ダイニングテーブルに置かれた、大きなスタンドミラー。
私はその前の椅子に座るように促されて、ケープをかけられた。
男の子は手際よく、私の髪を霧吹きで濡らしていくと、細いコームで丁寧に梳いていく。
「……じゃあ、本当に良いんだな?」
鏡越し、銀色のハサミを持った男の子と目が合った。
私が小さく頷く。
「ちゃんと、お金、払いますから。思い切りやっちゃってください」
「いや、ダメ。お金は受け取れない」
「で、でも……」
元々、美容室でお願いしようと思っていたことをやってもらうのだ。タダでやってもらうなんて、そんなの申し訳なさすぎる。
「俺はプロじゃない。美容師の資格もないから、お金もらったらダメなんだよ」
男の子はひとつ息を吐いてから、そう説明してくれた。
「受け取りたくないからとか、そういうんじゃない」
そこにあったのは、お金を受け取ってはいけないちゃんとした理由で、私は納得して頷いた。
「……じゃあ、お礼がケーキっていうのは、どうでしょう……?」
私は少しだけ考えてから、提案する。
「ああ、それなら問題ないと思う」
男の子が手元のハサミへと少し視線を下げてから、
「俺、甘いもの好きなんだよねぇ」
ふっと柔らかく笑った。
私はその笑顔に、ホッと肩の力を抜いた。
「じゃあ、お礼にケーキ、奢ります。高いのでも、ワンホールでも、お好きなもの、どうぞ!」
「ひとりでワンホールって。いや、一回やってみたいけど」
男の子は、一頻り肩を揺らして笑うと、深く一度息を吸ってから吐き出した。
鏡に映ったその子の瞳が、途端に真剣なものに変わった。
「万が一失敗したら、俺がケーキ奢るから」
その言葉と共に、サクッと小気味のいい音がした。
はらり、と私の長い髪が床に落ちていくのが見えて、私はゆっくりと自分の気持ちをそこに置いていくように、そっと目を閉じた。
これが、私、網倉翠と、内海澄春くんの、最初の出会いだった。
◇
『サロン・ド・レーヴ』には、ボサノバ調の明るく軽やかな曲が流れている。
「ほら、動かずじっとして」
「はい」
私は、少しだけ腰の位置を直して、鏡を真っ直ぐ見つめた。
内海先輩の目が、あの日と同じように真剣に私の髪に向けられる。サク、サク、と気持ちの良い音と共に、私の髪がはらはらと、まるで桜の花びらが散るように床に落ちていった。
中学二年の夏から、二年が経つ。私は、あの日からずっと、髪が少し伸びるたびに内海先輩に髪を切ってもらっている。
あの日、先輩はとても上手に私の髪を切ってくれた。頭が軽くなって、それと一緒に気持ちが嘘のように軽くなった。
圧し潰されてしまっていた肺が広がったように、息がしやすくなったのを覚えている。
その約束通り、そのあと一緒にケーキを食べに行って、その帰り際――……。
――また、モヤモヤしたら髪、切りに来いよ。
もう一度、先輩に髪を切ってもらおうって思ったのは、その言葉がキッカケだった。
髪を切ってもらって、気持ちはスッキリした。けれど、それだけで簡単に吹っ切ることができるくらい簡単な恋でもなかった。それくらい、私の中で千昭への恋心は大きなものだったから。
千昭とは、その後も同じ学校に通っているから、当たり前に同じ時間を過ごさなければいけなくて、当然顔を合わせる日も続いていく。嫌でも、あの告白した日のことを思い出したり、些細な仕草で一喜一憂する日々だった。
その度に私は、少しだけ伸びた髪を内海先輩に整えてもらった。そうすると、嘘のように気持ちが落ち着いた。
それが中学三年生になっても続いて、また時が流れて夏が来て、季節が巡って、私は高校生になった。
私は目を伏せず、先輩の手元を鏡越しに見つめる。
先輩の指が、私の髪に触れるたびに、胸が高鳴るようになったのは、いつからだっただろうか。
いつから、千昭への恋心が薄れて、モヤモヤしなくなって、それと入れ替わるように先輩のことが気になるようになったんだっけ……。
私は長いケープの下、制服のスカートの上で手をぎゅっと握り込んだ。
