。指先が冷たくなっていく。さっき笑っていた顔が頭の中に浮かぶ。「じゃあ行くわ」という声。あんなに軽い声で言っていたのに。あんなに笑っていたのに。
佐藤良樹が——消えた。ルールを破って、消えた。本当に、消えた。ただのバグアプリじゃなかった。
◇
私はすぐに柊に連絡した。
「佐藤、消えた」
送信して、数秒で返信が来る。
「知ってる」
「あの動画見た?」
「見た。途中で切れてた」
「どこで?」
「逆走し始めた直後」
短い会話。でも確かなことが一つ増えた。ルールを破ると消える。それは本当だ。アプリは本当に、人を消す力を持っている。
私はスマホを置く。部屋が静かだ。リビングからテレビの音が聞こえる。外では誰かが自転車で通り過ぎた音がして、それからまた静かになった。夜の住宅街の静けさが、部屋の中まで染み込んでくるような気がした。
入部から三日目が終わった。五人いた部員が、三人になった。二日で二人が消えた。このままのペースが続けば——私は考えることをやめる。考えてもしかたない。
私は部員一覧をもう一度開く。田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前が並んでいる。
私は自分の名前を見る。
薄い気がする。画面を閉じて、もう一度開いて、また見る。やっぱり薄い気がする。柊の名前、椿の名前と見比べると——少しだけ薄い。気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃないかもしれない。昨日より薄い気がする。昨日より、確実に。
私はアプリを閉じて、スマホを枕元に置く。目を閉じる。でも、眠れない。佐藤良樹の動画が頭から離れない。笑っていた顔。「じゃあ行くわ」という声。そして途切れた映像。あの映像の続きには、何があったのか。あの声の先には、何が——。
次は誰だろう、と思う自分がいる。その考えが浮かんだこと自体が、怖かった。
◇
入部から四日目の朝、美咲はいつも通り明るかった。
教室に入ってくるなりの笑顔で、吹奏楽部の話を始める。私はどこか上の空で相槌を打っている。昨夜、佐藤良樹のことを考えながら、ほとんど眠れなかった。笑っていた顔。途切れた映像。部員一覧から消えた名前。その繰り返しが、ずっと頭の中を巡っていた。
「それでね、先輩が『美咲ちゃん、すごく上達してるよ』って褒めてくれて! 嬉しかった!」
「そうなんだ、よかったね」
私は適当に返事をする。美咲の声は聞こえているが、内容が頭に入ってこない。本当に嬉しそうだ。目が輝いていて、頬が上気している。昨日の練習のことを思い出しているのか、話しながら少し体が前のめりになっている。
美咲は何も知らない。帰宅部のことも、消えた生徒たちのことも、アプリのことも。美咲は普通の高校生活を送っている。部活があって、友達がいて、褒めてくれる先輩がいて、楽しいことがたくさんある。昨日のSNSの写真の中の美咲と、今目の前にいる美咲は、同じように輝いていた。
私も、そうなりたかった。でも、もう遅い。私は帰宅部に入ってしまった。戻れない。
「楓ちゃん?」
美咲が不安そうな顔で私を見つめている。眉が少し下がっていて、目に心配の色がある。話の途中で私の顔を見て、何かに気づいたらしい。
「最近元気ない気がするけど、大丈夫?」
私は慌てて笑顔を作る。頬の筋肉が重い。うまく笑えている自信がない。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
「そう? なんか心配」
美咲は少し眉を寄せる。でもそれ以上は聞いてこない。美咲はいつもそうだ。心配してくれるけど、深く追及しない。それが美咲の優しさだとわかっている。でも今は、その優しさが少しだけ遠く感じられた。もし話せたら、と思う気持ちと、話しても仕方ないという気持ちが、胸の中で混ざり合っている。
「本当に大丈夫だから」
私はもう一度笑顔を作る。美咲は少し心配そうな顔のまま、自分の席に座って教科書を取り出す。その横顔を見ながら、私は思う。美咲に話したら、どうなるだろう。でも——アプリの画面は美咲には見えない。証拠は何もない。話しても、信じてもらえるかどうかわからない。
私は黙って教科書を開く。授業が始まる。先生の声が聞こえてくるが、内容が頭に入ってこない。ただ、ノートに文字を書き写すだけの作業を続ける。時計を見ると、まだ一時間目だった。昼休みまで、まだ長い。
◇
四日目の昼休み、三人で図書室の奥に集まった。昨夜、椿が柊にも連絡を入れていたらしく、三人で話す場を設けることになっていた。先に着いていた二人は、特に何も言わずに私を待っていたようだった。椿はいつものようにノートを広げていて、柊は腕を組んで壁に寄りかかっている。
「佐藤のSNS、今朝また確認した」
柊が口を開く。その声には感情がない。ただ、事実を確認している声だ。
「動画は完全に消えた。でもコメントだけ残ってる」
柊がスマホを取り出して、画面を見せる。確かにコメントだけが宙に浮いている。「この人誰?」「制服どこの?」「なんの動画?」——コメントしている人たちは、何にコメントしているのかもわからなくなっている。動画本体もアカウントも消えているのに、コメントだけが取り残されている。画面を見ていると、胸の奥に奇妙な感覚が湧いてくる。確かに存在していた誰かの痕跡が、こんな形で残っている。
「コメントしてる人たちは覚えていない。でもコメント自体は残ってる」
ノートにペンを走らせながら、椿が言う。
「消去が完全じゃないのかもしれない。端っこだけ残る」
「端っこ?」
「本体は消えても、周辺の痕跡は残る。コメントとか、SNSの『いいね』の数とか、そういう間接的な記録」
「伊藤由依のときも同じだった」
柊が続ける。
「ニュースサイトのコメント欄に、誰かが『同じ学校の子だったのに』って書いてた。そのコメントだけは残ってる。ニュース本体は消えても」
三人は黙る。消去が完全じゃない。本体は消えても、端っこだけ残る。それが何を意味するのか、まだわからない。でも——どこかに痕跡が残るということは、完全に消えているわけじゃないということだ。そのことが、少しだけ救いのような気がした。でも同時に、怖くもあった。自分が消えたとき、どんな端っこが残るのだろう、と思ってしまったから。
「今わかってることに、昨日の新しい情報を加えて整理しよう」
椿がノートに書き始める。
「昨日の実験で、制限時間内に経路に戻れば評価への影響はないことがわかった」と私は口を開いた。
「それと——」
椿がノートに視線を落としたまま続ける。
「名前が薄くなっているの、気づいてる? 評価とは別の軸で動いている気がする」
昨夜私が感じたことを、椿はすでに言葉にしていた。私がベッドで天井を見つめながら考えていたことを、椿は整然とノートにまとめている。
「なぜ俺だけAで、楓がBで、椿が判定中だったのか」
柊が言う。腕を組んだまま、少し眉間に皺を寄せている。
「楓は経路逸脱の実験をした。それでBになったのかもしれない」
「私は——帰宅中にぼんやりしてた。気づいたら少し経路から外れてたかもしれない」
椿が答える。その声は平坦だが、少し間があった。自分の帰宅中の記憶を辿っているような間だ。
「だから判定中、か」
柊が低く呟く。三人は黙って考える。
「今日から、完璧に経路を守る」
私は口を開く。
「評価を上げれば、消えないかもしれない。根拠はないけど」
「他にできることもないしね」
椿がノートに目を落としたまま言う。その言葉の重さを、三人とも感じている。
しばらく沈黙が続く。窓の外では昼休みの生徒たちが話していて、その声がここまで届いてくる。笑い声、足音、誰かが呼ぶ声——普通の昼休みの音。でも静かな図書室の奥で、三人だけが別のことを考えている。
「俺の母親は夜勤が多い」
柊が唐突に言う。腕を組んだまま、窓の外に視線を向けている。
「家に帰っても誰もいないことが多い」
その言葉が、図書室の静寂に落ちる。柊は続けない。それだけ言って、また黙る。
椿が「私も家にいたくない」と小さく呟く。声が少し低い。
私は何も言えなかった。私もだ。「ただいま」と言っても返事がない家。母親はいるけど、私のことを気にかけてくれるわけじゃない。そしてそれは——佐藤が言っていた言葉と、重なる。「どうせ家帰っても誰もいないし、別にいいじゃん」。あの言葉は軽い口調だったけれど、その裏に何かがあった気がした。そして、三人とも——帰る場所に問題を抱えている。
「帰宅部に入った人間は、みんな——」
私は言いかけて、やめる。その先を言葉にするのが怖かった。「みんな、帰る場所を持っていない」。そう言ってしまったら、何かが確定してしまう気がした。
椿が私を見る。何を言いかけたかわかっているような目だ。でも何も言わない。ただ、ノートにペンを走らせる。何かを書き留めている。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。三人は立ち上がる。椿がノートを閉じる。柊が壁から背中を離す。