私はその前の椅子に座るように促されて、ケープをかけられた。
男の子は手際よく、私の髪を霧吹きで濡らしていくと、細いコームで丁寧に梳いていく。
「……じゃあ、本当に良いんだな?」
鏡越し、銀色のハサミを持った男の子と目が合った。
私が小さく頷く。
「ちゃんと、お金、払いますから。思い切りやっちゃってください」
「いや、ダメ。お金は受け取れない」
「で、でも……」
元々、美容室でお願いしようと思っていたことをやってもらうのだ。タダでやってもらうなんて、そんなの申し訳なさすぎる。
「俺はプロじゃない。美容師の資格もないから、お金もらったらダメなんだよ」
男の子はひとつ息を吐いてから、そう説明してくれた。
「受け取りたくないからとか、そういうんじゃない」
そこにあったのは、お金を受け取ってはいけないちゃんとした理由で、私は納得して頷いた。
「……じゃあ、お礼がケーキっていうのは、どうでしょう……?」
私は少しだけ考えてから、提案する。
「ああ、それなら問題ないと思う」
男の子が手元のハサミへと少し視線を下げてから、
「俺、甘いもの好きなんだよねぇ」
ふっと柔らかく笑った。
私はその笑顔に、ホッと肩の力を抜いた。
「じゃあ、お礼にケーキ、奢ります。高いのでも、ワンホールでも、お好きなもの、どうぞ!」
「ひとりでワンホールって。いや、一回やってみたいけど」
男の子は、一頻り肩を揺らして笑うと、深く一度息を吸ってから吐き出した。
鏡に映ったその子の瞳が、途端に真剣なものに変わった。
「万が一失敗したら、俺がケーキ奢るから」
その言葉と共に、サクッと小気味のいい音がした。
はらり、と私の長い髪が床に落ちていくのが見えて、私はゆっくりと自分の気持ちをそこに置いていくように、そっと目を閉じた。
これが、私、網倉翠と、内海澄春くんの、最初の出会いだった。
◇
『サロン・ド・レーヴ』には、ボサノバ調の明るく軽やかな曲が流れている。
「ほら、動かずじっとして」
「はい」
私は、少しだけ腰の位置を直して、鏡を真っ直ぐ見つめた。
内海先輩の目が、あの日と同じように真剣に私の髪に向けられる。サク、サク、と気持ちの良い音と共に、私の髪がはらはらと、まるで桜の花びらが散るように床に落ちていった。
中学二年の夏から、二年が経つ。私は、あの日からずっと、髪が少し伸びるたびに内海先輩に髪を切ってもらっている。
あの日、先輩はとても上手に私の髪を切ってくれた。頭が軽くなって、それと一緒に気持ちが嘘のように軽くなった。
圧し潰されてしまっていた肺が広がったように、息がしやすくなったのを覚えている。
その約束通り、そのあと一緒にケーキを食べに行って、その帰り際――……。
――また、モヤモヤしたら髪、切りに来いよ。
もう一度、先輩に髪を切ってもらおうって思ったのは、その言葉がキッカケだった。
髪を切ってもらって、気持ちはスッキリした。けれど、それだけで簡単に吹っ切ることができるくらい簡単な恋でもなかった。それくらい、私の中で千昭への恋心は大きなものだったから。
千昭とは、その後も同じ学校に通っているから、当たり前に同じ時間を過ごさなければいけなくて、当然顔を合わせる日も続いていく。嫌でも、あの告白した日のことを思い出したり、些細な仕草で一喜一憂する日々だった。
その度に私は、少しだけ伸びた髪を内海先輩に整えてもらった。そうすると、嘘のように気持ちが落ち着いた。
それが中学三年生になっても続いて、また時が流れて夏が来て、季節が巡って、私は高校生になった。
私は目を伏せず、先輩の手元を鏡越しに見つめる。
先輩の指が、私の髪に触れるたびに、胸が高鳴るようになったのは、いつからだっただろうか。
いつから、千昭への恋心が薄れて、モヤモヤしなくなって、それと入れ替わるように先輩のことが気になるようになったんだっけ……。
私は長いケープの下、制服のスカートの上で手をぎゅっと握り込んだ。