「今日も、アプリの指示通りに帰ろう」
柊が静かに言う。
「それしかできることはない」
私と椿は頷く。それぞれの教室に戻っていく。廊下に出ると、昼休みの喧騒が一気に戻ってくる。その中を歩きながら、私は三人それぞれが抱えている「帰る場所のなさ」のことを考えていた。それが全てに繋がっているような気がした。でも、どう繋がっているのかは、まだわからない。
◇
四日目の放課後、私は完璧に経路を守って帰った。
寄り道もしない。警告も出ない。ただ、指定された道を歩き続ける。商店街を通る。住宅街に入る。家に向かう。ただそれだけ。
歩きながら考える。評価をAにすれば、消えないのか。でも——本当にそれだけでいいのか。佐藤は評価を気にしていなかった。伊藤由依は、評価がどうだったかもわからない。評価とは別の何かが、消失に関係しているのかもしれない。でも今は、評価を上げること以外に試せることがない。
家に着いて、玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
返事はない。いつも通りだ。
私は部屋に入って、アプリを開く。
《本日の活動:成功》
【評価】
田村楓:B→A
柊壮介:A
山田椿:B
私の評価が、Aになっていた。完璧に経路を守ったから、評価が上がった。椿もBになっている。判定中からようやく評価がついた。
私は少し安心する。でも、部員一覧を開いて、自分の名前を確かめずにはいられなかった。
やっぱり薄い。昨日より、少しだけ薄い。
評価を上げても、名前が薄くなるのは止まらない。私はその事実を、しばらく画面を見つめながら受け止める。評価はAになった。でも名前は薄くなっている。二つは連動していない。別のものだ。では、名前の濃さを決めているのは、何なのか。
私はスマホを置いて、ベッドに倒れ込む。天井を見つめる。どうすればいいのか。答えは、まだ見つからない。
◇
入部から五日目の朝、私は柊と椿に連絡した。
昨夜、深夜にアプリから通知が届いていた。時計を見ると夜中の二時で、振動で目が覚めた。暗い部屋の中で、スマホの画面だけが光っていた。
《部員各位へ:評価基準について》
《評価は帰宅成功率・経路遵守率・接触回避率により算出されます》
《評価がC以下になった場合、警告が発せられます》
《評価がD以下になった場合、帰宅失敗と判定される可能性があります》
眠れないまま朝を迎えて、二人に転送した。
昼休み、三人で図書室の奥に集まる。椿はすでにノートを開いていて、通知の内容を書き写していた。柊は画面を確認しながら、腕を組む。昨日と同じ場所、同じ並び方。三人でここに集まることが、もう習慣になりかけている。
「評価がD以下になったら、帰宅失敗と判定される」
私は通知の文面をそのまま読み上げた。
「つまり、消える」
椿が淡々と言う。その言葉が、静かな図書室に落ちる。誰も否定しない。
「私がA。柊もA。椿がB」
「評価は上がった。でも——」
椿がノートに視線を落とす。
「名前が薄くなるのは止まらない。評価と名前の濃さは、別の軸で動いてる」
その言葉が、三人の間に重く落ちる。評価を上げれば安全だと思っていた。でも違う。評価は帰宅の技術的な成否を示しているだけで、名前の濃さは——別の何かを示している。その「何か」が何なのか、まだわからない。
「楓の名前、昨日より薄い」
椿が私を見ながら言う。その目に感情はないが、事実を述べる声には少しだけ重みがある。
私は何も言えなかった。自分でも気づいていた。
三人の間に沈黙が落ちる。評価を上げても、名前が薄くなるのは止まらない。では、どうすればいいのか。椿のノートのペンが止まっている。柊は腕を組んだまま動かない。私も、何も言葉が出てこなかった。
答えは出ない。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。それを合図に、三人は立ち上がる。
「今日も、完璧に帰ろう」
柊が静かに言う。誰も何も返さなかった。それでも三人は頷き合って、それぞれの教室に戻っていく。廊下を歩きながら、私は思う。完璧に帰っても、名前が薄くなるのは止まらない。では、何が足りないのか。その問いだけが、頭の中に残る。
◇
五日目の放課後、私は完璧に経路を守って帰った。
寄り道もしない。警告も出ない。ただ、指定された道を歩き続ける。
歩きながら考える。評価はAになった。でも名前が薄くなるのは止まらない。何が足りないのか。何が、名前の濃さを決めているのか。
商店街を抜ける。住宅街に入る。夕方の光が街灯を照らしている。ある家の窓から、子どもの笑い声が聞こえる。「お母さん、今日ね、学校でね」という明るい声。「うん、うん」という母親の優しい声。「それでね、それでね」と続く子どもの声。母親が笑っている声。「そうなの。よかったね」という声。私は足を遅めて、その声を聞く。
別の家の窓から、テレビの音が聞こえる。「今日の夕飯、何にしようかしら」という声。「カレーでいいんじゃないか」という声。夫婦の会話。日常の声。また別の家から、料理をしている音が聞こえる。まな板の音。フライパンで何かを炒める音。醤油の匂いが漂ってくる。「いい匂い」という声。「今日はハンバーグよ」という声。「やった!」という声。
誰かと誰かが一緒にいる音が、あちこちから聞こえてくる。誰かの帰りを待っている人がいる音が。誰かのことを気にかけている人がいる音が。
私の家には、そういう音がない。「ただいま」に返事がない。母親はいるけど、私が帰ってきたことに気づかないこともある。気づいても、「おかえり」と言うだけで、また視線をテレビかスマホに戻す。私がそこにいることを、喜んでいない。
家が見えてくる。門の前の花が咲いている。ピンク色の花。名前は知らない。誰も手入れしていないのに、咲いている。誰も見ていないのに、咲いている。私はその花を少しの間眺めて、それから玄関のドアを開ける。
「ただいま」
返事はない。いつも通りだ。
私は自分の部屋に向かう。階段を上りながら、リビングが少しだけ視界に入る。母親がソファに座ってテレビを見ていた。私が帰ってきたことに気づいているのかどうか、わからない。テレビから目を離さないまま、私の存在を認識していないようだった。
ベッドに倒れ込んで、スマホを取り出す。
《本日の活動:成功》
評価を確認する。
【評価】
田村楓:A
柊壮介:A
山田椿:B
変化なし。私はノートに記録を書き込む。部員一覧を開く。田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前が並んでいる。
私の名前を見る。
やっぱり薄い。昨日より、少しだけ薄い。気のせいじゃない。確実に薄くなっている。朝見たときより、学校で見たときより——確実に薄くなっている。柊の名前、椿の名前と並べると、明らかに違う。
私はスマホを置いて、天井を見つめる。どうすればいいのか。どうすれば消えないのか。
◇
その夜、深夜にスマホが振動した。
時計を見ると、夜中の二時だった。部屋は暗い。スマホの画面だけが、青白い光を放っている。私は慌ててスマホを取る。帰宅部アプリからの通知だ。
《まだ帰れていない部員がいます》
私は画面を見つめる。まだ帰れていない部員? 三人のはずだ。私、柊、椿。全員、今日帰宅成功の通知を受け取ったはずだ。でも、まだ帰れていない部員がいる。誰のことか。
私はアプリの部員一覧を開く。田村楓、柊壮介、山田椿。三人の名前がある。画面を閉じる。もう一度開く。薄い。確実に、薄い。寝る前に確認したときより、さらに薄くなっている。
まだ帰れていない部員——それは、私のことか。
でも、今日ちゃんと帰れた。家に着いた。鍵を開けた。中に入った。《本日の活動:成功》という通知も受け取った。アプリは「成功」と言った。なのに——まだ帰れていない?
私はベッドに座る。スマホを見つめる。暗い部屋の中で、画面の光だけが顔を照らしている。
考える。家に着いた。鍵は開いた。中に入れた。でも——誰も私の帰りを待っていなかった。誰も、私がそこにいることを喜んでいなかった。「ただいま」に返事がなかった。ただ物理的に家に入っただけで、本当の意味で「帰って」いないのかもしれない。住宅街で聞こえた声を思い出す。「やった!」と言う子どもの声。「うん、うん」と言う母親の声。誰かの帰りを喜ぶ声。誰かの話を聞く声。私の家には、そういう声がない。
答えは、まだわからない。でも——何かが足りない。決定的に、何かが。
私は部屋の電気を消す。暗い天井を見つめる。窓の外からは虫の鳴き声が聞こえてきて、遠くで車の音がする。普通の夜だ。何も変わらない、いつもと同じ夜。
翌朝、《まだ帰れていない部員がいます》という通知は消えていた。代わりに、いつもの文言だけが残っていた。
《本日の活動目標:無事に帰宅すること》
私の名前は、今日も、少しだけ薄かった。


